母校である芦屋市立精道小学校(同市精道町)では今でも、1月17日に児童が中心になって追悼式を開いており、毎年参列させていただいている。

 小学6年が主体となり、追悼式に向けて震災を学んでいく。当時もそうだった。兄が6年の時に遺族代表あいさつをしていたことから、「自分もきっと話すことになるんだろうな」と思っていた。

 6年になってから、想像通り、担任の先生から遺族代表あいさつの提案をされ、その時は迷うことなく受け入れた。あいさつをしたいのではなく、しなければならない立場だと言い聞かせていた。

 総合的な学習の時間を使って、同級生は震災を学ぶ中、私は「父への手紙」を書くことになった。

震災で亡くなった父・謙さんの遺品のタイガース帽を手にする小島汀さん=神戸市東灘区本庄町1、レインボーハウス

 ただ、どうしても書けなかった。どうやって、どんな思いを書けば良いのか。気を紛らわすかのように何となく過ごしていた。

 ある日、学校の先生から「お父さんがいない寂しさ、今の思いをありのままに書けばいいんだよ」と言われたが、私は「寂しくないもん」と言い放った。

 私の様子に驚いた先生は、母に相談をしてくれたようだ。その時、母は「その通りだと思います。汀にとって、震災の記憶はほぼないから難しいと思うんです」と言ってくれた。

 決して寂しくないわけではないのに、強がってしまった自分がいた。でも、母はそんな私の感情を想像し、向き合ってくれたことがとてもうれしかった。

 なんとか書き上げた手紙には「お父さんと会えるなら、甲子園に行って六甲おろしを歌いたい」とつづり、伝えたのを今でも覚えている。(小島 汀)