阪神・淡路大震災が起きたとき、「あなたの心の支えになったもの」について聞きました。寄せられた声を紹介します。(2)は「ひと・もの・言葉など」編です。

 ■隣人、親戚の叔母叔父、避難先の家(当時20歳、神戸市東灘区)

 両親が朝早く、滋賀県へ仕事に。時間的に高速道路上なのが分かっていたので、隣人のお兄さんが運転する車で探しに。宙ぶらりんになったバスの反対車線で、ひっくり返った車の中から両親が。バスの方々、同じ高速道路にいた方々、たまたま下にいたクレーン車、たまたま救急車。全てにおいて助けていただき、両親は大けがを負いましたが無事に会えました。感謝しきれないくらいです。=ちいさん(現在50代)

 ■黒飴(当時3歳、神戸市垂水区)

 当時3歳でした。記憶がある最後の世代だと思っています。私も被災した瞬間の記憶はありません。残っている記憶は、広島の祖父祖母に預けられることになったこと。両親にしばらく会えないこと。悲しくて悲しくて、「行きたくない」と大泣きしたことです。広島の家には常に黒飴が置いてありました。最初は泣くのをあやすために。最後は好物になりました。その間、両親がどれだけ苦労して生活していたか。後から知りました。学校でも震災教育を受け続けましたが、当時は実感がありませんでした。20年がたち、靴メーカーに就職。神戸市長田区にある会社でした。復興が終わり、歌のように「生まれ変わった神戸の町」のイメージですが、テレビでは語られず、スポットも当たらず、「時が止まった」と感じる町でした。あの日消えていった、出会うことが出来なかった人が多くいることを実感したのは、この数年です。父は今でも寝てるときに腕時計を外しません。時間が分からない事がとても怖かったそうです。今は神戸を離れ、結婚もし、大病をしました。命を感じた時、初めていま生きていること。生きている大切な人に会えることをとてもかけがえのないものだと感じました。全てを急に失うかもしれない震災。これからも大切な人達との時間を一番に、毎日を大切に生きていこうと思います。=悠佑さん(現在30代)

全国から寄せられた救援物資=1995年1月、神戸市内

 ■街角の横断幕の言葉(当時28歳、神戸市兵庫区)

 仕事帰りに見た2号線の横断幕の言葉に励まされました。その横断幕には、「がんばれ神戸っ子」の言葉が掲げられていました。知らない誰かに応援されているみたいに思え、励まされている感じがしました。=菊地陽子さん(現在50代)

 ■家族の存在(当時8歳、神戸市長田区)

 自分の家族(母・父・姉・自身)と両祖母の家が比較的近くにあり、揺れから15~20分後(体感で)には、全員集まれたと思います。そこから小学校に避難をしながら、毎日行っていた丸五市場やいつもの通学路の家がペシャンコになっていたり、中で人が亡くなっていたりしたことが、幼いながらも頭の中では分かっていたように思います。目の前のいたる所で火の手が上がっているのは初めて見たのでかなりの恐怖でした。それでも家族が生きているという事実だけが心の支えになっていました。当時小2で、同級生が亡くなり、その子のお母さんのあの時の顔は忘れられません。母は僕を抱いて泣いていました。そこからしばらくは何をするにも家族で行動していました。正直それが全ての支えだったと思います。=オケイハンさん(現在30代)

 ■「大丈夫か?生きてるか?」の言葉(当時21歳、西宮市)

 当時は酒造会社で蔵人社員として勤務しており、震災前日から当直勤務でした。発災前に暗い寝室で「そろそろ起きよか!」と話してたら「ゴーー」と地鳴りとともに大きな揺れと屋根が私たち当直勤務者に落ちてきました。その時の記憶はありませんが、先輩社員が「大丈夫か?生きてるか?」と発声したので、それ以降は挨拶のように「大丈夫か?生きてるか?」とみんなと交わしてました。=なかざわかつひこさん(現在50代)

 ■お客様のお名刺(当時29歳、神戸市兵庫区)

 自宅は全焼しましたが、お店は半壊で、お客様が私の、安否確認が取れるまで名刺をドアに貼り続けてくれてたことです。=マミーさん(現在50代)

 ■子どもが無事に生まれたこと(当時32歳、神戸市東灘区)

 自宅、実家は全壊。震災当日、妻につわりが…。両親と家族で自衛隊のテント村へ。妊婦のテント生活は大変でしたが、8月に無事、生まれたことが心の支えでした。そして、地域のだんじり仲間がいてたから、非常に心強かったです。1995年に生まれた息子も今年29歳。一緒にだんじりに参加してます。=ともさん(現在60代)

 ■選抜高校野球で兵庫県の代表の3校(育英・神港学園・報徳学園)が、全力プレイで試合をしてくれたこと(当時13歳、明石市)

 3校とも被災していたが、必死に試合をしてくれた。報徳学園は、最後まで諦めないで試合をしてくれたことで、明るい希望をくれました。=カズさん(現在40代)

 ■避難途中の衣服販売店の方の言葉(当時26歳、神戸市灘区)

 自宅は全壊。乳児2人を連れて、車での避難でした。洗濯する余裕がなく、子供達の衣服を購入した時に「大変だけど、いつか笑顔になれるように祈っているから」と、子供達のためにガーゼのハンカチや靴下を余分に持たせてくれました。寒い時期だったので、とてもありがたかったです。=tomo_kojiさん(現在50代)

 ■「ええから、すぐに徳島へ帰って来い」という言葉(当時41歳、神戸市西区)

 姉の婿、義兄が「ええから、すぐに徳島へ帰って来い」と何回も言ってくれた。当時、テレビで倒れた阪神高速道路を見て、涙が止まらず、泣き叫んだ。家は揺れが凄く、三日三晩、怖くて寝れなかった。昼間にスーパーの駐車場で寝ても、余震があり、涙が出てばかりの記憶しかない。しばらくこの世の地獄の様な毎日で頭がボーッとしてました。熟睡が出来ない状態でした。=吉野礼子さん(70代)

 ■当時のプロ野球「オリックス・ブルーウェーブ」とイチロー選手。「がんばろうKOBE」のスローガン(当時40代、神戸市兵庫区)

 地震は関西には無関係だと思っていました。それが間違いで、とんでもない地震が兵庫県にきて、多くの人が亡くなり、皆が落ち込んでいた時、弱かったオリックスが「がんばろうKOBE」で力を一つにして優勝したこと。=「あみちゃん」さん(現在70代)

 ■オリックス・ブルーウェーブのリーグ優勝(当時15歳、神戸市西区)

 シーズン開幕ギリギリに復旧した地下鉄に乗って、グリーンスタジアム神戸に通いました。選手の皆さんも被災して大変だったはずなのに、優勝を達成できて感動しました。球団合併でバファローズとなってしまいましたが、今でも毎年1月17日には大阪の球団施設から神戸の方向に向けて黙祷を捧げています。震災を経験した球団スタッフ、ほとんどが震災後に生まれた選手たち、球団社長も練習見学に来たファンたちも一緒に震災の記憶をつないでいて、大事な機会だなと思います。=くるみぱんさん(40代)

優勝パレードするオリックスナイン=1995年11月、神戸市内

 ■ルミナリエの光(当時20代、神戸市西区)

 暖かかった。光が発する温度も感じました。=おやこどんぶりさん(現在50代)

 ■妻からの手紙(西宮市)

 同じ社宅に暮らしている同僚が、妻の手紙を預かって来てくれた。手紙は「自宅は私がなんとか頑張るから、手助けを必要としている人のために頑張って」という内容だった。=ナカムラさん(現在60代)

 ■阪急電車の社員の方(当時55歳、西宮市)

 パジャマ姿の家族にコートをかけてくださいました、そして温かいカップラーメンを出して下さいました。=正博さん(現在80代)

 ■親友との再会(当時16歳、西宮市)

 当時、地元の公立高校に通っていましたが、震災当日からしばらく休校。今のように、スマホが普及していない時代。でも、人から人へ、いろんな情報が流れていました。その内容は、前向きなものが多かったように思います。近所ではガスの臭いがしていたのでお互いに火を使わないよう声を掛けたり…。久しぶりの登校日、お互い怪我もなく親友と再会できたときは、涙しかありませんでした。=酸っぱい夏みかんさん(現在40代)

 ■温かいお風呂(当時40代、宝塚市)

 当時、電気は早く回復しましたが、ガスがなかなかで、お風呂になかなか入れませんでした。そんな時、比較的被害の少なかった友達が、お風呂に母と私を招待して下さいました。その気持ちが嬉しく、支えになりました。=pちゃんさん(70代)

 ■家族(当時30代、神戸市東灘区)

 主人の実家に二世帯同居中でした。被災直後から避難するか否か含めて相談しながら決めました。戦争経験のある義父の意見は貴重でした。「まるで戦後のよう」と話していたのを覚えています。2歳と3歳の息子が怪我をしなかったのが何よりで、「守っていかなければならない」と思いました。=よこやまさん(現在60代)

 ■近くで助けに来てくれた自衛隊の方々(当時11歳、伊丹市)

 半壊した長屋に住んでいました。数件の閉じ込めや、下敷きになった人たちがいたことを覚えています。ちょうど道路を挟んで向かいに陸上自衛隊の中部方面総監部があり、すぐに救助に駆けつけてくれました。救助に炊き出しにと、子どもながら見とれていました。=シーグルさん(現在30代)

 ■空(当時15歳、神戸市灘区)

 当時は、一部損壊した家の片付けをしたり、余震がひどい時は知り合いの家に身を寄せていたり、学校がない間は避難所にボランティアに行ったりしていました。大人たちが時折見せる不安な顔。さらには受験直前だったこともあり、子どもながらに不安な気持ちでいっぱいでした。そんな時、小さい頃から両親に言われていた「つらい時は息を吸い込んで上を見上げなさい。空は広い。顔を上げると息もしやすいし、涙も引っ込むよ」という教えから、不安な時は空を見上げていました。両親が言っていた通り、どんな時間の空も、つらい気持ちをなぐさめてくれました。=みほさん(現在40代)

 ■家族や職場の先輩(当時25歳、神戸市東灘区)

 神戸の空襲や水害を経験していて気持ちが強く前向きな母と、しっかりした姉に精神的に支えられました。職場は、避難所になった小学校。初めての大規模な避難所運営で、若かった私たちに、先輩が仕事を割り振ってくれました。職場の雰囲気が明るく、毎日夢中で目の前のことに一生懸命取り組めました。同僚や友人が亡くなり、家は損壊しましたが、周りの人のおかげで前向きに過ごせました。尊敬と感謝の念でいっぱいです。しばらくしたら学校が再開しました。子供たちの笑顔や、子供たちに頼りにされる教師という仕事があったから、明るく必死で毎日を過ごせました。=「ふわちゃん」さん(現在50代)

 ■人の温かさ(当時46歳、神戸市長田区)

 家は半壊。震災当時、生きた心地がせず、最初6カ月間が1番大変でしたが、とにかく家族4人が生きて、その日その日を前に進めていくことに精いっぱいでした。私の心の支えになったことは、自衛隊の隊員さん、遠くから来ていただいたドクター、ボランティアさんなど、人の温かさでした。自衛隊の隊員さんは、被災者を助けるため、黙々と活動してくださり、自分たちは寒い中、トラックの中で缶詰を食べておられるのを見かけて、胸が熱くなりました。小学校の校庭にお風呂を設置してくださり、10日ぶりに入浴でき、生き返ったように嬉しかったことも。また、当時はインフルエンザが流行していましたが、大阪の日赤病院の若いドクターが、たくさんの薬を避難所に持参してくださり、助かりました。関東の方から来た高校生か大学生かは、近くの公園で自転車のパンク修理をしてくださいました。人様の心の温かみを感じ、頭が下がる思いをしたことを覚えています。=ひろひろさん(現在70代)

 ■子どもたち(当時20代、神戸市中央区)

 避難所でも楽しそうにしている子どもを見て、この子たちのためにも「絶対負けへん」って強く思いました。=いちご大福さん(現在50代)

 ■教師としての仕事(当時37歳、明石市)

 勤務先の神戸市西区の学校は避難所にならなかったので、2、3日おきに、同市長田区の学校に支援に行った。自身の勤務先で午前中は授業をし、昼から晩まで避難所の支援、泊まり込んだり、夜半過ぎに帰宅したりする生活が3カ月続いた。しかし、疲労感はなかった。目の前の子どもたちや避難している人々のために、自分ができることに夢中だった。その後、同市中央区の公的施設で避難所運営に関わった。避難されている人は高齢者が多く、日々、話を聞いたり声をかけたりするなかで、次第に笑顔が多く見られるようになってきたことが忘れられない。=明石太郎さん(60代)

 ■実父の言葉(当時26歳、神戸市須磨区)

 実家も私も被災して、家がなくなりました。公園で自家用車で生活していた時に、私が「もぅいいや、どうせ死んでたかも分からないし、このままでいいわ」と言うと、父が「そんなん言うててどないするねん。生きてるんやから、まだまだ働いて生きないと」と言い、あらためて頑張る気持ちになりました。私たち家族はたまたま運良く助かったのです。父は忘れ物を取りに2階に上がってました。母と私の長男と猫は同じ布団で寝ていて、倒壊した建物の下敷きになったのですが、ご近所の人たちに掘り返してもらい、ギリギリ助かりました。祖母は、たまたま入院していて助かりました。もし家で寝ていたら、ベッドにコンクリートが刺さってたので、命を落としてたと思うと、ゾッとしました。=藤井美賀さん(現在50代)

 ■カレーと親友の優しさ(当時31歳、神戸市長田区)

 家は全壊しましたが、家族全員無事でした。あの頃私を励ましてくれた母。家族ぐるみで仲良くしていた親友は、お風呂に長期間入れなかった私たちを家に招いてくれてカレーを振る舞ってくれました。その時頂いたカレーと親友の優しさは間違いなく今も心の支えになってます。親友を始め、たくさんの人の支えがなければ今の私は存在しません! ただただ感謝。=あやっちさん(現在60代)

 ■ご近所の人、友人、周りのすべての人(当時26歳、神戸市中央区)

 正直、歌や本などにふれる機会がなく、ただ毎日を何とかしていたという日々でした。そんな中で、周りのすべての人が、何とか日常を取り戻そうと頑張る姿に勇気をもらっていたと記憶しています。あまり顔を合わせたことのないお隣さんが、震災直後からずっとドアを叩いて呼びかけてくれたことを、後に知りました。我が家は震災前日から旅行に出ていて留守だったんです。友人らと連絡を取るすべもなかったけれど、すぐに子ども服を送ってくれた人、届けてくれた郵便屋さん、とにかくみんなが頑張る姿を見て、何とか頑張れそうと思っていました。=ごまさん(現在50代)

ホテルの壁面に浮かび上がった「ファイト」の文字=1995年2月、神戸市内

 ■野茂英雄さんの活躍(当時33歳、神戸市北区)=中川正彦さん(現在60代)

 ■避難所になっている小学校に支援に来てくれた恩師(当時17歳、神戸市須磨区)

 恩師は、救援物資が届くと、放送で同窓生を呼んで手伝いをさせてくれた。当時、高校生で学校もなく、友達も久しぶりに会うからぎこちなく、手伝えることもなく…、という居心地の悪い状況だったが、救援物資を運んだり、配ったりするお手伝いをする中で、同窓生ともまたたくさん話せるようになったし、避難所の中でも知り合いが増え、子守りを頼まれたり、居場所ができた。=神戸花子さん(現在40代)

 ■両親の「生きていてくれて良かった」という心底からの言葉(当時40代、神戸市須磨区)

 部屋の中の洋服だんすなどが崩れたけれど、うまく支え合って下敷きにならずに済んだ。両親の寝室も、さんにたんすが支えられた形で命拾いができた。そんな状況でも私の身を一番に案じて、言った第一声。=ケイタンさん(現在70代)

 ■ボランティア(当時45歳、神戸市西区)

 交通手段が途絶えた中、近隣府県から徒歩や自転車で自然発生的に集まっていただいた若いボランティアの活躍が支えになった。=高橋守雄さん(現在70代)

ボランティアがつくってくれたカレー=1995年1月、芦屋市内

 ■JR住吉駅の「シーア」の店頭に貼ってあった張り紙(当時45歳、神戸市東灘区)

 以下、張り紙に記述されたシーアの店長の言葉の要約。「東灘区は水害、戦災、そして地震があったが、過去2回は短期間によみがえりました。今回も助け合って復旧を目指しましょう。『一人は万人のために、万人は一人のために』」=Carlosさん(現在70代)

 ■生まれ育ったきれいな神戸に住み続けるというプライド(当時15歳、神戸市灘区)

 家が半壊し、パジャマの汚れたスタイルで梅田に行った時、とても悔しい思いをしました。隣の県なのに被害は雲泥の差、同年代の学生はきれいに着飾り、楽しそうに日常を送っているのが悔しかったです。住み慣れた神戸で同じように日常生活を送りたい。必ず神戸に戻ると心に決め、親に涙ながらに話しました。=ひょんさん(現在40代)

 ■周りの方のお役に立てること(当時20代、神戸市東灘区)

 私は震災の前年に東京の大学を卒業していましたが、東京で希望する職種に就けず、自信喪失状態で神戸の実家に帰って来ていました。そんな時に震災が発生し、時間があった私は、ご近所の方のために、水汲みや救援物資の搬送などに精を出していました。実家周辺は高齢者の方が多かったのでとても感謝され、自分の存在を肯定してもらえたことが嬉しかったです。その後、石屋川公園にあった「神戸元気村」で4月ごろまで自転車のパンク修理活動をしていて、東京からボランティアで来ていた人達と話すのも楽しかったです。=ネコに翼さん(50代)

 ■父の言葉(当時20代、西宮市) 

 地震発生直後の父の言葉。「我々の地域は西宮市の役所の人が守る。お前は神戸市のためにできるだけ早く出勤せよ」。私は神戸市職員です。=なかけんさん(50代)

 ■震災の当日と翌日に届いた神戸新聞。神戸新聞に掲載された陳舜臣さんの文章(当時21歳、神戸市北区)

 翌日に届いた新聞は数枚のものでしたが、頑張って新聞を作ってくれる人がいるんだ。届けてくれる人がいるんだ。お先真っ暗だと思っていた私でしたが、自分も頑張ろうと思えた。陳さんの文書が1月25日に載ったのを覚えています。『神戸よ』という題でした。あたたかみのある文章で、「神戸は亡(ほろ)びない」という言葉に勇気づけられました。=藤原さん(現在50代)