1995年1月17日午前5時46分。私たちのまちを阪神・淡路大震災が襲った。
当時、兵庫県芦屋市津知町のアパートの1階に住んでいた私たち家族は、がれきの下敷きになった。
母が私の身体を覆ってくれ、守ってくれた。がれきの中では母と兄が「お父さん!」と声をかけたが、声は返ってこなかった。父はタンスの下敷きになり、亡くなった。
がれきの中にいた私たちを救おうと、地域住民やレスキューの人が何度か声をかけてくれたそうだが、当時の私は出ようとしなかった。叔母がやってきて、ようやく外に出たという。約3時間半後のことだった。母は腰を骨折し、頭からも出血する大けがだった。
後で、倒壊した家の写真を見た時には、「こんな中で良く生きることができたな…」と思えるほど、悲惨な状況だった。
私の家の斜め向かいには、牧師の祖父と祖母が住む芦屋川教会があり、震災後はすぐに避難所として利用されることとなった。
祖父母は、息子である父が亡くなっている状況でありながら、街の人や信者さんのことを気にかけては動き回っていた。
そして、母はすぐに入院し、私は兄と2人で祖父母との避難所生活が始まった。
正直、その頃の記憶はほとんどない。ただ、毎日多くの人が避難所を行き来し、私と遊んでくれた。常に誰かの膝の上に座っていたようだ。海外からの支援もあったが、背が大きくて鼻の高い人に、私は思わず泣いてしまったらしい。
今思えば、3歳の私と7歳の兄。急に親がいない日々が始まり、生活もままならない中、私たちが寂しい思いをしないよう、祖父母や叔母はもちろん、多くの大人が相手をしてくれたのだと思う。
私たちの住んでいたアパートでは、父を含め5人が亡くなった。
お隣に住んでいて、庭を通って毎日のように遊んでいた米津家の「くにゆきくん」と「みりちゃん」も亡くなった。
兄の幼なじみだった。兄からすると、父と親友を一気に奪われた震災、どれほど憎かっただろう。想像もつかない。
2人とは、お正月は一緒に、家から歩いて5分ほどのグラウンドで、たこあげをして遊んだ。
今でも地元に帰り、グラウンドの横を通ると、その時の思い出がよみがえってくる感覚がある。(小島 汀)