■友だちのお母さんの骨を拾った(当時小学5年、神戸市長田区)
私の家は、阪神・淡路大震災でちょうど火の出た地域。自分の家はもちろん、隣近所、家の周りが見渡す限り焼け野原でした。何日たっていたのかはあまり記憶にないですが、自宅の様子を母と見に行った時に、隣の子が焼けた片手鍋みたいなのに、何か拾ってるのを見つけました。のんきな私は、何かいいものでもあるのかとワクワクして近づいて、「久しぶりやね。大丈夫やった? 何拾ってんの? なんかいいものあるん?」と聞いてしまいました。「お母さん。お母さん拾ってんねん」と言われ、あぜんとしました。その後、「手伝うね」と言って、私もその子も泣きながら、骨らしき白い物を拾ったのを今でも忘れません。=カカポさん(現在40代)
■友だちを亡くし、お葬式へ(当時小学4年、神戸市灘区)
幼稚園からずっと一緒だった友だちを亡くしたことが悲しかった。初めてお葬式に行って、最期に顔を見た時、すごくショックだった。顔がびっくりするほど白く、生きていないことが一目で分かり、子ども心ながらにショックを受けた。あとは、毎日通っている小学校が避難所になり、震災直後はいつも遊んでいたグラウンドが遺体安置所になった。増えていく遺体と、泣き叫ぶ親族の声が耳に残ってつらかった。=もちさん(現在30代)
■怖くて学校に通えなかった(当時小学1年、神戸市灘区)
当時自覚はなかったが、神戸を離れるまで怖くて学校へ通うことができなかった。余震が続くのがとても怖く、理屈も今ほど理解できていなかったので、「よく分からない怖さ」というのが常に隣に座っている感じでした。山手に住んでいたので、神戸の街から煙が上がっているのが怖かったです。=みどりさん(現在30代)
■同級生や近所の人が生き埋めで亡くなった(当時中学1年、神戸市長田区)
自分の家族は無事だったが、同級生や幼なじみ、近所の人が生き埋めになり、亡くなった。特に印象に残っているのが、友人のお父さんが生き埋めになり、目の前で話しているのに、火災の火が10メートルぐらいまで迫ってきたこと。危険なために、警察、消防の人たちが「もう、助けられないから」と、友人のお母さんと子どもを強引に引きはがした。自分も、救助に当たっていた商店街の人たちとともにその場を離れることになり、大変ショックだった。=こうさん(現在40代)
■なぜ地震で助かる方法を教えないの?(当時小学6年、神戸市北区)
神戸市長田区にあった祖父母の家に、震災3日後に行きました。倒壊はしなかったものの、周辺は所々が焼け野原になっていて、その時に見聞きしたことが、今でも断片的に強烈に印象に残っています。震災で起きた悲しいこと、醜いこと、素晴らしいことを伝聞や報道で見聞きしては、自分の中にためていっていましたが、そのことを整理したり消化したりできないまま大人になった気がします。震災後の学校などでの防災訓練が震災前とあまり違いがなく、「地震で建物が倒壊したら机の下に隠れても死ぬのに、なぜ大人は阪神・淡路大震災でも助かる方法を教えないのか。やっぱりあんな大地震が来たら死ぬしかないんだ」と考えていました。=かめさん(現在40代)
■両親と離れて疎開。つらかった(当時小学2年、西宮市)
震災直後から遠方の祖父母宅に疎開することになり、両親と離れて生活するのがつらかった。小さい揺れにも敏感になった。=わかめさん(現在30代)
■担任の先生が泣きながら話してくれた(当時小学4年、神戸市須磨区)
つらかったのは、一瞬にして、住んでいた地域の景色が変わってしまったこと。当たり前の生活が一変したこと。ライフラインが止まり、特に水が長い間出なかったこと。家から見えていた神戸市長田区の火事を遠くから見ることしかできなかったこと。当時、担任の先生が泣きながら話をしてくださったことがある。それは、同市東灘区にあった先生の家が全壊し、先生は隙間から逃げられたものの、隣のアパートに埋もれて「助けて」と言っていた男の子と女の子の兄妹を助けることができなかったことだった。=原っぱさん(現在30代)
■落ち着いて寝られなかった(当時小学6年、神戸市兵庫区)
友達と会えなかった。緊急車両のサイレンが耳に残り、落ち着いて寝られなかった。夜が怖かった。=ヤギさん(現在40代)
■学校に登校できずストレス(当時小学6年、西宮市)
電気はすぐに復旧したが、水が長い間使えず、近くのお店が提供してくれた水を何度も往復してくみに行った。小学校最後の3学期初めが全く登校できず、フラストレーションがたまった。=みささん(現在40代)
■怖い思いをしなかった負い目がある(当時中学2年、明石市)
九州の祖母が危篤という知らせが1月15日にあり、帰省していたので地震には遭ってない。そのため、自分だけが怖い思いをしなかった負い目が今でもある。震災が発生した1月17日の昼に九州から帰る途中、「神戸ナンバー」というだけで、サービスエリアでいろんな人が声をかけてくれた。自分の家の被害は分からなかったが、家がどうなっていても頑張ろうと思いながら帰ってきた。=匿名さん(現在40代)
■水を求めて何往復も(当時小学6年、神戸市垂水区)
水が出ない生活。祖父と自転車で給水車のところまで行き、ポリタンクを自転車の前後に積んで1日に何往復もした。=かおりんさん(現在40代)
■何もできないことが苦しくて(当時高校1年、神戸市須磨区)
発災直後は何が起きたのか分からなかった。しばらくして自分も何かできないかと思ったけど、何もできてないことが苦しかった。=トットさん(現在40代)
■ただただ怖かった(当時小学1年、神戸市垂水区)
何が起きたのかも分からず、ただただ怖かった。=天音さん(現在30代)
■友だちを失った(当時高校3年、神戸市中央区)
地震によって友達が亡くなった。がれきの下で助けたくても助けられない命。不安しかなかった。=日龍さん(現在40代)