当時の記者たちが撮影した地震発生日から365日間(95年1月17日~96年1月16日)の写真を、2024年1月17日から毎日掲載していきます。

■1995年2月28日 震災43日目

神戸港も広い範囲で被災しました。ガントリークレーンの多くが、移動用のレールやクレーンの脚部に被害を受けています。港の復旧に向け解体が進みました。=神戸市東灘区の六甲アイランド

■1995年2月27日 震災42日目

支援に携わる人たちが集まる一方で、被災者の気持ちを逆なでするような出来事もありました。街角の張り紙は、そこに暮らす人たちの心情を表しているようでした。=神戸市中央区

■1995年2月26日 震災41日目

倒壊家屋の撤去などで自衛隊が活動していました。がれきの中から貴重品や家財を取り出す姿に「あきらめていたけど、助かりました」と住民がお礼の花束を贈りました。=神戸市中央区神若通1

■1995年2月25日 震災40日目

多くの店舗が焼失した大正筋商店街で建物の撤去が進みます。残ったビルやアーケードは黒くすすけ、熱で変形するなど、大火のすさまじさを物語っていました。=神戸市長田区久保町

■1995年2月24日 震災39日目

駅ビル3階にあったホームが、停車中の電車8両とともに2階部分に崩れ落ちた阪急伊丹駅。解体され更地になりましたが、仮駅舎の建設が400㍍離れた場所で進みました。=伊丹市西台1

■1995年2月23日 震災38日目

長引く避難所での生活。周囲を気遣いながらの暮らしはストレスがたまります。「居住空間」確保のために、プライバシーを守るパネルが立てられたところもありました。=芦屋市川西町、市立体育館・青少年センター

■1995年2月22日 震災37日目

避難所で暮らす人たちに食べてほしいと大根が送られてきました。一部を保存食にするため、クラブ活動で使うネットを利用して大根を干しました。=神戸市東灘区中町8、御影高校グラウンド

■1995年2月21日 震災36日目

神戸、西宮、宝塚市は、解体した家屋の廃材を緊急措置として埋め立て地などで野焼きしました。大量処分で炎と煙が激しく上がり、周辺の住宅地に影響を及ぼしました。=西宮市甲子園浜

■1995年2月20日 震災35日目

ホテルオークラ神戸の壁に浮かび上がった「ファイト」の文字です。まだ営業再開はしていませんでしたが、窓の明かりを使って演出した被災地へのエールでした。=神戸市中央区

■1995年2月19日 震災34日目

1956年の開館以来、三宮の顔として歴史を刻んできた神戸国際会館は全壊し、取り壊しが決まりました。この日は舞台関係者によって送別式が行われました。=神戸市中央区

■1995年2月18日 震災33日目

駅舎が倒壊したJR六甲道駅では復旧工事が急ピッチで進みました。高さ10メートルの高架が約2キロにわたって崩れたため、作業するクレーンが林立しています。=神戸市灘区永手町

■1995年2月17日 震災32日目

震災発生から1カ月。被災地では家族や友人を亡くした人たちが、それぞれの場所で祈りをささげました。地滑りで34人が犠牲になった地区でも法要がありました。=西宮市仁川町6

■1995年2月16日 震災31日目

被災地では復旧作業に伴い、毎日、大量のごみが発生しました。神戸・三宮に近い場所にも仮置き場が設けられましたが、カモメが大群で集まるようになりました。=神戸市中央区小野浜町

■1995年2月15日 震災30日目

全国から届く救援物資の集積場所になったのがグリーンアリーナ神戸です。自衛隊も近くに宿営し、被害の比較的少なかった地域が被災地の「支援センター」になりました。=神戸市須磨区緑台

■1995年2月14日 震災29日目

ミナト神戸の象徴、ポートタワーの灯が震災発生以来約1カ月ぶりに戻りました。隣の神戸海洋博物館のライトアップも行われ、神戸市民の希望の灯になりました。=神戸市中央区

■1995年2月13日 震災28日目

被災地に仮設住宅が建てられる場所は多くはありません。かつてプロ野球や高校野球の熱戦が繰り広げられた神戸市民球場でも設備をそのままに工事が進みました。=神戸市長田区蓮池町

■1995年2月12日 震災27日目

避難所になっていた当時の二宮小学校に、支援物資とともにひな人形が届けられました。子どもたちに笑顔で出迎えられました。=神戸市中央区二宮町3

■1995年2月11日 震災26日目

水道の復旧には時間がかかるため、避難所や地域の拠点などに給水車が配置されました。大阪府警の警備用放水車もかり出され、給水を待つ住民たちが集まりました。=神戸市兵庫区松本通

■1995年2月10日 震災25日目

復旧工事が進められた阪神高速神戸線の橋脚に、注射器のようなものが差し込まれています。ひび割れが生じた部分に樹脂を注入し補強する作業が行われていました。=神戸市東灘区青木

■1995年2月9日 震災24日目

全半壊率が93%と芦屋市内で最も被害が大きかった津知町付近の復旧作業の様子です。自衛隊員がチェーンソーや重機で家屋を解体し、トラックに運び込みました。=芦屋市

■1995年2月8日 震災23日目

震災後、休校が続いていた兵庫高校(神戸市長田区)の1、2年生が鈴蘭台高校を間借りし授業を再開させました。生徒たちは待ちわびた友人との再会を喜びました。=神戸市北区山田町下谷上、鈴蘭台高校

■1995年2月7日 震災22日目

神戸市で仮設住宅入居の当選者発表がありました。約6万世帯が応募しましたが、この日の発表は2701戸分。当選一覧表の前には、大勢の人たちが集まりました。=神戸市長田区寺池町1、兵庫高校

■1995年2月6日 震災21日目

神戸市がり災証明書の発行を始め、初日は朝早くから長い行列ができました。仮設トイレ(右上)や積み上げられた廃棄物(左)が生活の不自由さを物語っています。=長田区役所

■1995年2月5日 震災20日目

焼け跡の中で広がったパラソルが色鮮やかです。火災で店舗を失いながら「再開」の看板を掲げた喫茶店。温かいコーヒーが復旧作業に携わる人たちにも好評でした。=神戸市須磨区寺田町

■1995年2月4日 震災19日目

インフラの復旧作業は、周辺自治体からの応援も得ながら行われました。液状化の被害があったポートアイランドでも、水道管の工事が急ピッチで進められました。=神戸市中央区

■1995年2月3日 震災18日目

節分の日。子どもたちを喜ばせようと各地でささやかな催しが企画されました。避難所の小学校でも豆まきが行われ、暗くなったグラウンドに歓声が響き渡りました。=神戸市東灘区本山南町4、福池小学校

■1995年2月2日 震災17日目

被害の大きかった地域では、学校の校庭で避難生活を送る人もいました。夜になると、周囲に明かりが少ない中で、校庭は車とテントでいっぱいになりました。=神戸市長田区一番町4、御蔵小学校

■1995年2月1日 震災16日目

2月に入ると学校は次々と授業を再開しました。被災して校舎が使えない学校では、グラウンドに椅子や机を並べる「青空教室」のような光景も見られました。=神戸市東灘区岡本3、本山中学校