物心つく頃には、父がいない。幼い頃の自分にとって、それが日常だったからこそ、人との違いを意識したことがなかった。

 ただ、初めて父がいない現実を突きつけられたのが、小学1年の懇談会の日だった。

 仕事をしている母が懇談会に遅れて来ることになった時、「自分にはお父さんがいないから、お母さんが働かないといけないんだ。お母さんは仕事で忙しいんだ」と自分なりに理解し、ほかの友だちとの違いに気がついた。

 心にぽかんと穴があいたような感覚になった。その頃から友だちがうらやましく、お父さんが話題に出てくるたび、感情をなくそうとしてしまう自分がいた。

ぬいぐるみがたくさんあり、子どもたちが思いを語り合う「おしゃべりの部屋」=神戸市東灘区本庄町

 学校では話せないそんな思いを語る場所が、1999年に開設された「あしなが育英会 神戸レインボーハウス」(兵庫県神戸市東灘区本庄町1)だった。

 偶然にも家から徒歩約10分。私の第二の実家のような場所になり、いつ行っても、職員の先生や併設している学生寮で暮らす大学生に相手をしてもらえた。

 小学校の頃は、学校から帰ったらレインボーハウスに行き、宿題をして帰る。大学生と一緒に食堂で夕ご飯を食べたり、プロ野球阪神タイガースの試合を最後まで応援したり。夏休みの自由研究もここでした。

 タンクトップ1枚でハウス内を駆け回り、外で水遊びをし、お好み焼きを作って食べ…。大学生の背中に思いきり乗っかることも多かった。

 土日ももちろん、行く場所はレインボーハウス。泊まることもあった。ここでは素でいることができ、全ての感情をここで発散していたのだろうと思う。あたたかい場所だった。

 レインボーハウスでは2週間に1度、同年代の友だちとのケアプログラムもあった。同じように震災で親を亡くした友だちがいて、どこにも吐けなかった心の内を明かすことができた。

 夏には一緒にキャンプ、冬にはスキー。何より「つらい思いをしてるのは、自分だけじゃないんだ」と思えることで、とても救われた。

 私は、小学校低学年までは暗いところや狭いところが怖かった。電気を付けていないと寝ることができなかったり、トイレの個室の扉を閉めることができなかったりと、震災のトラウマが残っていた。友人が何げなく発する「死ね」という言葉に、幾度となく傷つき、家に帰って母の顔を見て涙したこともあった。

 ただ、そんな自分のことを、あしなが育英会の先生は「当然であり、あんなに大きな震災を受けて、何もトラウマがないことの方がおかしい」と、母に助言してくれていたという。

 今思うと、当時の私は、幼いなりに震災の後の多くの壁をなんとか超えようとしていたのだと思う。

 震災から30年になるが、レインボーハウスで出会った友だちは、今もご縁が続き、親戚のように家族ぐるみで仲良くさせてもらっている。かけがえのない仲間だ。(小島 汀)