阪神・淡路大震災が起きたとき、「あなたの心の支えになったもの」について聞きました。寄せられた声を紹介します。(1)は「歌など」編です。
■玉置浩二さんの「正義の味方」(当時30歳、神戸市東灘区)
娘2人が小さくてショックで嘔吐(おうと)を繰り返し、夫の職場の方のご好意で大阪に避難しました。子どもを守るために強がりながらも、折れそうな私に、玉置浩二さんの「ガンバッテ 誰よりも ガンバッテ」の歌声。うん!お母ちゃん頑張るのだ!こらえるのだ!と泣き笑いで、ラジカセに1人話してました。=チャーちゃん(現在60代)
■オフコースの「君住む街へ」(当時30代、神戸市中央区)
家が全壊し、母を亡くし、事実上一家離散状態になって絶望していた時、この歌を繰り返し聴いて、ギリギリ自分を保っていた。=小島すずさん(現在60代)
■岡本真夜さんの「TOMORROW」(当時5歳、神戸市長田区)
震災が起きて、両親とともに近隣の小学校に避難しましたが、その後、比較的被害の少なかった親戚の家に移りました。ただそこから半年間は、あまりにも家族が大変だったのか、記憶がそれほどありません。ただ少し落ち着いて、自分たちの家に戻ってきた時に、親の車などから流れてたこの曲が、子どもながらにすごく印象に残っています。=西中島さん(現在30代)
■岡本真夜さんの「TOMORROW」(当時37歳、神戸市長田区)
子ども3人をひとり親で育てていました。自分が強く生きなければと、この曲を毎日聴いて、前を向くことができました。=ふじっ子さん(現在60代)
■岡本真夜さんの「TOMORROW」(当時30代、神戸市西区)
当時、大型ダンプカーの運転手をしており、震災復興に走り回っていた時、カーラジオからよく流れていた。=きんちゃんさん(60代)
■松任谷由実さんの「春よ、来い」(当時34歳、神戸市垂水区)
その年のNHKの朝ドラの主題歌。妻と娘が鹿児島県の実家に避難していて、その実家を訪れた時、テレビから流れてきました。歌詞が心に響き、励まされ、今でも聴くと、涙が出てきそうです。=はこちゃん1960さん(現在60代)
■松任谷由実さんの「春よ、来い」(当時30代、神戸市垂水区)
聴くたびに、季節的にも、神戸の街にも、心にも、春が早く来ますように、と何度も繰り返し聴いていました。聴くたびに涙していましたが…。被災状況は一部損壊でしたが、電気やガス、水道が止まり、物の流通が止まり、日々の暮らしも子ども2人を育てるのも大変だったことを思い出します。=はなみずきさん(現在60代)
■松任谷由実さんの「春よ、来い」(当時26歳、神戸市灘区)
当時、長男を妊娠中で、1カ月後に出産を控え、私は加古川市の主人の実家に避難しました。その時、「春よ、来い」が流れており、「やがてやがて迎えに来る」のフレーズで、震災は復興、全てが戻り回復するという期待を持ち、出産。1カ月後に神戸に戻り、今も生活しています。=ファミちゃんさん(現在50代)
■B’zの「ねがい」(当時18歳、西宮市)
自宅は、少しヒビが入った程度でしたが、もうすぐ卒業するはずだった神戸の学校は、中学棟が全壊でした。高校の卒業式は、延期。通学の電車は、線路が落ちたため、振り替え輸送。電車の中でずっと「ウォークマン」を聴きながら通っていた私は、音楽が癒やしでした。センター試験の翌々日に起こった地震。頭も気持ちも空っぽになった私は、浪人生になり、音楽を聴きながら予備校に通いました。電車の窓からは、見慣れた街の姿はなく、変わり果てた街で、見ていると涙が流れることもありましたが、この曲「願いよかなえ いつの日か そうなるように 生きてゆけ」を聴いて、前を向いて進もうと思いました。地震はなくならないけれど、早く復興できますように。また大きな地震があった時は、今回の事が教訓になりますように。そして、願うばかりではなく、自分もできることを頑張っていこう、と思えた曲でした。=Runさん(現在40代)
■SMAPの「がんばりましょう」(当時30代、西宮市)
震災の前年から闘病してた同級生が急変して亡くなった。震災関連死で友人が亡くなった。私がめげそうになると2人が「頑張れ頑張れ」と言ってるようで、踏ん張れた。震災直前に録音していて、よく聞いた。=みっちょんさん(現在60代)
■SMAPの「がんばりましょう」(当時15歳、神戸市垂水区)
テレビを見ることができる環境になった時、歌番組でこの曲を歌ってくれて、すごく励みになった。=くりくりパーマさん(現在40代)
■ペット・ショップ・ボーイズの「Go West」(当時21歳、京都市から甲南大に通学)
当時、武庫川を渡ると普通の日常が広がっていた。極端に言えば被災地の一歩外は別世界。私は大学とその近辺に住んでいる友人が心配で心配で、なんとかして連絡を取り、物資を持って会いに行った。その情報を集める時に大阪のラジオを聞いていた。よくかかっていたのが「Go West」で、ポジティブな曲調と「西へ行こう、支援に行こう」という被災地外からのメッセージが込められていて、自分ができることや行きたい気持ちを後押ししてくれた。=サカモトノゾミさん(現在50代)
■森山良子さんの歌(当時22歳、神戸市灘区)
私の家は震災で全壊し、小学校に避難していました。ライフラインも全て分断され、当時携帯電話も普及しておらず、何も外からの情報が入らない日々でした。救援物資だけでなく、その日の食料もままならない状況の中で、森山良子さんが小学校に来てくださって、何曲か歌を披露してくださいました。透き通った歌声と優しさに心が震え、勇気を頂きました。=やっしーさん(現在50代)
■TUBEの「傷だらけのhero」(当時26歳、西宮市)
熱闘甲子園のテーマソングになった「傷だらけのhero」の歌詞は心の支えになり、ずいぶん助けられました。ガスも止まったままの寒い部屋で、真夏の暑かった頃を思い出しながら1人で踊りながら暖をとっていました。当時は芦屋市内で路線バスに乗務していましたが、お客さまの「ありがとう」や「バスが動いてくれて助かった」など言葉をかけてくださったことが、道路状況が悪く大渋滞のなか運行している身にとって、がんばろうという気持ちを持続できました。=梅元博之さん(現在50代)
■KANさんの「愛は勝つ」(当時30代、神戸市東灘区)
絶望的になっていたときに、愛は勝つを聴いて、勇気づけられた。=杉ちゃん(現在50代)
■Mr.Childrenの歌(当時高校2年、神戸市長田区)
震災で、実家はめちゃめちゃになり、修学旅行もいつ行けるか分からなくなり、先行きなんて、全然分からなくて、現実を見たくないけど、そのままでいる訳に行かず。桜井和寿さんの姿や、ミスターチルドレンの曲に癒やされる事だけが、支えでした。=さくかずさん(現在40代)
■ZARDの「負けないで」(当時30代、神戸市中央区)
水道、電気、ガスが使えず、ボランティアのお風呂にお世話になり、ありがたかったです。パンやお弁当を頂き、助かりました。=ノンさん(現在60代)
■岡村孝子さんの「夢をあきらめないで」(当時30代、神戸市長田区)
神戸市長田区のアパートは全壊。しばらくは、同市北区の姉の家に住んでいました。=なにわ親父さん(現在60代)
■河内家菊水丸さんのCD(当時49歳、神戸市中央区)
ようやく通水し、ホッとしたが疲労困憊(こんぱい)で、家族の中も少しギクシャクしていた頃、菊水丸のCDで泣けました。笑っても良いのだ。泣いても良いのだ。頑張って、頑張って、疲れていた心に、ストンと落ち、心身ともに楽になりました。=エリスさん(現在70代)
■aikoさんのラジオ番組と歌(当時32歳、神戸市長田区)
全壊し、家財もろくに取り出せず、唯一助かったラジカセでさまざまな復興関連の情報を頼りに生き直しをしている途上、ただ一つの救いは、まだメジャーデビュー前だったアーティスト・aikoさんがパーソナリティーを務め、深夜帯にやっていた番組。応急仮設住宅から復興住宅に移り、コミュニティーも崩壊し、孤独でつぶれそうな時、aikoさんの明るいMCと歌に励ましてもらいました。29年たった今も、勇気をもらい続けてます。=MIDさん(現在60代)
■AMラジオのパーソナリティーの声(当時36歳、神戸市中央区)
普段とはまったく異なる環境、境遇の中、いつもと同じラジオから流れてくる声が、平常心を取り戻すきっかけとなった。=井筒秀明さん(現在60代)
■当時3歳の娘が歌う歌(当時30代、加古川市)
実家が神戸市長田区にあったが、交通網が切れて実家に行けず、様子が分からない中、「空が晴れたよ ワッハッハ」と歌ってくれる娘の声に元気をもらった。=「よっさん」さん(現在60代)
■中島みゆきさんの「時代」(当時19歳、神戸市灘区)
避難所生活で「輪番警ら隊」を言い渡され(若い者がいないという理由で)、たき火をしながら夜を明かす中、ラジオから流れてきた中島みゆきさんの「時代」を聞き、初めて泣くことができました。自宅は全壊。埋まっていた家族3人、通りがかりの方々に救っていただきました。私は看護学校にも通えず、母は精神不安定に。就職が決まっていた兄も、日銭を稼ぐしかなく就職は白紙になりました。避難所での生活が2カ月を過ぎた頃だったか…、突然閉鎖するので立ち退きをと迫られ、途方に暮れた日々。不動産業者は、ここぞとばかりに賃料の値上げをうたいました。「いっそ命を終えれた方が…」と、無の感情の中でただ生きた日々が、昨日の事のよう。そんな中、不意に届いた歌詞に、せきを切ったように涙がこぼれ、おえつしました。支えになったというよりは、生涯忘れないと刻まれた歌です。=ひまわりんさん(現在40代)
■ハイ・ファイ・セットの「卒業写真」(当時20代、神戸市東灘区)
震災直後の1995年4月3日に小田和正さんのフリーライブが神戸市の石屋川公園で行われました。このライブには元「ハイ・ファイ・セット」の山本潤子さんも参加されていて、小田さんの伴奏とコーラスで「卒業写真」を歌ってくれました。事前に告知はなかったので、観客は200人ほどだったそうですが、私は同じ公園内でボランティアをしていたので音だけを聴いていました。潤子さんの透き通った優しい声が震災で傷ついた神戸の空に響き渡っていたことが、とても印象的でした。=白いノートさん(現在50代)
■平松愛理さんの「美(うま)し都~がんばろやWe love KOBE」と「しあわせ運べるように」(当時10歳、神戸市須磨区)
幼い頃から出かけていた神戸・三宮の街が変わり果て、とてもこわく悲しい気持ちでしたが、そこで流れていた「美し都 がんばろや We love KOBE」の歌詞とともに、徐々に復興に向かっていく街を見て、気持ちも元気になっていきました。
また、学校で教わった「しあわせ運べるように」を毎日、皆で歌い、歌の歌詞から元気と勇気をもらい、優しい気持ちにもなりました。
=紅茶の雫さん(現在30代)
■岡本敦郎さんの「好きな町」(当時30歳、神戸市中央区)
小学校の時、県庁の見学でもらったペラペラのレコード。題も歌手名も分からず。歌詞は「海からきらめく光 光のなかに おきあがる町 おきあがる町 ああ この町が好き この町にすんで マドロスの マドロスの 口笛をきく」。家が壊れたり、会社がつぶれたりすることなどはなかったけれど、不安で不安で怖かった時、少しずつライフラインが復旧していく様子を見て、この歌を口ずさみながら自分を励ましてました。=「リエおば」さん(現在60代)
※リエおばさんの投稿では「題も歌手名も分からない」ということでしたが、神戸新聞が「日本コロムビア」に問い合わせたところ、岡本敦郎さんの「好きな町」と判明しました。
■古典落語の人情噺。古今亭志ん生、三遊亭圓生、桂米朝さんなど(当時35歳、神戸市垂水区)
会社は工場も本社も大被害で自宅待機。テレビもラジオも新聞も、暗いニュースばかりでめいった時、落語全集のCDを購入して、静かに聴いていると、大震災の事を一時的に忘れられ、笑いも復活した。古今亭志ん生の落語のマクラで関東大震災の経験談があり、酒屋でタダ酒をもらって飲んだ話を聴くと、阪神・淡路大震災のことも、数十年後には懐かしい笑い話になるのだろうと思えて、緊張感が緩んだ。=kegasaさん(現在60代)