
1995年1月17日の阪神・淡路大震災。神戸市立本庄中学校2年生だった松本幸大さんは、同市東灘区深江北町1の自宅で被災し、同じ誕生日だった親友を亡くしました。プロ野球選手をへて、いまは軟式野球の社会人チームで監督をしている43歳の松本さんに、当時の記憶をたどってもらいました。
-震災当日。どんなことを覚えていますか。
「自宅の2階で寝ていました。ドーン、ドドドドドド、と音がして、横揺れになったと思います。こわすぎて立てず、ふとんをかぶって『なんや、なんや』という感じ。前の日に風邪をひき、寝ていたのはいつもとちがうテレビがある部屋。いつも寝ているぼくのベッドには鉄パイプの棚がくずれてつきささっていて、そこにいたら死んでいました」
「おやじに言われて1階に下りようとしたら、階段が全部なくなっていたんですよ。1段目と13段目しかなくて。残りが全部消えてて、下に全部落ちていた。真っ暗で、ベランダに出て、となりのマンションの廊下に飛びうつって下りました。みんなもう外に出てきていて、近所同士で安否確認をして『だいじょうぶやな、だいじょうぶやな』という感じでした」

阪神・淡路大震災や野球選手当時の記憶をたどる松本幸大さん=神戸市東灘区 「例えるなら、『北斗の拳』(※)状態。世紀末というか。火、けむり、変なにおい、人の『キャーキャー』『だれか助けてください』という声。自宅は全壊で、となりの家と倒れ合っていて、たまたまつぶれていない空間で、家族全員が生き残りました」
※北斗の拳=1980年代の人気漫画で、アニメ化もされた。荒廃した世紀末が舞台だった。
「何がどうなってるかもわからず、気づいたらその場でぼくとおやじ、兄たちで人命救助をしていました。一日中、ずっとやったと思います。『助けて』という声を聞くと、みなでジャッキやバールを使って、人を引っぱりだしました」
「亡くなった人を毛布にくるんだり、車に積んだりした。遺体に接したことはこれまでなく、けっこうきつかった。でも、『おれは無理』と言っている場合ではなかった。亡くなっていた小さな赤ちゃんを毛布にくるんで持ったら、めちゃくちゃ重たく感じた。一人で持てないぐらい。顔はきれいだったが、圧迫されて紫色になっていて、すごく覚えています」

プロ野球のロッテ、オリックスでプレーした松本幸大さん。阪神・淡路大震災で親友を亡くした=神戸市東灘区 -家族での避難生活。どんなことを覚えていますか。
「開放された近くのグラウンドに、車をとめて家族で寝泊まりしました。1週間ぐらいはいて、それから風呂が用意された記憶がある。風呂用のバケツ2杯だけお湯を使っていいと言われた。腰ぐらいまでの深さの、よごれた湯船でした」
-少年野球チームの仲間でもあり、親友の大浅田一郎さん=当時(14)=が亡くなりました。
「ライフラインが途絶え、仲間が生きているのか全くわからなかった。数日後、一郎のマンションを見に行ったら、彼が住んでいた1階がなくなっていた。頭が真っ白になって、『いやいや、どっかおるはずや』と思って。いろんな人に聞いても知らず、学校も避難所にもおらへん」
「何回かその場所に行き、消防士らしい人から『ご家族ですか?』と言われて、こわくなって『いや、ちがいます』って言ってそこをはなれた。たぶんそのときに(遺体が)出てきたんじゃないかと。母からも『あかんかったらしい』と聞いて、心の中でうそやろ、と思って信じられなかったです」
-一郎さんはどんな存在でしたか?
「同級生4人が亡くなり、中でも一郎とは小学校の途中から仲が良く、学校に行ったり野球をしたり、ほぼ毎日いっしょにおったので。ほんまにもう、心に穴があくっていうのはこういうことかなと。本当になかなか立ち直れない。大好きな友達だったんで、受け入れられない状態が何十年ずっと続いています」

小学校の運動会。カメラに向かってピースサインをする松本幸大さん(左)と親友の大浅田一郎さん=1991年(松本さん提供) 「自分の中では(一郎さんが)亡くなっていない状態を自然とつくり出していました。おれの中で生きとったらええわ、て思いながら暮らしていこう、と決めた。忘れることは正直なかったですね」
「一郎がおらんくなってから、ぼくの人生は変わった。まあええか、というタイプの人間やったですけど、野球に対する向き合い方も変わりました。一郎は野球もできひんし、呼吸もできひんと思ったら、もうそれができることに感謝の気持ちしかないって。一郎の分まで人生、野球をがんばろうかっていう気持ちになった。高校に入ってからもそうですし、今も変わらないです」
-プロ野球を目指したのはいつからですか。
「小学6年のとき、ぼくが『プロ野球選手になるね』と夢を語ったら、一郎は『おまえならできるよ』と。それが頭の中に残っていた。やるからには夢を目標から現実に変えようとずっと思っていて。一郎との約束で、絶対あきらめないで追い続けていこうという気持ちでした」

小学生時代。マウンドで投げる松本幸大さん=1990年ごろ(本人提供) -地震の数カ月後に野球を再開されたんですね。
「最初は野球をやっていいものなのか、とけっこう考えましたね。やっぱり苦しんでいる人もいる中で、野球をするのはどうなん、と中学生ながら思った。みんなと話し合って集まれる人で練習をし始めました。切り替えるのはとてもむずかしかったですね。ただ、一郎ができない分、おれがやるからという気持ちでした」

中学時代の松本幸大さん=1990年代(本人提供) -(野球の強豪)育英高校時代はエースになりました。
「体力的、心理的な面はとてもしんどかったですね。(親友を亡くして)さみしいけど、泣きたいけど、かくして、かっこつけていた自分がいましたね。前へ進んでいかなあかんので、強がっていました」
-プロ野球ではロッテやオリックスで一軍の舞台も多く経験しました。
「打たれた時など『あかんかったわ、どうしよう、助けてくれよ』と、一郎と会話をよくしていました。『こんなんじゃあかんで』と励ましてもらって何とか耐えていた。心の支えの支え。あいつがおったから野球を続けられた」

ロッテのキャンプ地で行われた試合で投げる松本幸大投手=2007年2月、豪州・ジーロング -災害から命を守るために、子どもたちに伝えたいことは何ですか。
「大切なことは備え、判断力、行動力、瞬発力を一つ一つ整えること。正直当時をふり返りたくないですけど、経験した大人が率先して伝えないといけない。つらい出来事を繰り返してはいけない。起きてからでは遅いんです」
(聞き手・井川朋宏)
=記事内容は2024年6月時点です
