当時の記者たちが撮影した地震発生日から365日間(95年1月17日~96年1月16日)の写真を、2024年1月17日から毎日掲載していきます。

■1995年12月31日 震災349日目

震災で施設が全壊した神戸・灘区の龍泉寺。「除夜の鐘をつかせてほしい」という近隣の声に応え、クレーンで鐘を吊り上げて仮設の鐘楼をつくりました。=神戸市灘区岩屋中町4

■1995年12月30日 震災348日目

神戸・長田の御菅地区で餅つきをする人たちがいました。「大変なときだからこそ、みんなで恒例行事を」。にぎやかなかけ声と、きねをつく音が更地に広がりました。=神戸市長田区御蔵通

■1995年12月29日 震災347日目

神戸の待機所と、学校などの旧避難所では計860人が生活していました。待機所で暮らす男性は「家も工場も燃えた。好きでここにいるんじゃない」と語りました。=神戸市須磨区、須磨区民センター

■1995年12月28日 震災346日目

診療所が併設された仮設住宅では、看護師が安否確認を兼ねて戸別訪問を続けていました。不自由な暮らしの中、高血圧やぜんそく、不眠症に悩む住民が目立ちました。=神戸市西区平野町、仮設西神第1住宅

■1995年12月27日 震災345日目

JR西日本の次世代新幹線「500系」車両の完成式がありました。15メートルもあるロングノーズの先頭が特徴的で、時速300キロでの営業運転を目指していました。=神戸市兵庫区和田山通2、川崎重工兵庫工場

■1995年12月26日 震災344日目

オリックスの本拠地グリーンスタジアム神戸で外野天然芝の刈り込みが行われました。新年の干支にちなんだねずみの絵と、復興を願う「希望」の文字が描かれました。=神戸市須磨区緑台

■1995年12月25日 震災343日目

翌日解散する「中野南公園テント村」の住民らが集い、クリスマスパーティーを開きました。一時は34世帯、100人以上がテントで避難生活をしていました。=神戸市東灘区本山南町7

■1995年12月24日 震災342日目

全国高校駅伝で兵庫勢が大活躍しました。男子・西脇工が2年連続5度目の優勝を飾り、女子・須磨女子(現・須磨学園)は兵庫高校最高記録で5位入賞を果たしました。=京都市内

■1995年12月23日 震災341日目

「元気です」の文字が玄関前に掲げられています。仮設住宅での孤独死が問題となる中、住民のアイデアでこの黄色い旗が日々の安否確認に活用されていました。=尼崎市杭瀬南新町

■1995年12月22日 震災340日目

突堤の間を埋め立て、新たな埠頭が整備される神戸港新港突堤東部地区。耐震強化岸壁を造成するために巨大な円柱型鋼板セルを海底に打ち込む工事が始まりました。=神戸港新港第8突堤(当時)沖

■1995年12月21日 震災339日目

震災で地下ホームの天井を支える柱が押しつぶされた大開駅。復旧工事が進み、震災から丸1年となる96年1月17日に営業を再開することになりました。=神戸市兵庫区

■1995年12月20日 震災338日目

高齢者世帯の多い仮設住宅の自治会が、防火・防犯のために年末の夜警を始めました。400戸が並ぶ住宅群に「火の用心」のかけ声と拍子木の音が響いていました。=神戸市中央区、ポートアイランド第1仮設住宅

■1995年12月19日 震災337日目

但陽信用金庫の職員らが地元の仮設住宅でボランティアに参加。すきま風を防ぐ目張り作業をし、住人のお年寄りに「これで寒さをしのげる」と感謝されていました。=加古川市平岡町、東加古川仮設住宅団地

■1995年12月18日 震災336日目

サンタなどに扮して通学を見守るのは東灘交通安全協会魚崎支部のメンバー。震災で自宅が被害を受けた人もいましたが、春の新学期から安全指導を再開していました。=神戸市東灘区

 

■1995年12月17日 震災335日目

アジア防災政策会議が神戸で開かれ、震災の教訓をテーマに意見交換しました。翌18日には、防災協力の推進などをうたう「神戸防災宣言」を採択しました。=神戸市中央区港島中町6、ポートピアホテル

■1995年12月16日 震災334日目

復興状況を視察する「政府・与党合同調査団」が神戸・長田の菅原市場などを訪れました。短時間の視察に、住民からは「もっと被災地の現状を知って」との声も。=神戸市長田区菅原通

■1995年12月15日 震災333日目

冬の夜を彩る「KOBEルミナリエ」が始まりました。光の装飾芸術を、復興する街のシンボルにしようと開催。荘厳な輝きが震災で傷ついた人々の心を慰めました。=神戸市中央区、旧居留地周辺

■1995年12月14日 震災332日目

区画整理の測量をする派遣職員です。震源地に近い淡路島の北淡町では、東京都や名古屋市、高松市などから派遣された専門職員が実務を担当していました。=津名郡北淡町(現淡路市)

■1995年12月13日 震災331日目

明石海峡大橋と接続する舞子トンネルの建設現場。半アーチ形のパーツをトンネルの屋根に設置する新工法により、従来と比べて10カ月工期を短縮できたそうです。=神戸市垂水区

■1995年12月12日 震災330日目

西宮市唯一の映画館だった「今津文化」が取り壊されました。震災後、建物を応急修理し、被災者のために無料上映などしてきましたが、再建はかないませんでした。=西宮市津門呉羽町

■1995年12月11日 震災329日目

全体の約4分の1の架設が完了した明石海峡大橋で橋桁上の作業が報道陣に公開されました。作業員は防寒服で身を固め、海上約80メートルの高さで工事を続けていました。=明石海峡、淡路側主塔から

■1995年12月10日 震災328日目

神戸市は、区画整理を進めるJR六甲道駅周辺のうち琵琶町地区の事業計画素案を地元に提示しました。公園拡張や歩道併設の道路整備などが盛り込まれていました。=神戸市灘区

■1995年12月9日 震災327日目

震災エイドソング「心の糸」を歌う坂本冬美さん、香西かおりさんら人気歌手5人が兵庫県を訪問。CDなどの売り上げ収益約3千万円を義援金として贈りました。=神戸市中央区、兵庫県公館

■1995年12月8日 震災326日目

盲導犬用の避難グッズを神戸の鍼灸(しんきゅう)師らが開発しました。背中のリュックにはドッグフードや靴、レインコートなどを詰めることができました。=神戸市北区

■1995年12月7日 震災325日目

神戸港の復旧工事に携わる人たちが滞在していたホテル船「シンフォニー号」です。潜水作業員の一人は「小型船を宿に横付けできるので便利」と話していました。=神戸市中央区新港町

■1995年12月6日 震災324日目

震災で全壊した神戸国際会館の代替施設「神戸国際会館ハーバーランドプラザ」がオープンしました。三宮に新会館が完成するまでの3年半の間、代役を務めました。=神戸市中央区東川崎町1

■1995年12月5日 震災323日目

ポートアイランドの仮設住宅の一角で、たこ焼き店の赤ちょうちんが目を引いていました。周囲に喫茶店などがなかったため、住民の貴重な憩いの場となっていました。=神戸市中央区港島南町

■1995年12月4日 震災322日目

被災地で最大規模だった西神第7仮設住宅です。120棟が並び、ピーク時は約1千世帯が暮らしていました。最後の1世帯がここを出たのは99年の秋でした。=神戸市西区

■1995年12月3日 震災321日目

1年の出来事を振り返る「報道展」が神戸で始まりました。開幕式には笹山幸俊神戸市長とオリックスの仰木彬監督が出席。震災を報じた写真に見入っていました。=神戸市中央区東川崎町1

■1995年12月2日 震災320日目

復興へのメッセージが書かれたれんがを敷く「神戸レンガプロジェクト」の除幕式が元町商店街でありました。全国から集まった1500個が歩道にお目見えしました。=神戸市中央区

■1995年12月1日 震災319日目

全壊したライブハウス「チキンジョージ」が復活しました。オープン初日は憂歌団が出演。演奏に合わせ、黒田征太郎さんがライブペインティングを披露しました。=神戸市中央区下山手通2