脳裏から消えない光景がある。阪神・淡路大震災の発生翌日、39人が亡くなった旧北淡町(兵庫県淡路市)の合同葬儀。当時NHK松山放送局のアナウンサーだった武田真一さん(57)は、町民センターに並ぶ小さなひつぎに衝撃を受けた。

 妻の妊娠が分かって間もないころ。失われた命の重みになおさら胸が締め付けられた。「どうしたら情報や言葉で災害から命を救えるのか。本気で考えなきゃいけない」。1995年の震災は防災、減災報道を模索する「出発点」と語る。

 1月17日の早朝は放送局で宿直勤務をしていた。揺れを感じて飛び起きると、四国で大きな被害が出ていると考え、しばらくは地域向けのラジオ放送で各地の震度などを伝えた。

 日が昇り、飛び込んできたのは阪神高速が横倒しになっている映像。神戸を中心とした被害の全容が明らかになるにつれ、「ただならぬ災害」だと悟った。

 明石海峡大橋はまだ建設中だったが、四国から淡路島へは大鳴門橋で行けた。夕方、武田さんは現地へ向かうよう指示を受け、車で6時間ほどかけて島内へ。あたりは停電で真っ暗。家もつぶれている。心臓が波打った。

震災で大きな被害を受けた旧北淡町(現・淡路市)の富島地区=1995年1月18日

 必要な物資を役場に尋ねたり、避難所で話を聞いたりしたが、とても取材を受けてもらえるような状況ではない。「何にもなくなってしまった」。そう打ち明ける被災者もいた。

 以来、東北や熊本、そして能登…と各地の災害に向き合い、報じてきた。分かったのは、どんな人にも必ず語り継がれるべき「あの日」があるということ。だから、自分もあの日のことを話そうと思う。

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 いつものスーツを脱いで、少しフランクに。けれど真摯な口調はそのままに。武田さんが語った。(名倉あかり)

■それぞれの「あの日」を話そう 記憶の共有こそ、災害への備え