
1995年1月17日午前5時46分、兵庫県の淡路島北部を震源とする阪神・淡路大震災が起きました。揺れの大きさを表す最大震度は史上初の「7」。神戸・阪神間や淡路島などで6434人が亡くなりました。
前田健太さんは当時7歳。西宮市立北夙川小学校の1年生で、父隆さん=当時(55)、母昌子さん=同(43)=を亡くしました。自分を「世界一、不幸」と思ったこともあるという前田さん。36歳になった今、何を思うのでしょうか。
-地震の起きた日のことを教えてください。
「パパとママと、10歳上の高校2年の兄と、西宮市石刎町の文化住宅に住んでいました。19歳だった姉は、同じ文化住宅で別の部屋を借りていました」
「ぼくは2階で、パパとママと川の字で寝ていました。17日の朝は、仕事に早く出かけるパパとママが、リビングのある1階におりていました」

震災前に撮影した家族写真。右から2人目が前田健太さん(前田さん提供) -午前5時46分、突然の揺れに襲われます。
「何が起きたのか分かりませんでした。となりの部屋にいた兄が『健太、だいじょうぶか!』とふすまを開けて入ってきてくれ、兄に抱きつきました。2人で1階におりようとしましたが、あるはずの階段がありませんでした」
-家がつぶれたんですね。
「消防の車がきてくれ、パジャマとはだしのまま、窓から外に出ました。姉はすでに脱出していましたが、パパとママがいません。どこ? もしかしてがれきの下に? がれきに向かって『パパー』『ママー』と呼びましたが、返事がありません。消防の人から『返事がある人からしか救助できない』と言われ、ショックを受けたことは覚えていますが、このころの記憶はと切れと切れです」
「次に覚えているのは、車の中で1人で待機していたことです。文化住宅の方を見ていると、毛布をかけられた人が畳に乗せられ、がれきの中から出されました。続いてもう一人。近所の人に『こっちきて』と呼ばれ、車外に出ました」
「歩道に畳が並べられていました。毛布にくるまれ、顔は隠されていましたが、兄がママのパジャマだと気づきました。近くにいた女性に『お父さんとお母さんよ』と言われ、めちゃくちゃ泣きました。これからどうなるのか…。不安でした」
-京都府でお葬式をしたんですね。
「テレビで犠牲者の名が流れ、パパとママの名前を見ました。『やっぱり死んだんや』って。そして最後の最後、ずっと見ていなかったママの顔を見ました。おでこが少しへこんでいました。パパの顔は、大人たちに『見なくていい』と言われたから見ていません。火葬場で固い扉が閉じられました。パパとママにもう会えなくなる。バイバイ、と言いました」

野球に励む子ども時代の前田健太さん(提供) -仮設住宅で、社会人の姉、高校生の兄の3人で暮らすようになりました。
「学校に行くのがイヤになり、一時期、不登校になりました。親が来る授業参観や運動会はつらかったです。『なんでうちはおらんのや』と。悲しみをぶつける場所がありませんでした。地震はうらめない。だから親をうらみました。なんで、置いていったんやって。自分が死ねば会えると思ったこともあります。どうすれば死ねるのかも分からないのに…。だって、パパとママに会いたかったから」
-小学4年の秋、西宮市北部に引っ越しました。
「姉が結婚することになり、相手の父の『おっちゃん』と母の『おばちゃん』が、いっしょに暮らそうと言ってくれました。おっちゃんも子どものころに親を亡くし、『健太の気持ちが分かるから』と。震災の前、食事はいつも家族いっしょでしたが、また、みんなで食卓を囲む生活が戻ってきました」
「夜中に急に起きて、ずっと泣き続けることがあったみたいです。そんな時はだれかがそばにいてくれました。寂しさがほぐれていき、市立山口小、山口中では野球に打ちこみました」
-中学を卒業した後、その家を出ましたね。

両親が亡くなった震災について語る前田健太さん=滋賀県草津市(撮影・斎藤雅志) 「引っ越し先は徳島県です。兄が結婚し、徳島にある相手の実家で義父母と同居することになり、『健太も』と声がかかりました。新たなおっちゃんとおばちゃん、兄夫婦らとの生活が始まりました。ぼくは池田高校で野球に励み、おばちゃんたちは泥まみれになったユニホームを洗濯し、弁当を作ってくれました」
-神戸学院大への進学をきっかけに、兵庫に戻ってきました。
「大学で、周りに震災の話をすることは一切ありませんでした。小学生のころからずっとそうです。ふいに両親の笑った顔が頭に浮かぶ時がありました。震災前は、夏は須磨の海に行き、宝塚のファミリーランドに出かけました。楽しくて当たり前だったことが、一気になくなったのが震災でした」
「震災のことを話そうとすると、泣いてしまう。毎年、正月になると、心の中でカウントダウンが始まりました。テレビの震災特集などを目にすると、しんどかったです」
-そんな心境に変化があったと。どうしてですか。
「きっかけは、父の同僚(仕事仲間)の存在でした。ぼくを食事に連れていってくれ、自分が知らないパパやママのことを教えてくれました。両親の記憶に触れることが、『寂しい』から、『もっと知りたい』に変わっていきました」

生まれたばかりの娘を抱く前田健太さん。父親になり、両親が自分に注いでくれた愛情に気が付いた=2018年(前田さん提供) -2017年から滋賀県の中等教育学校で学校職員として働き、その年に結婚。次の年には娘が誕生しました。
「娘が生まれ、成長がうれしくて、いとおしくて…。同時に、パパとママも、いとおしいと思ってくれてたんや、と思いました。そして、うらんだりして申しわけなかった、と。自分は7年間、いっぱい愛情をもらったんだと気がつきました」
-2022年、勤務先で震災経験を初めて語ったそうですね。

震災後の歩みを振り返る前田健太さん=滋賀県草津市(撮影・斎藤雅志) 「いざ話してみると、いろんな感謝の気持ちがわいてきました。長年のつっかえが取れたように感じ、『震災のこと、伝えていかな』という思いがふくらみました。(2024年1月に)能登半島地震もあり、いつまた災害が起こるか分かりません。自分と同じような悲しい経験をしてほしくない。だから、力になれるなら、どこへでも話しに行こうと考えています」
-震災からまもなく30年です。
「自分は世界一、不幸だと思っていたけど、たくさんの人に支えられて幸せだと、今は思えます」
(聞き手・中島摩子)
=記事内容は2024年6月時点です
