当時の記者たちが撮影した地震発生日から365日間(95年1月17日~96年1月16日)の写真を、2024年1月17日から毎日掲載していきます。
■1995年3月31日 震災74日目
プロ野球オリックスが、開幕前日に本拠地グリーンスタジアム神戸で練習をしていました。イチロー選手らナインの肩には決意のワッペンが付けられていました。=神戸市須磨区
■1995年3月30日 震災73日目
新大阪ー姫路間が不通になっていた山陽新幹線の再開に向け、新神戸駅で準備が進みます。線路や架線などを点検する「ドクターイエロー」が走る様子も公開されました。=神戸市中央区
■1995年3月29日 震災72日目
大きな公園に仮設住宅が建てられていました。仮設が建てられないわずかな部分は、遊び場が限られている子どもたちにとって貴重な空間になっていました。=神戸市東灘区青木4
■1995年3月28日 震災71日目
大規模な火災に見舞われた菅原商店街で、アーケードの撤去作業が行われました。重機が動き回るすぐ横では、プレハブを建てて再開している店舗もありました。=神戸市長田区菅原通
■1995年3月27日 震災70日目
阪神新在家駅の西側は、高架の倒壊や周辺の火災で大きな被害を受けました。復旧工事は大がかりになり、高架を造り替える作業が続けられていました。=神戸市灘区新在家北町
■1995年3月26日 震災69日目
港巡りの観光船は震災後、陸上交通の代替として活躍しました。一段落した後は、週末や休日の運行を再開。傷跡の大きい岸壁周辺にも観光客の姿が戻ってきました。=神戸市中央区波止場町
■1995年3月25日 震災68日目
第67回選抜高校野球大会は、2万2千人の観衆を集めて開幕しました。入場行進では、育英、神港学園、報徳の地元3校のナインが大きな拍手を受けました。=西宮市の甲子園球場
■1995年3月24日 震災67日目
全国からの応援を受けて、ライフラインに欠かせないインフラが徐々に復旧しました。壊れた建物の解体が進むと、高所作業車が動き回る様子も目立ってきました。=神戸市東灘区魚崎中町
■1995年3月23日 震災66日目
大きな被害を受けた神戸・三宮の繁華街に、一つ、また一つと店の明かりが灯り始めていました。人影の少ない通りに「東門街」のネオンが力強く輝いています。=神戸市中央区
■1995年3月22日 震災65日目
地震から2カ月がすぎ、撤収するボランティアも増えてきました。寄せ書きのように、励ましの言葉がつづられた帽子をかぶっている人がいました。=神戸市須磨区
■1995年3月21日 震災64日目
彼岸に合わせ、震災犠牲者を慰霊する催しが開かれました。大規模な火災に見舞われた神戸・長田の菅原市場周辺では、住民らが火をたき、亡き人たちのめい福を祈りました。=神戸市長田区菅原通
■1995年3月20日 震災63日目
体育館が避難所になっていたため、卒業式はグラウンドで行われました。避難者やボランティアが準備した花を手に入場した6年生は、大勢の人に見送られて巣立ちました。=西宮市上甲子園3、春風小
■1995年3月19日 震災62日目
学校ではなく、公園などの広場に避難している人たちがいました。「テント村」とも呼ばれ、屋外と変わらない気温の中で寝起きをする厳しい生活でした。=神戸市灘区中郷町5
■1995年3月18日 震災61日目
神戸・三宮の繁華街で道路をふさいだビルの撤去工事が進んでいます。「東門街」をはじめ周辺の飲食店は軒並み被災。屋台を含めても営業店舗はまだ多くありませんでした。=神戸市中央区
■1995年3月17日 震災60日目
震災発生から2カ月。解体と撤去作業は休みなく続き、地震直後の荒廃した光景は少しずつ減ってきました。更地に真新しい花がそっと手向けられていました。=神戸市長田区水笠通
■1995年3月16日 震災59日目
兵庫県の都市計画審議会に合わせ、神戸市の計画に反対する地域住民らが抗議の声を上げました。「避難して検討ができない。性急すぎる」と見直しを求めていました。=神戸市中央区、県公館
■1995年3月15日 震災58日目
JR三ノ宮駅前のそごう神戸店(当時)は外壁が崩れる大きな被害を受け、昔の壁面が露出しました。1933年に建てられ、水害や戦災もくぐり抜けた歴史の証人です。=神戸市中央区小野柄通8
■1995年3月14日 震災57日目
震災後の光景は、簡素で殺風景になりがちでした。避難所の救援物資を保管する場所はブルーシートで囲われていましたが、子どもたちの描く絵が被災者の心を和ませました。=神戸市長田区一番町4、御蔵小学校
■1995年3月13日 震災56日目
震災後の大火で焦土と化した街並みです。この地域は家屋の約7割が全焼・全壊しました。高所作業車が連なり、電線を張り直す復旧作業が少しずつ進められました。=神戸市兵庫区松本通
■1995年3月12日 震災55日目
阪急神戸線の三宮~王子公園間が翌日の再開を控えていました。被害の大きかった区間では工事が続いており、全線開通までの道のりの長さが浮き彫りになりました。=神戸市東灘区西岡本3
■1995年3月11日 震災54日目
崩れたアーケードを撤去した三宮センター街に人が戻ってきました。半数を超える店が営業を再開。生活用品を求める買い物客でにぎわいを取り戻そうとしています。=神戸市中央区三宮町1
■1995年3月10日 震災53日目
神戸港で最も高い位置にあった灯台「オリエンタルホテル屋上灯台」が休止されました。四角いガラス張りで、10秒ごとに赤と緑の光を交互に点灯していました。=神戸市中央区京町
■1995年3月9日 震災52日目
大勢の人たちが身を寄せる避難所では、洗濯物を干す場所にも工夫が必要です。水のないプールを利用して、コースロープを物干しざお代わりにする光景も見られました。=神戸市長田区大谷町1、蓮池小学校
■1995年3月8日 震災51日目
震災から50日が過ぎても、時間が止まったかのような地域があります。倒壊した家屋はそのままで、人や車がかろうじて通れるようにしている場所もありました。=神戸市灘区大内通
■1995年3月7日 震災50日目
被災地の近隣地域でも仮設住宅の建設が進みます。兵庫県は当時の貨物ヤード用地を借り上げ、被災地外で最大規模となる千戸の「東加古川団地」を建設しました。=加古川市平岡町
■1995年3月6日 震災49日目
避難所で提供される食事は、朝はパンかおにぎり、昼と夜は弁当というのが主流でした。弁当も衛生面やコストの問題から揚げ物、焼き物が多くなり、野菜は不足気味でした。=神戸市灘区鶴甲2、鶴甲小学校
■1995年3月5日 震災48日目
たくさんの人が亡くなった神戸市や阪神間の自治体で合同慰霊祭が営まれました。神戸文化ホールでは、参列者が遺影を胸に抱え、花を手向けました。=神戸市中央区楠町4
■1995年3月4日 震災47日目
不通になった線路を子どもたちが自転車で走っています。道路は倒壊した建物にふさがれていたり、復旧作業が続いていたりと、通行には不便なことがありました。=神戸市須磨区平田町5
■1995年3月3日 震災46日目
倒壊家屋やビルの解体作業が続き、街はほこりっぽくなっていました。通学路周辺も例外ではありません。子どもたちはマスクをしていました。=神戸市東灘区深江北町2
■1995年3月2日 震災45日目
被災地ではビルの解体が次々と進みました。傾いたままの建物は危険で、作業を急ぐ必要があります。あちこちの現場に、全国から多くの重機が投入されました。=神戸市長田区日吉町3
■1995年3月1日 震災44日目
断水が続く耐乏生活の中では、子どもたちも立派な「働き手」。火災の被害を受けた地域で、ポリタンクで水を運んでいた2人組の女の子が撮影に応じてくれました。=神戸市灘区六甲町