阪神・淡路大震災から4年後の1999年に神戸市西区で生まれた私(25)。神戸は生まれた時からきれいな街だ。今と変わらない。

 震災翌年の96年春に生まれた姉の幼少期の写真にも、私が知っている街が写っている。

 そんな中、震災を経験している私の母は時々、当時のことをポロッと口にする。私はそれを耳にすると、「本当にこの街で起きたこと?」とついつい思ってしまう。

 とはいえ、神戸で生まれた者として、震災はずっと近くに感じてきた。「経験していないから」と意識して壁を作ったことはない。

 それはきっと、小学生のころに受けた震災学習のおかげだろう。追悼行事で、震災前に生まれた高学年のお姉ちゃんやお兄ちゃんが、自分の親から聞いた話を全校児童の前で語っていた。その姿は今でも鮮明に頭の中に残っている。

 自分が知っている街と、震災前の街は「同じ街」。そこに暮らしているのだと、強く意識した。

北但大震災で被災した豊岡市街地=1925年5月 

 新聞記者になり、現在は兵庫県北部の豊岡市を担当している。今年1月、同市内の小学校で「1・17」の集会を取材した。

 子どもたちは、震災をきっかけに作られた曲「しあわせ運べるように」を歌っていた。2011年の東日本大震災より後に生まれた子どもたちが、豊岡市でこの曲を歌い継いでいることに、うれしさと感謝の気持ちがこみ上げ、思わず目が潤んだ。

 その豊岡市では1925(大正14)年5月23日、マグニチュード6・8の北但大震災が発生した。大規模な火災が起き、400人を超える死者が出たとされる。2025年で、ちょうど100年になる。

 北但大震災をたどる取材の中で、過去の新聞記事を目にした。地震から50年目の記事。そこには、経験した市民の声がずらりと並んでいた。

 それから約50年の今、同市に暮らす「北但大震災前生まれ」は200人未満だ。いつまで、生の声に触れられるだろうか。タイムリミットは迫っている。

 そして、私が生まれた街で起きた阪神・淡路大震災は30年になる。私にできることは何だろう。

 震災後生まれの私はどうしたって、30年前の地震を経験することはない。そして、経験した人たちはどんどん年を重ねていく。

 私にできること-。豊岡でも神戸でも、経験した人たちの話を聞く。時が流れても、街がきれいになっても、変わらない記憶や思いがきっとある。そして、それを今後の災害対策に生かせるようにする。

 生の声を聞けるのは、今しかないのだ。(丸山桃奈)