阪神・淡路大震災の体験者から話を聞いて学ぶ「第2回こども震災学校」が8月3日、神戸市中央区の神戸新聞社で開かれ、兵庫県内の小中学生14人と保護者ら計約30人が参加しました。語り部グループ「語り部KOBE1995」と連携し、神戸新聞社が4月から続けています。語り部2人が伝えたことを紹介します。(上田勇紀、杉山雅崇、名倉あかり)
■両親亡くした和氣光代さん「自分の命を大事にして」
神戸市灘区の元中学教諭、和氣(わき)光代さん(57)は「私の両親も、震災で犠牲になった6434人のうちの2人です」と切り出し、地震が起きた1995年1月17日を振り返りました。
亡くなったのは、父の西浜清さん=当時(57)=と母の貴子さん=同(54)。同市東灘区魚崎北町にあった木造2階建ての実家は、1階が押しつぶされました。
近くに住んでいた和氣さんは、夫と歩いて実家に向かいました。2人を見つけ出したとき、父は母をかばうようにして固くなっていました。一方、母に傷はほとんど見えず、近所の会館に運びました。
「足がおかしい」「病院に連れてって」。しばらくして母が言いました。けれど会館には医師もいます。近くで火事があり、動くことはためらわれました。
「その後、母は突然苦しみ出して、午後3時52分に亡くなりました。あの時の苦しい表情は、私の頭から離れませんでした」。後に、和氣さんは「クラッシュ症候群」を知りました。長く押さえつけられた部位の毒素が体内に回り、死に至ります。「もし病院に連れて行っていたら助かっていたかなあ。何を頑張ったら戻ってきてくれるかなあ。位牌(いはい)の前に座り込んで考え続けました」
和氣さんは震災2年後に長女、7年後に長男を出産しました。「子どもの心臓音を聞いたとき、あれだけ願っても戻ってこなかった命がここにあるんだ、と涙が出てきました」と振り返りました。
子どもたちに強く訴えたのは命の重み。「あなたたちは、どこを探しても代わりのない人なんです。自分の命を大事にしてほしい」。講演の最後には模型を使い、家具の固定の仕方を説明しました。
■小学2年で被災 岸本くるみさん「大切なもの守るために」
神戸市須磨区の岸本くるみさん(37)は「あなたの守りたいものは何ですか」と問いかけ、「明日もその大切なものと一緒にいるために、できることを考えてほしい」と、防災を前向きに捉えて取り組むように呼びかけました。
震災当時は同市兵庫区の会下山小学校2年生。自宅マンション7階で寝ている時に地震に襲われ、「ゴジラが揺さぶりに来た」と感じました。机が倒れ、台所では前日に食べたカニ鍋の残りが散乱。「楽しみだった雑炊が食べられず、残念に思った」と子ども目線で震災を語りました。
飼いネコは驚いて転落してしまったのか、マンションの駐車場で見つかりました。病院に運びましたが、その日の午後に死んでしまいました。
電気や水道などが止まり、岸本さんは同市西区にある祖母の家で1カ月ほど過ごしました。転校先の小学校では「学校が休みになってうらやましい」とクラスメートに言われ、腹が立って怒ったことを覚えています。
兵庫区に戻ってからも断水で毎晩水をくみに行ったり、学校でパンとチーズなどの簡易給食が続いたりと日常はなかなか戻りませんでした。
兵庫県立舞子高校、神戸学院大学で防災を学んだ岸本さん。「20歳のころにネパールに行って、震災で亡くなった同級生の男の子のことを話していると、いっぱい涙が出ました」。男の子は「天才刑事になる」という夢を持っていたといいます。
講演の後半には、救援物資としてもらった鉛筆を見せ、「いろんな人の支えがあっていまここにいる」とまわりへの感謝を伝えました。
■京大防災研・矢守教授「おうちで考えるきっかけに」
「こども震災学校」の最後に登壇した京都大防災研究所の矢守克也教授(61)=防災心理学=は「もし自分に地震が起こったらどうなるか。被害が出ないようにどんな準備をしておくべきか。みなさんが、自分のこととして考えてくれた」と講評しました。
「どんな地震も同じようなものに見えると思う。けれど、和氣さんに起こったことと、岸本さんに起こったこと、そして感じたことはそれぞれ違う」と矢守教授。「自分のおうちに大きな地震が起こったらどうなるか。どう対策したらいいかを考えてもらうきっかけにしてほしい」と話しました。