
6434人が亡くなった1995年の阪神・淡路大震災。千代田健志さんは当時4歳で、母ときょうだい4人で暮らしていた宝塚市内のアパートが倒壊しました。自身も生き埋めになり、母のさと子さん=当時(32)=と姉の萌ちゃん=同(6)=を失いました。33歳の健志さんがこれまでの歩みをふり返ります。
-地震があったのは1月17日。揺れの記憶はありますか?
「ありません。でも、目が覚めて身動きが取れず『苦しい、しんどい』と泣いていたことは少しだけ覚えています。ほんまにショックなことはわすれてるんじゃないか、と思うんです。揺れのこわさやお母さんが死んだと分かった瞬間とか。自分でもびっくりするくらい記憶が真っ白なんです」

阪神・淡路大震災について話す千代田健志さん=西宮市内-地震後のことは?
「いっしょの部屋で寝ていた兄弟3人が生き埋めになりました。お母さんとお姉ちゃんは別の部屋にいて、亡くなった。ぼくは上に重たいものが乗っかって、とじこめられている感じでした。助け出されてからは、パトカーで運ばれたみたい。子どもにとってレアな経験だったので覚えているんでしょうね」
-祖父母に引き取られ、兄弟と長崎県の五島列島で暮らすことになったんですね
「最初は旅行に来ているようでなれなかったけど、お母さんがいないことをさびしがったり、夜に泣いたりすることはなかったらしいです。同じ体験をした兄弟がもう2人いたので、ひとりぼっちではなかった」

阪神・淡路大震災で亡くなった千代田健志さんの母・さと子さん(当時32)と姉・萌ちゃん(当時6)-祖父母が親代わりになって育ててくれた
「老後をどう過ごそうか、という時に3人の子どもが転がりこんできて大変だったと思う。でも、一生懸命育ててくれました。親がいないから出来が悪い、となるのは絶対いややったみたい。おばあちゃんからは『部屋は全然散らかさんかった』『勉強をよくしてた』とお母さんの子どものころを引き合いに出してよくおこられました」
-長崎から親を亡くした子どもをサポートする施設「神戸レインボーハウス」(神戸市東灘区)の集まりに参加したんですね
「良くも悪くも、長崎では震災の話題がまず出なかった。子どもながらに全部わすれてしまうのはよくないと思っていました。神戸に行って同じ境遇の子どもたちと遊ぶことで、たがいに傷をいやし合っているような感覚でした」

幼かったころの千代田健志さん(提供)-自身の経験から看護師を志すようになった
「いろんな人の助けがあってぼくたちは生きてこられた。今度は自分が助ける立場になれたらと思いました。おじいちゃんとおばあちゃんが身近にいたので、高齢者を助ける仕事を考え、看護師だと。准看護師の資格が取れる神戸の高校に進学しました」
-なぜふたたび地元・兵庫に?
「『帰りたい』というよりは『帰らなきゃ』という感覚でしたね。自分が生まれた町をちゃんと見ておきたかったんです」
-いまも看護師の仕事を続けながら結婚し、2人のお子さんがいるんですね

看護士を目指して兵庫に戻ったころの千代田健志さん=2012年、神戸市内 「改めて4人を育てていた母はすごいなと。親として、子どもを置いて先に死ぬのは無念やったやろうと想像します。孫の姿を見せてあげたかった。おばあちゃんとして甘やかしてくれただろうなと思いますね」
-いま思いえがく未来は?
「家族みんな元気で過ごすことが一番かな。親と自分の家で生活する、という当たり前の暮らしをぼくはできなかったので」
-これまでたくさんの取材を受けてきましたね
「ぼくが話したことが記事になり、だれかが何かを感じ取ってくれたらと思います。たくさんの被災者のうち一人の声ではありますが、『自分も前に進んでみよう』『医療従事者を目指そうかな』と一歩踏み出すきっかけになってくれたらうれしいです」
(聞き手・名倉あかり)
=記事内容は2024年6月時点です
