
1995年1月17日午前5時46分、兵庫県の淡路島北部を震源とする大地震が起きました。阪神・淡路大震災です。揺れの大きさを表す最大震度は史上初の「7」。神戸・阪神間や淡路島などで、6434人が亡くなりました。
中埜翔太さんは、当時3歳。神戸市灘区でつぶれた家の下敷きになり、助け出されましたが、母親の成美さん=当時(25)=が亡くなりました。32歳になった翔太さんが震災を語ります。

32歳になった中埜翔太さん=神戸市東灘区本庄町1、神戸レインボーハウス(撮影・長嶺麻子)-1月17日の朝のことを覚えていますか?
「父親はトラック運転手で、その日は朝早くから仕事に行かなくてはなりませんでした。仕事に行く前に、父親はぼくと母親を神戸市灘区のおばあちゃん(祖母)の家に送り届けました。午前4時ごろです」
「おばあちゃんの家は、木造2階建て文化住宅の1階にありました。朝ご飯の準備をしていたおばあちゃんとぼくは台所で話していて、母は隣の部屋にいました」
「突然、大きく揺れて、何が起きたか分かりませんでした。真っ黒になり、雨みたいに砂ぼこりが降ってきて、全部くずれました。急にテレビの画面が切りかわったような感じです。あっという間に身動きが取れなくなりました。光は一つもなく、土のにおいがしました」
「ぼくとおばあちゃんの間にはがれきがありましたが、おばあちゃんはがれきのすき間から手を伸ばし、『しょうちゃん』『耳ある』『鼻ある』と、ぼくの顔をさわりながら、声をかけ続けてくれました。ぼくがいた所は、奇跡的に空洞になっていました」

中埜翔太さんを抱く母、成美さん(提供) 「仕事から引き返してきた父親が、つぶれた家のがれきをのけて、助けてくれました。ぼくにけがはなく、母は圧死でした。3歳なので、母親が『死んだ』というのは理解できず、『ただ、いない』と感じていたと思います」
-震災後はどうなりましたか?
「父方のおばあちゃん(祖母)に引き取られ、一緒に暮らしました。おばあちゃんは4人の子どもを育ててきたので、ぼくが5人目。自転車の後ろに乗せてくれたり、車を運転して旅行に連れていってくれたりしました。ぼくは震災の影響で、暗闇をこわがって、1人でトイレに行けなかったり、揺れがあると体がこわばったりしたそうです」
-親を亡くした子どもをサポートする施設「神戸レインボーハウス」(神戸市東灘区)に通いましたね
「小学校が終わったら毎日のように、ただいまーって、レインボーハウスに行きました。補助輪付きの自転車をこいで通っていたこともあります。職員さんや(同じ建物にある)学生寮のお兄ちゃんやお姉ちゃんといっぱい遊んで、食堂で夕ご飯を食べたり、泊まったり…。家のようでした」

当時9歳。震災で亡くなった母親あての作文を読む中埜翔太さん。=2001年1月13日、神戸市東灘区本庄町1のレインボーハウス 「年の近い子と、家族のことなどを話す時間もありました。『パス』もできるので、ぼくはずっとパスしていたけれど、他の子が話すのは聞いていたんです。そしたら『お母さんがいない』とか、共通点がいっぱいあった。それが安心感につながって、学校で言えない震災のことなんかも話すようになりました」
「レインボーハウスは人のつながりや、やさしさを知った場所です。生活する中で、しんどいこと、悲しいこと、逃げたいこともあるけれど、自分にはここがあるから、仲間がいるから、大丈夫だと思えました」

2010年6月。ハイチ大地震の被災地へ出発する中埜翔太さん(右)ら=神戸市東灘区本庄町1,神戸レインボーハウス-大学生のころに東日本大震災(2011年3月11日)が起き、1カ月後には被災地を訪れましたね
「子どもたちの力に少しでもなれるなら、と思いました。かつての自分がそうだったように、一緒に走り回ったり、ドッチボールをしたり。自分の経験を話すこともありました。『しょうたー』って呼んでくれる子もいて、20回以上、訪れました」

東北と神戸の震災遺児の集いに参加した中埜翔太さん=神戸市東灘区本庄町1、神戸レインボーハウス(撮影・長嶺麻子)-今は会社員で、滋賀県草津市で暮らしています。
「震災で母親が亡くなり、生活は変わったけれど、震災がなければなかった出会いがあります。それらの過去が自分を強くし、今の自分を支えている。そして、たくさんのつながりに守られていると思います。結婚し、2022年には娘が生まれました。いつか娘に、震災やレインボーハウスのことを話したいですね」
(聞き手・中島摩子)
=記事内容は2024年6月時点です
