1995年1月17日午前5時46分に起きた阪神・淡路大震災(はんしん・あわじだいしんさい)のことを、神戸市立会下山(えげやま)小学校2年生だった岸本くるみさんは今もよく覚えています。同市兵庫区の自宅(じたく)マンションで「ゴジラに()さぶられた」ように感じたこと、かっていたネコが死んだこと、祖母(そぼ)の家で1カ月間、避難(ひなん)生活をしたこと…。高校と大学で防災(ぼうさい)を学び、語り部として震災を伝える37(さい)の岸本さんに聞きました。

震災当時を振り返る岸本くるみさん=神戸市中央区東川崎町1

-1月17日の揺れは最大震度(しんど)7。どんな感じがしましたか?

 「マンション7階にある自宅の和室で、ふとんで寝ていました。すごい気持ち悪い地(ひび)きがして、『ガン』『ドン』という揺れが来ました。いろんなものがきしむ音や食器が()れる音がしました。電球のかさが落ちてきて、学習(つくえ)(たお)れてきました。ふとんをかぶって()えました。『ゴジラがマンションを揺さぶりに来た』。そんな感じでした」

-母、姉、兄の家族はみんな無事で、住民が声をかけ合って1階の管理人室に集まったのですね

 「となりの人が『いっしょに避難(ひなん)しましょう』と声をかけてくれました。パジャマにジャンパーをはおり、階段(かいだん)を下りて管理人室へ行きました。ラジオから『じしん』と聞こえて、初めて地震と知りました。外の様子を見に行った大人は『街が()えてる』と言って帰ってきました」

神戸市立会下山小学校2年当時の岸本くるみさん(本人提供)

-かっていたネコのリリーが死んだのですか?

 「7階から落ちて駐車場(ちゅうしゃじょう)で動けなくなっていました。姉といっしょに動物病院に歩いて向かいました。その道中に見たことをよく覚えています。道路はわれ、道ばたで泣いている人がいました。家が燃えて、何人もがバケツリレーをしていました。動物病院で注射(ちゅうしゃ)を打ってもらいましたが、リリーはその日の午後に死んでしまいました」

-しばらく自宅を(はな)れて()らすことに

 「夕方、神戸市西区の祖母の家からおじさんとおばさんが車で来てくれて、その日の夜に避難しました。そこで1カ月ほど()ごしました。兵庫区とちがって水もガスも通っていました」

 「その間、西区の小学校に転校しました。転校初日に『地震があって学校が休みになって、こっちに来ました』と紹介(しょうかい)されると、ある男の子から『おまえ、いいよな。学校が休みでうらやましい』と言われました。『なんでそんなこと言うんよ』って(おこ)った記憶(きおく)があります」

「人と防災未来センター」で働いていたころの岸本くるみさん=2014年、神戸市中央区脇浜海岸通1

-会下山小が再開(さいかい)することになり、2月末に兵庫区に(もど)ります

 「会下山小に行くとまだ避難所になっていて、廊下(ろうか)にも人がいました。教室はぽつぽつと空いている席がありました。となりのクラスには震災で()くなった子がいました。でも、ほかにも避難して来ない子がいたから、(かれ)が亡くなったと実感がわきませんでした」

日常(にちじょう)生活はなかなか戻らなかったのですか?

 「給食は簡易(かんい)給食でした。パンとチーズ、牛乳(ぎゅうにゅう)とソーセージなど。野菜が苦手だったので、むしろうれしかった記憶があります」

 「学校は和式トイレで、断水(だんすい)のため手おけの水で流していました。家でも同じでした。神戸市が近所に簡易水道を設置(せっち)していて、毎晩(まいばん)ペットボトルに水をくみにいきました。これが本当にいやな作業でした。寒くて暗い中を歩いて行くのですが、町もこわれていてさみしい。『何でこんなこと、せなあかんのやろ』と思っていました」

母校の会下山小学校で講演する岸本くるみさん=2018年、神戸市兵庫区上沢通1

-神戸市にある兵庫県立舞子(まいこ)高校、神戸学院大学で防災を学んだのですね

 「全国初の防災専門(せんもん)学科としてできた舞子高校環境(かんきょう)防災科に1期生として進学しました。震災経験(けいけん)を作文にして読む中で、地震をそんなに経験していない子もいるんだと知りました」

 「高校時代に授業(じゅぎょう)一環(いっかん)で行ったネパールを、大学生になってから仲間と(ふたた)(おとず)れました。そこで『震災で同級生が亡くなった』と英語で話したとき、(なみだ)が止まりませんでした。あの子は小学2年生で死んでしまって、わたしは二十歳になっている。彼の『天才刑事(けいじ)になる』という(ゆめ)はもうかなわない。『ごめんね』っていう気持ちがあふれてきました」

救援物資でもらった鉛筆を手に、思いを語る岸本くるみさん=神戸市中央区東川崎町1

-小学生のとき、救援物資(きゅうえんぶっし)としてもらった鉛筆(えんぴつ)をいまも持っているのですか?

 「赤いキティちゃんの鉛筆1ダースをもらいました。開けると、一本一本に知らない名前が()ってありました。その子が使おうとしていたものを、救援物資として出したのでしょう。当時は名前が彫られているのがいやでした。でも、大きくなるにつれて少しずつ感謝(かんしゃ)の気持ちが芽生えました」

-大学卒業後も、東日本大震災の支援(しえん)活動に加わるなど防災に関わり、今は震災の語り部グループの一員として、体験を話しています。子どもたちに伝えたいことは何ですか?

 「『あなたの大切なものって何ですか』と、いつも問いかけます。家族だったり、メガネだったり、好きな動画サイトだったりします。そう聞くのは、防災って何を守るためにやるのかを考えてほしいから。『死にたくないからやる』というマイナスの感情(かんじょう)じゃなくて、『明日も楽しく生きたいからやる』。大切なものを守るために何ができるかを考えてほしいです」

(聞き手・上田勇紀)

=記事内容は2024年6月時点