当時の記者たちが撮影した地震発生日から365日間(95年1月17日~96年1月16日)の写真を、2024年1月17日から毎日掲載していきます。

■1995年1月31日 震災15日目

震災の被災者を見舞うため兵庫県入りされた天皇、皇后両陛下は震源地の淡路島も訪れました。避難所では一人一人に声をかけ、励ます姿が見られました。=津名郡北淡町、町民センター(現淡路市)

■1995年1月30日 震災14日目

JR神戸線の須磨-神戸間が運転を再開しました。バスによる代替輸送との連結で、姫路方面と大阪が公共交通で結ばれました。ホームは通勤客で混雑しました。=神戸市中央区、JR神戸駅

■1995年1月29日 震災13日目

避難所となった体育館などでは、風邪が流行するなど被災者の体調が心配されました。手洗い場に、うがい薬の入ったペットボトルを用意するところもありました。=神戸市須磨区青葉町、鷹取中学校

■1995年1月28日 震災12日目

長年親しまれた旧神戸阪急ビル東館(阪急会館)も大きな被害を受けました。解体が始まってからは立ち止まって眺める人が多く、別れを惜しんでいるようでした。=神戸・三宮

■1995年1月27日 震災11日目

神戸・阪神間を中心に、住まいを失った被災者向け仮設住宅の建設が急ピッチで進みました。尼崎市でも公園での建設が始まっていました。=尼崎市杭瀬南新町3、小田南公園

■1995年1月26日 震災10日目

被害が大きかった芦屋市の市街地。倒壊した建物が集中する区域は通行も困難になり、がれきとがれきの隙間を人々が行き交っていました。=芦屋市大桝町

■1995年1月25日 震災9日目

家族や知人の安否を確かめるために被災地を訪れた人たちへの配慮でしょうか。倒壊した建物の前に、生存を知らせる看板が置かれていました。=神戸市中央区日暮通

■1995年1月24日 震災8日目

地震の後に広がった火災で、大きな被害が出た地域がありました。花が手向けられた焼け跡で機動隊員が捜索活動を続けていました。=神戸市長田区菅原通

■1995年1月23日 震災7日目

震災発生から1週間。神戸市中央卸売市場では鮮魚の競りが再開しました。取引量はまだ少なかったのですが、威勢のいいかけ声が響いて市場に活気が戻りました。=神戸市兵庫区

■1995年1月22日 震災6日目

避難所に身を寄せる人たちに温かい食べ物を届けることは困難でしたが、被災者やボランティアたちが協力しながら、炊き出しで豚汁を振る舞うこともありました。=神戸市東灘区深江北町2、東灘小学校

■1995年1月21日 震災5日目

倒壊したビルは救助が難航しました。JR甲子園口駅前の現場もその一つ。重機を投入し、行方不明者の捜索活動が懸命に続けられました。=西宮市甲子園北口町

■1995年1月20日 震災4日目

被災地の公共交通機関は機能していませんでした。神戸-大阪間の緊急旅客輸送にクルーズ船が使われ、岸壁には被災地外へ避難する人たちの長い行列ができました。=神戸市中央区東川崎町1、神戸ハーバーランド

■1995年1月19日 震災3日目

被害の全容はなかなか分かりませんでした。
人々は情報を得ようとラジオを手にしながら、避難所に届けられた新聞を食い入るように読みました。=神戸市中央区野崎通1、上筒井小学校

■1995年1月18日 震災2日目

全国から消防、警察、自衛隊が救助に駆けつけました。
作業は夜を徹して続けられ、近くにいる人たちは祈る思いで見守りました。=神戸市長田区御船通

■1995年1月17日 震災1日目

淡路島北部を震源とする最大震度7の激震は兵庫県南部に大きな被害をもたらしました。
昔ながらの商店が連なる地域は猛火に襲われ、一帯が焼けました。=神戸市長田区の鷹取商店街