当時の記者たちが撮影した地震発生日から365日間(95年1月17日~96年1月16日)の写真を、2024年1月17日から毎日掲載していきます。

■1995年8月31日 震災227日目

パリーグ優勝マジックのカウントダウンボードが神戸ハーバーランドに登場。イチロー選手を擁するオリックス・ブルーウェーブの快進撃は被災地の希望の光でした。=神戸市中央区東川崎町1

■1995年8月30日 震災226日目

更地で咲き誇っていたヒマワリの花がしおれ、秋の訪れを感じさせます。大火に遭った鷹取商店街に仮設店舗が建ち、少しずつ生活再建が進んでいました。=神戸市長田区海運町

■1995年8月29日 震災225日目

被災地の子どもたちが大阪湾クルーズを体験した客船「飛鳥」。夏休みの思い出を作ってもらおうと、日本船主協会などが親子150組を無料招待しました。=神戸市中央区の神戸ポートターミナル

■1995年8月28日 震災224日目

復旧工事が進むメリケンパークの岸壁。コンクリートを流す際に定着しやすくするため、作業員が朝から夕方まで、土台の石に付いた大量の藻類を取り除いていました。=神戸市中央区波止場町

■1995年8月27日 震災223日目

補修工事の足場を使って、壁にカラフルな絵を描くボランティアの人たち。再建への励みになればと、芸術家らを中心に街角でアートの花を咲かせていました。=神戸市長田区海運町

■1995年8月26日 震災222日目

避難所からの移転が進まない神戸の待機所です。依然約3300人が学校などの避難所で生活し、市内に12カ所ある待機所へ移ったのは140人だけでした。=神戸市須磨区

■1995年8月25日 震災221日目

被災者を受け入れる待機所となった東灘体育館に、電気コードが張り巡らされていました。エアコン設備がなく、扇風機で暑さをしのいでもらうためでした。=神戸市東灘区魚崎南町

■1995年8月24日 震災220日目

火災で一帯が焼けた神戸市須磨区寺田町、大池町の住民らが集いました。プレハブの住宅が目立つ再建途上の地域で、盆踊りをして亡くなった人たちを悼みました。=神戸市須磨区寺田町

■1995年8月23日 震災219日目

真夏日が続く中、仮設のプレハブ住宅で暮らす男性が暑さをしのぐため屋根に水をかけていました。42度まで上昇した室温が放水後は35度まで下がったそうです。=神戸市灘区稗原町

■1995年8月22日 震災218日目

避難所が解消され、約20張りのテントが並んでいた公園は遊び場に戻りました。地面を見ると、雨水を流すために掘られた溝の跡が残っていました。=神戸市兵庫区門口町

■1995年8月21日 震災217日目

下山手カトリック教会には1910年に建てられたれんが造りの聖堂がありました。市民らに親しまれた名建築でしたが、震災で全壊。この日、解体作業が始まりました。=神戸市中央区下山手通7

■1995年8月20日 震災216日目

岩手県のボランティア団体が、ろうそく2500本をともして「ガンバレ!神戸」の文字を浮かび上がらせました。近くの仮設住宅で暮らす人たちも参加しました。=神戸市西区、西神中央公園

■1995年8月19日 震災215日目

避難所閉鎖を翌日に控えた神戸市には、依然約200の避難所があり、6600人以上が暮らしていました。住居問題の解決と生活再建の道のりは険しいままでした。=神戸市灘区八幡町4、六甲小学校

■1995年8月18日 震災214日目

8月20日に避難所を閉鎖する神戸市は、住居のめどが立たない人が暮らす12の待機所を発表。閉鎖に反対の声が上がる中、受け入れ準備は進められていました。=神戸市兵庫区

■1995年8月17日 震災213日目

震災から7カ月。兵庫区の公園に設営されていた自衛隊のテントから、最後の家族が去りました。段ボール紙に書かれた感謝の言葉が入り口に掛けられていました。=神戸市兵庫区門口町

■1995年8月16日 震災212日目

「Hang In There HYOGO(頑張れ兵庫)」。県と姉妹提携を結ぶオーストラリア西オーストラリア州から、コウノトリを描いた激励の大だこが届きました。=兵庫県庁

■1995年8月15日 震災211日目

各地でお盆の精霊送りが営まれ、震災で亡くなった人をしのぶ機会となりました。神戸では、例年の会場が避難所になっているため場所を変えた地域もありました。=神戸市須磨区

■1995年8月14日 震災210日目

震災後初めてのお盆を迎え、各地で墓参りをする人たちの姿が見られました。修復に手が回らず、墓石が倒れたままになっている墓地もありました。=神戸市東灘区

■1995年8月13日 震災209日目

多様な店がひしめく三宮の中心街。工事用の囲いに紙がたくさん張られていました。「がんばろう」「元気に営業中」などの文字に、道行く人たちも励まされました。=神戸市中央区三宮町1

■1995年8月12日 震災208日目

ほとんどの店舗が倒壊、または焼失した六甲宮前商店街。再開にこぎ着けた店もあれば、更地のままの所も。生活再建への道は一様ではありませんでした。=神戸市灘区六甲町

■1995年8月11日 震災207日目

三宮でビルの解体が進んでいました。テナントビルは135棟中43棟が全半壊。戦後、商業施設などが集まり、拡大し続けてきた繁華街の風景は大きく変わりました。=神戸市中央区北長狭通

■1995年8月10日 震災206日目

JR六甲道駅南の再開発のため解体される「メイン六甲」。神戸市東部副都心の中核として1973年にできた再開発ビルでしたが、震災で壊滅的な被害を受けました。=神戸市灘区深田町4

■1995年8月9日 震災205日目

防災グッズへの関心が高まっていました。緊急時に持ち出す物の中には、ラジオや工具、緊急用ホイッスルなどのほか、震災の体験談をまとめた冊子もありました。=神戸市中央区のそごう神戸店(当時)

■1995年8月8日 震災204日目

長田の復興を願う「下町が好きやねんフェスティバル」が大正筋商店街などで開かれました。バンド「THE BOOM」のコンサートには約3千人が集まりました。=神戸市長田区腕塚町

■1995年8月7日 震災203日目

全国高校野球選手権大会が開幕し、兵庫代表の尼崎北が入場行進しました。大会関係者のあいさつや選手宣誓では、被災地で暮らす人たちを気遣う言葉が目立ちました。=西宮市の甲子園球場

■1995年8月6日 震災202日目

震災で135人が亡くなった神戸市灘区の南八幡地域で合同慰霊祭が行われました。ちりぢりになった住民の安否確認に時間を要し、この時期の開催となりました。=神戸市灘区備後町1、成徳小学校

■1995年8月5日 震災201日目

更地が広がる鷹取地区で夏祭りがありました。手作りのだんじりも登場。法被を着た子どもたちが力を合わせて引っ張り、にぎやかに町内を巡りました。=神戸市長田区

■1995年8月4日 震災200日目

神戸商船大(現神戸大海洋政策科学部)で保存されていた元練習帆船「進徳丸」が、震災の影響で解体されることに。送別会には大勢の卒業生らが出席しました。=神戸市東灘区

■1995年8月3日 震災199日目

再建中の生田神社で夏祭りが開かれました。工事関係者が、社殿修復で出た残材を夏休みの工作などに使ってもらおうと配り、同時に募金も集めました。=神戸市中央区下山手通1

■1995年8月2日 震災198日目

お留守番でしょうか。真夏の日差しの下、更地の小屋に犬がいました。日よけのシートがかけられ、洗面器には水がたっぷりと入っていました。=神戸市長田区久保町

■1995年8月1日 震災197日目

神戸大橋修復工事のため、橋の中ほどから新港第3突堤まで全長約400メートルの仮設橋が設けられました。工事の終わる1996年6月まで使われました。=神戸市中央区