当時の記者たちが撮影した地震発生日から365日間(95年1月17日~96年1月16日)の写真を、2024年1月17日から毎日掲載していきます。

■1995年4月30日 震災104日目

解体が進む繁華街のテナントビル。かつてのにぎわいを知っているであろう看板のゴリラが寂しそうにも見えます。=神戸市中央区北長狭通

■1995年4月29日 震災103日目

長引く公園での避難生活。雨が続くと水たまりもできます。テントの中へ水が流れ込まないように溝が掘られていました。=神戸市灘区大内通

■1995年4月28日 震災102日目

高架の復旧工事が行われていた阪神本線。軌道の下には仮設通路が造られていました。高架を挟んで行き来できる住民の生活道路でした。=神戸市灘区大石東町

■1995年4月27日 震災101日目

全国から派遣された自衛隊の災害派遣終了式と「自衛隊への感謝のつどい」が市民も見守る中で行われました。100日間で延べ224万人の隊員が派遣されました。=神戸市灘区、王子公園陸上競技場

■1995年4月26日 震災100日目

山陽電鉄山陽塩屋駅周辺で復旧工事が続いていました。地元の了解を得て付近では工事時間が延長され、予定よりも早く作業が進められていました。=神戸市垂水区

■1995年4月25日 震災99日目

被災地で集められた廃材などを満載し、神戸の処分場「布施畑環境センター」へ向かうトラックの列です。ピーク時には1日5200台が、廃棄物を運び入れました。=神戸市西区

■1995年4月24日 震災98日目

交通安全を願う「国道地蔵尊」も倒壊家屋の下敷きになりました。地元住民らの要望を受けて復旧工事の業者ががれきの中から引き出し、家屋の跡地に横たえました。=神戸市東灘区本山中町4

■1995年4月23日 震災97日目

神戸を元気づけようと、歌手の水前寺清子さんが無料コンサートを開きました。「三百六十五歩のマーチ」などおなじみのメロディーを、観客も一緒に歌いました。=神戸市中央区東川崎町1

■1995年4月22日 震災96日目

陸上の祭典「兵庫リレーカーニバル」の開催に合わせ、会場となっているユニバー記念競技場の芝に刈り込まれた「ガンバレ KOBE」の文字が公開されました。=神戸市須磨区緑台

■1995年4月21日 震災95日目

神戸・三宮とポートアイランドを結ぶポートライナーは橋げたや橋脚が被害を受け、不通となりました。島の住民やそこで働く人たちは、不便を強いられました。=神戸市中央区港島

■1995年4月20日 震災94日目

須磨海浜水族園は震災で海水を導入するパイプが破損。停電や水槽の漏水で展示魚類の約半分が死にました。全国の水族館からの支援で再開にこぎ着けました。=神戸市須磨区若宮町

■1995年4月19日 震災93日目

西宮大橋が復旧工事で長期間通行止めになるため、近くの海域を埋め立て、仮設道路が造られました。長さ約100メートルで、片側各一車線と歩道が整備されました。=西宮市西波止町

■1995年4月18日 震災92日目

金屛風に囲まれた五月人形に子どもたちは誇らしげです。当時400人を超える住民らが避難していた真陽小学校に、岐阜県のボランティアが贈ってくれました。=神戸市長田区二葉町

■1995年4月17日 震災91日目

震災発生から3カ月。まだ再開できない商店も多く、被害が大きかった大正筋商店街では焼けたアーケードの撤去作業が進められていました。=神戸市長田区久保町

■1995年4月16日 震災90日目

統一地方選挙後半戦が告示されました。震災の傷痕が生々しい宝塚市では復興策が市議選の争点に。各候補とも派手な運動は控え、静かな選挙戦がスタートしました。=宝塚市清荒神

■1995年4月15日 震災89日目

避難テントの明かりを調整する配電盤を、廃材など拾い集めた材料で作るボランティアの中学生。斬新なアイデアと器用な腕前で被災者を支えました。=神戸市長田区、新湊川公園

■1995年4月14日 震災88日目

店舗を再開させることができても、周辺では復旧作業が続いています。工事用フェンスに商品をつり下げ、傘を雨よけにして商いをする光景も見られました。=神戸・三宮

■1995年4月13日 震災87日目

地震後の大火で焼けた鷹取商店街周辺は整地が進み、荒れ果てた状況は薄れてきました。自衛隊による建物の境界線の掘り起こしや廃材の撤去が続けられていました。=神戸市長田区日吉町

■1995年4月12日 震災86日目

店舗の多くが全半壊した阪神西宮駅南地区。町の復興を目指して商店主や自治会が将来像を語り合いました。アーケードに残る時計は「あの瞬間」を指したままです。=西宮市馬場町

■1995年4月11日 震災85日目

家屋の倒壊などによって多くの人が犠牲になった地域の公園で、子どもたちが遊んでいました。避難生活を続ける人たちのテントを、満開の桜が優しく包んでいます。=芦屋市津知町

■1995年4月10日 震災84日目

戦後復興で人々の背中を押した名曲「リンゴの唄」を歌った並木路子さんが、避難所を訪れました。特設ステージに登場すると拍手が沸き起こり、歌声に涙ぐむ人もいました。=神戸市東灘区、東灘小学校

■1995年4月9日 震災83日目

避難所になっていた当時の大黒小学校で、入学式を行うため運動場にテントが設置されました。地域では地震後に火災もあり、一時2300人が身を寄せていました。=神戸市須磨区大黒町

■1995年4月8日 震災82日目

地震による倒壊を免れたものの、屋根が傷んだ住宅は多く、各地で修理する様子が見られました。ブルーシートを使った応急処置も目立ちました。=神戸市長田区

■1995年4月7日 震災81日目

大火に見舞われた菅原市場で「花まつり」が開かれました。かつてアーケードがあった場所にはのぼりが並び、焼け跡ににぎやかさが戻ってきました。=神戸市長田区菅原通

■1995年4月6日 震災80日目

阪急電鉄で最大の被害とされた神戸線西宮北口-夙川間は、全線開通に向け工事が急ピッチ。高架下の商店街は復旧までの間、移転や休業で苦しい状況が続きました。=西宮市

■1995年4月5日 震災79日目

4月下旬に開かれる陸上の祭典「兵庫リレーカーニバル」には小学生も出場します。プレハブが建てられて練習場は狭くなっても、走れる喜びがみなぎっています。=神戸市東灘区、本山第二小学校

■1995年4月4日 震災78日目

バナナなど青果物の荷役が多い兵庫突堤も、岸壁が陥没する被害を受けました。荷役作業や工事が行われていない場所では、釣り人がのんびり糸を垂らしていました。=神戸市兵庫区築地町

■1995年4月3日 震災77日目

多くの会社や工場が被災したケミカルシューズの街、神戸・長田。写真の靴底金型メーカーは1階に設備を集約させるために、2階の床を破って機械を下ろしました。=神戸市長田区神楽町

■1995年4月2日 震災76日目

震災で損傷した「摩耶大橋」の撤去作業が行われました。2隻の大型海上クレーン船が南側にあるハーバーハイウェイをまたぐ形で橋をつり上げ、運び出しました。=神戸市灘区

■1995年4月1日 震災75日目

不通だった灘-住吉間の復旧工事が完了したことでJR神戸線が全線開通しました。被害が大きかった六甲道駅も再開。関係者が始発電車の到着を拍手で迎えました。=神戸市灘区、JR六甲道駅