
阪神・淡路大震災の体験者から学ぶ「第3回こども震災学校」が10月12日、神戸市須磨区千歳町2の千歳公園と千歳地区センターで開かれ、小学生ら8人と保護者ら計約20人が参加しました。
子どもたちは、20歳の次男秀光さんを亡くした崔敏夫さん(83)と、芦屋市の自宅が全壊し、小学校教諭として避難所運営に当たった田村勝太郎さん(82)と一緒に、震災で大きな被害を受けた千歳地区につくられた千歳公園を見学。震災からの歩みを伝える石碑や、災害時に消火や救助活動ができる防災機材などを見た後、2人の話を聞き、命を守る備えについて理解を深めました。(上田勇紀、名倉あかり)

震災で亡くした息子への思いを語る崔敏夫さん■自宅が倒壊 次男を亡くした 崔敏夫さん(83)「家族で防災訓練に参加して」
震災にあったのは私が53歳の時だった。まさか起こるとは夢にも思わなかった。災害はいつやってくるか分からない。そう思って生活するべきだ。
日本では、関東大震災、阪神・淡路大震災、東日本大震災と三つの大きな地震があった。関東大震災は火災、阪神・淡路大震災は建物の下敷きになる圧死、東日本大震災は津波による死者が多かった。災害にはいろんな種類があるけれど、予測ができない点で地震が一番怖いように思う。
次男の秀光は震災の時、大学の2年生だった。1月13日に東京から成人式のために神戸に帰ってきた。うれしそうに、照れ笑いをしながら。本当は16日に東京に戻る予定だったのに、風邪気味だったから、私が「17日に帰ったらええやないか」と引き留めた。それが最悪の結果になった。
16日夜には一緒に近くの銭湯に行って、「大学卒業したらどうするの」と話をした。そんな話をしたのは初めて。家に帰った後、秀光は風邪をうつさないように1階で寝た。
17日早朝の揺れは、立ち上がろうにも立ち上がれない。収まった後は暗黒の世界。真っ暗で物音一つしない。「秀光!」。名前を呼んでも返事がない。1階に下りようとすると、階段がない。2階建ての家の1階がつぶれていた。
外に出て、何とか秀光を掘り起こした。顔の半分がうっ血していた。見た瞬間、涙が止まらなかった。こらえようにも、こらえられなかった。
阪神・淡路大震災では、レスキュー隊や自衛隊が救助できたのはわずか。それ以外は家族や地域の人たちが助け出した。家族で地域の防災訓練に参加し、徹底して地震が起きたときのことを話し合っておくことだ。死んだら何にもならない。命を守ってほしい。

必要な備えを伝える田村勝太郎さん■避難所を運営した元小学校教諭 田村勝太郎さん(82)「君たちにもできることある」
(1995年1月17日の)地震から3日後、自転車で勤務先の神戸市兵庫区の小学校へ向かった。子どもが全員無事と聞き、心の中だけで喜んだ。学校に避難し、しょんぼりした様子の人がたくさんいたからね。
1年生の自分の教室をのぞいたら子どもはいないし、机もない。20人くらいの大人が寝たり座ったりしていた。飼っていた小鳥が鳴いていて、児童たちが「先生、餌やっといたからね」って。自分のお家も大変な時にうれしかった。
学校には800人が避難し、体育館や教室は人でいっぱい。しーんとしていた。高齢者も多く「死なせてなるものか」という気持ちだった。おしゃべりがないと、健康になれない。喫茶店を開こうと提案した。
理科室に行くと、避難者で分けられないようなインスタントコーヒーや紅茶、チョコレートがあった。大人だけで喫茶店を始めようとすると児童らが「やらせて」と言ってきた。安全に気を付けながら手伝ってもらった。
子どもたちはテレビに出てくるようなスターではない。でも、おじいちゃんおばあちゃんから「子どもの顔を見ると、つぶれてしまっても昔から住んでる町やな-とほっとする」と言われた。「頑張れと背中を押されている気がする」とも。みんな涙声で話していた。
「この八百屋には白菜と大根が売ってる」「ここの銭湯が開いてる」といった地域の情報を集めて体育館に掲示したり、歌を歌って避難者を励ましたりした子もいた。君たちにも、いくらでもできることがある。
最後に「命を守れ、死ぬな」と言いたい。一日の生活の中では、大人がいない時間もある。2018年の大阪府北部地震は午前7時58分に発生した。公園や駐車場など、いつも通っている道で地震から逃げられる安全な場所を探してみて。
