当時の記者たちが撮影した地震発生日から365日間(95年1月17日~96年1月16日)の写真を、2024年1月17日から毎日掲載していきます。
■1995年5月31日 震災135日目
世界的指揮者ロリン・マゼールさんとピッツバーグ交響楽団による慈善演奏会が神戸で開かれました。フルート奏者の山形由美さんら日本の演奏家も参加しました。=神戸市須磨区緑台、グリーンアリーナ神戸
■1995年5月30日 震災134日目
校庭や公園にはプレハブの教室や仮設住宅が立ち並び、子どもたちの遊び場は減りました。初夏の昼下がり、住吉川で野球をしているグループがいました。=神戸市東灘区西岡本
■1995年5月29日 震災133日目
工事現場のそばを子どもたちが歩いています。無造作に置かれた鉄板。視界を遮る路上駐車の列。復旧が進む町の通学路は危険をはらんでいました。=神戸市長田区
■1995年5月28日 震災132日目
気温が上昇する中、大勢の人たちが身を寄せる「テント村」では食品の保管が課題に。食中毒を防ぐために保冷コンテナが活用されていました。=神戸市灘区
■1995年5月27日 震災131日目
歌手の五木ひろしさんの無料コンサートが開かれました。約8千人を前に五木さんは「私の歌で励ますことができればうれしい」と、目頭を押さえる場面もありました。=神戸市長田区、大正筋商店街
■1995年5月26日 震災130日目
一日も早い機能回復を目指し、港周辺の工事は急ピッチ。防波堤の修復工事では、鋼製型枠にプラント船から次々とコンクリートが流し込まれる様子が見られました。=神戸港
■1995年5月25日 震災129日目
震災で全焼した跡地にプレハブ店舗を建設した菅原市場が、4カ月ぶりに再オープンしました。なじみの店での買い物を楽しみに避難先から戻った人もいました。=神戸市長田区菅原通
■1995年5月24日 震災128日目
神戸税関の輸入通関検査を受ける高性能の廃材破砕機。「震災復興に役立ててほしい」と、米国の機械メーカーから無償で届けられました。=神戸市東灘区、六甲アイランド
■1995年5月23日 震災127日目
焼け残ったビルの間で、建物の再建が始まっていました。組み上げられる真新しい木材が、くすんだ風景の中で映えていました。=神戸市長田区二葉町
■1995年5月22日 震災126日目
震災で企業が採用を控えるなど厳しい状況下で迎えた就職活動シーズン。大学生らを対象にした合同会社説明会が開かれ、会場前に長蛇の列ができました。=神戸市中央区東川崎町1
■1995年5月21日 震災125日目
震災の影響で神戸まつりは中止となりましたが、商店主やボランティアらの協力で「神戸五月まつり」が開かれました。パレード会場は華やかさに包まれました。=神戸市中央区、元町商店街
■1995年5月20日 震災124日目
火災の跡が残る町に「開運地蔵」が鎮座していました。地元の人の話では、1938(昭和13)年の阪神大水害でどこからか流されてきたそうです。=神戸市兵庫区湊川町
■1995年5月19日 震災123日目
倒壊した店舗の跡地に並ぶ3枚の作品。店主の依頼を受けてイラストレーターがその場で描いたものです。更地を彩るアートは、道行く人たちにも好評でした。=神戸市兵庫区下沢通
■1995年5月18日 震災122日目
不通の神戸電鉄湊川-長田間をカバーするため代替バスが走っていました。夕刻、新開地の乗り場は多くの人で混雑し、行列が地下街まで延びていました。=神戸市兵庫区
■1995年5月17日 震災121日目
倒れた石の鳥居に観音像を彫る人がいました。ボランティア活動をしていた芸術家で「被災者の気持ちが少しでも和めば」と、のみと金づちを振るっていました。=神戸市東灘区御影石町
■1995年5月16日 震災120日目
プレハブの仮設店舗で再開した宮前市場です。周辺では震災後の大火で焼けてしまった家屋も多く、いち早く再建への動きを見せたことが注目されました。=神戸市灘区森後町
■1995年5月15日 震災119日目
季節が進むにつれ雨の日が多くなってきました。この日は大雨警報が出され、テント生活を続けている人たちは溝を掘るなどして備えていました。=神戸市東灘区本山南町
■1995年5月14日 震災118日目
震災から4カ月がたとうとしている被災地に「母の日」が巡ってきました。更地の中にそっと置かれた淡い色のカーネーションが雨に濡れていました。=神戸市長田区
■1995年5月13日 震災117日目
廃材などが撤去され、建物の基礎部分だけが残っていた新甲南市場跡。商店主らは駐車場跡にプレハブの共同仮設店舗を準備し、再建への道を探っていました。=神戸市東灘区甲南町
■1995年5月12日 震災116日目
英国製の仮設住宅500戸が並ぶ神戸・六甲アイランド。畳やユニットバスを除き、資材はすべて空輸されてきたものです。白い外観も当時話題になりました。=神戸市東灘区向洋町東
■1995年5月11日 震災115日目
兵庫県への提言をまとめる阪神・淡路震災復興計画策定調査委員会の初会合が開かれました。当時はまだ3万を超える人たちが避難生活を余儀なくされていました。=神戸市中央区、兵庫県公館
■1995年5月10日 震災114日目
震災で被害を受けた神戸海洋気象台(現・神戸地方気象台)で、大正期のステンドグラスが無傷で残っていました。カモメやヨットなどミナト神戸らしい図柄でした。=神戸市中央区中山手通
■1995年5月9日 震災113日目
大火に包まれた町で、子どもたちがヘルメットをかぶって歩いていました。被災地では工事現場や壊れたままの建物が多く、登下校の時も注意が必要でした。=神戸市兵庫区松本通
■1995年5月8日 震災112日目
阪神大石駅南の灘大石市場も大きな被害を受けました。この頃は都賀川沿いにテントを張って営業を続けていましたが、市場再生へのめどは立っていませんでした。=神戸市灘区
■1995年5月7日 震災111日目
立夏を過ぎ、日差しが強さを増す中、仮設住宅の暑さが深刻になってきました。遅れる行政の対応に見切りをつけ、自費でクーラーを設置する入居者もいました。=神戸・ポートアイランド
■1995年5月6日 震災110日目
近所の子どもたちがやって来る駄菓子屋さん。震災で店舗は大きな被害を受けましたが、土間に商品を並べて営業していました。=神戸市中央区宮本通
■1995年5月5日 震災109日目
復興を祈るメッセージとともに、高校生や幼稚園児らによって描かれた作品が六間道商店街に完成しました。倒壊した建物の跡地に沿って張られ、地域を彩っていました。=神戸市長田区
■1995年5月4日 震災108日目
建築家村野藤吾が設計した旧神戸新聞会館は震災で全壊し、解体工事が進められていました。北側壁面に描かれた富士山は、山裾の一部を残すのみでした。=神戸市中央区雲井通7
■1995年5月3日 震災107日目
森稲荷神社の境内にだんじりが登場しました。被災地の復興を願い、法被姿の男性らが勇壮に引き回すと、見物の人たちから歓声が上がりました。=神戸市東灘区森北町
■1995年5月2日 震災106日目
ケミカルシューズ関連の会社が多い神戸・長田では、操業を再開するメーカーが増えてきました。求人の張り紙も「急募」の文字が目立っています。=神戸市長田区
■1995年5月1日 震災105日目
この年のメーデーは連合系、労連系ともに震災犠牲者に黙とうをささげて始まりました。戦後初めてデモやパレードを取りやめるなど、自粛ムードの中での開催でした。=神戸市中央区、メリケンパーク