阪神・淡路大震災の発生から3日目の朝、建築家の安藤忠雄さん(83)は神戸港に降り立った。道路は波打ち、多くのビルが無残に壊れている。変わり果てた街の姿にがくぜんとした。「これは復興、厳しいぞ」。諦めに似た思いが脳裏をよぎった。
1995年1月17日は建築コンペへの参加のため、英国・ロンドンにいた。そこへ神戸での地震発生の一報が飛び込む。北野にある「ローズ・ガーデン」に「北野アレイ」、灘区の「六甲の集合住宅」…。神戸で設計を手がけた建築物は多い。翌日以降の予定を全てキャンセルして、急きょ被災地へ向かった。
神戸は「日本で一番住みやすい場所」という。山があり、海があり、都市と自然の調和もとれている。「それが地震でひっくり返ってしまった」。痛感したのは災害への油断。「神戸には地震が起きないと言われていた。それで安心していたことが一番の問題だった」
まず震災遺児の支援に取り組み、被災地に植樹する「ひょうごグリーンネットワーク」運動も始めた。震災で建設が危ぶまれた「淡路夢舞台」の完成にこぎ着け、文化復興のシンボルでもある「兵庫県立美術館」を手がけた。2年前には、子ども向けの図書施設「こども本の森 神戸」を神戸市に寄贈した。
被災地とともに走り抜けた30年。でも、安藤さんは神戸の街がスピード復興した大きな理由は「市民の街への愛情」だったと考えている。「神戸の人は神戸が好き。あれだけの災難に見舞われても、これからも神戸で生きたいと思っている人が多かった」。そして、これからも。「『がんばれ神戸』ですよ」
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兵庫でも多くの建物を設計してきた安藤さん。世界的建築家が神戸への愛を語った。(杉山雅崇)
■未来への想像力がまちをつくる やっぱり子どもは宝、みんなで育てたい
兵庫県立美術館(神戸市中央区)や淡路夢舞台(淡路市)など、県内でも数多くの建築物を手がけてきた安藤忠雄さん(83)。建物は人間の命を守るところでなければならない、との思いで設計に取り組んできたといいます。建築や街のあり方とは? 復興とは? あふれる思いを語ってくれました。