阪神・淡路大震災の発生から20年です。
皆さんは震災の前日を覚えていますか。
1995年1月16日、月曜日、3連休の最終日。
神戸の天気は晴れのち曇りでした。
1月16日に思いをはせ、そこから20年をふりかえってみませんか。
いただいたメッセージは、神戸新聞紙面に掲載することもあります。

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最新メッセージ
436件
担当者が
聞きました
旅行から楽しく戻ってきた

私の父、母、主人、私、私の子供達、弟の家族10人で三重の白山に旅行に行って
楽しく過ごして戻って来ました。
明日から又、仕事だと思うと「大変だなぁ気合い入れなきゃ」
「旅行疲れ出さないように早く寝よう」
明日の悪夢のことなど夢にも思わず就寝しました。

A子
(58歳・女性・神戸市北区・会社員)
2015年12月14日 10:22
もしあのまま入院していたら

子どもを預かってもらい、結婚式に出席。九州や東京の友達にも合うことができて、結婚式の3次会のあと、食あたりになり神戸市中央区の中央市民病院で手当てを受け入院をすすめられましたが、子どもの待つ家に帰宅したのが1/16の夕方でした。
入院を勧められるくらいの具合の悪さだったので激痛で眠れませんでした。
いつもなら寝相の悪い子どもの寝相をなおすのに抱きあげるのに痛くて抱き上げることができなかったことが幸いして家具と家具の隙間で助かりました。
あのまま入院していたら子どもと離れ離れになりどうなっていたか想像もつきません。
1/17前に2回ほど揺れを感じた時地震?と言葉にしたら「酔っ払っているからじゃないの?」と言われたことも記憶に残っています。
夜明け前の近づく「ゴゴゴ」の音と「ドーン!」の音とともに体が浮いて身動きとれなくなった長い長い夜が私の1/16です。

匿名希望
(52・女性・神戸市兵庫区・無職)
2015年11月16日 00:40
夕食のあとに感じた軽い揺れ

大阪府岸和田市に在住です。
当時も岸和田市に在住でした。
前日、夕食のあと居間のこたつに座っていると、不思議な感触がしました。

ちょうど小型の船にのっていて、ひと波をこす瞬間のような、ふわっと上がり、すっと降りたのを感じました。

普通の揺れかたではなかったからか、家族は気づかなかったようでしたが、テレビでは震度1とか軽い揺れを報道していたように記憶しています。

この冬は、見たことがないほど鼠が出没して、困っていましたが、震災のあとはでなくなったと記憶しています。

くまきち
(42・女性・岸和田市・Web制作)
2015年6月26日 23:51
前日に地震の夢を見ました

私は、当時高校1年生。
兵庫県三田市。14階建てマンションの4階に住んでいました。

前日に見た夢の話です。
鮮明に覚えています。
地震の夢を見ました。
眠っていると、突然激しくガタガタ部屋が揺れ始め、目を醒ますとまさに、家が揺れ、頭の上の電気の笠が激しく揺れ、怖くて隣に眠っていた姉に「姉ちゃん!怖い!!」としがみつく、夢でした。

あまりの、怖さに、姉、母、友人数人に話しました。
「具体的に話し、ほんまみたいで怖かったわ~」と。

すると、次の日。
まったく、同じシシュエーションで
地震が来て、私は、夢と同じでお姉ちゃんに思わず、「ほら!見てみい!」と泣きながら言いました。

かずこ
(36・女性・守口市・介護士)
2015年3月 5日 00:21
食べられなくなったすき焼き

地震の前の日は、その週にある、会計監査の為の事務処理で休日出勤していました。二女が風邪だったので栄養をと思い、奮発して、大阪の百貨店ですき焼き用のお肉を買い、夕食はすき焼きでした。三連休の翌日、手抜き出来るよう、お弁当のおかずに出きる位、沢山作りました。毎年、1月16日はすき焼きは食べません。

フコ
(57・女性・西宮・団体職員)
2015年3月 2日 22:47
サザエさんの途中で小さな地震

16日の夕方、夕食をとりながら見ていたサザエさんの途中で、小さな地震がありました。照明器具のヒモがすこし揺れるくらい。当時は地震かな?と思うとヒモを見上げたものでした。地震とはそれくらいのもの、という認識だったのでしょう。
3連休の間、すこし風邪気味で、行きたかったバーゲンに行けなかった。明日は長男(4さい)を幼稚園に送ったら、次男(2さい)を連れて買い物に神戸阪急まで行こう。。。そう思いながら眠りにつきました。
ドン・ドンという音ではじまった大地震。
箪笥がもし倒れていたら、無事ではなかったでしょう。
夫は割れた食器やとびだした金魚の世話を暗がりの中でしてくれ、冷やごはんをお茶漬けにしてかきこんで、会社に向かいました。夫の会社はビルが傾いて危険な状態でしたが、「今月の給料がないと困る人がたくさん出るはず」といい、電車も動かないなか、毎日駆け回って働きました。
家や家族に被害がなくても、震災でつらい経験をした人は本当にたくさんいますよね。
あの時がんばってたよね、たいへんだったよね、たぶんそんな会話が、どこの家庭でも交わされた今年の1月17日だったことでしょう。

 hide
(51・女性・神戸市長田区・パート主婦)
2015年1月29日 23:05
恐ろしい夢

当時、赤ん坊の息子の子育てをしている主婦でした。夕方うたた寝をした時、今までに経験のない大きな地震が起きて、家が倒れ、人が倒れている恐ろしい夢を見ました。あまりのリアルさに鳥肌が立ちました。正夢かも知れないと思い、息子をベビーカーにのせて、水を入れるタンクを探しに行きましたが、ベビーカーを引いてウロウロするには限界があり、見つけることができませんでした。寝室には元々家具を置いていませんでしたが、さらに窓のガラスにダンボールをあてがい、ガラスの飛散に備えました。寝てる時に地震が起きたとき、息子を部屋の真ん中に置いて、その上にかぶさって、万が一屋根が壊れて落ちてきたら息子をかばうシミュレーションをしました。怖くてしょうがなかったけど、動物のように逃げるわけにもいかないし、どうしようかと思った時、まずはゆっくり寝て明日に備えようと覚悟を決め、ぐっすり寝ました。翌日の地震でシミュレーション通りの位置に息子がいたのを確認して、助かったと思いました。

なまず女
(50歳代・女性・当時西宮市・給与所得者)
2015年1月20日 00:04
7歳、西区に住んでいました

震災当時は7歳、西区に住んでいました。
16日は、夕食を家族四人、自宅で食べていました。その最中に、小さな地震があったと思います。
え、地震や、珍しいねえと両親が言い、私にとってはほぼ初めての地震でした。
電気の紐を見たら地震きたかわかるでと父に教わりました。
翌朝、あの瞬間に一気に目は覚めましたが、何が起きたかわからず、二段ベッドの下段で金縛りにあったように動けなくなった恐怖は今でも忘れません。

Yf
(27・女性・東京都・会社員)
2015年1月19日 21:22
受験勉強進まず「やばいな~」

1月18日から大学の後期試験が始まるというのに全然勉強してなくて、「やばいな~」と焦ってましたね。家に帰ると知り合いの女性が5歳の娘さんを連れて遊びに来てました。子供好きの私はその子と遊んであげてるとすっかり懐いてくれて、「おうちに帰りたくない!」と駄々をこねました。うちの母が「良かったら泊まっていったら」ということで彼女たちは泊まっていくことになりました。そして次の日、彼女たちも私たちと共に被災しました。私の家は建物自体はさほど被害はなかったのですが、ライフラインは全てとまり、彼女たちは帰ることもできず、一週間ほど暗くて寒い我が家で過ごすことになりました。やっと帰れるという時、お嬢ちゃんは逆に私と離れるのを嫌がってしがみついて離れようとはしませんでした。20年経っても私の背中にはあの時の彼女がしがみついたちっちゃな手の感触がはっきり残ってます。

はってぃす
(43・男性・神戸市中央区・自営業)
2015年1月19日 15:47
小さな小さなネズミ

1995年1月16日、当時は神戸の大学を卒業して社会人1年目。大阪のスーパーで衣料品売り場の店員として働いていました。
1月16日は3連休の最終日だったと思います。次の日は定休日。閉店前に売り場を掃除していたら、お客様の小さな悲鳴が聞こえました。「何?」と思ってみると、お客様の子供が埃の塊のようなものを転がして遊んでいます。
よく見るとそれは、2センチにも満たない小さな小さなネズミでした。
「衣料品売り場にネズミが出てくるなんて珍しい!」と思いながら、子供にいじられて弱っていたネズミを捕まえ、箱に入れて上司に報告しました。
「そんなもん、水につけて処分しなさい」と言われたものの、かわいそうで殺すことができず、箱に入れたまま家の最寄駅まで持ってきてしまい、駅のホームで逃がしてあげました。

地震が起きたのはその翌日の早朝でした。
あのネズミはいち早く異変を察知していたのかもしれません。

大学時代の友人が阪神間に多数住んでおり、安否確認に奔走したり(当時は携帯もインターネットもなく、情報源は新聞・テレビ・ラジオのみ)、「夜が怖い」という友人と電話で夜同士話をしたり、救援物資をリュックに詰めて阪急電車で西宮北口まで運んだりしたことが昨日のように思い出されます。

ぷりん
(43・女性・大阪市・)
2015年1月19日 14:15
生田神社にお参り

たまたま大阪に来ており、神戸の街を散歩しました

前日のことは良く覚えています。と言うのは、親しかった従姉妹がガンの闘病生活後に亡くなり、お通夜のため大阪まで来ていたからです。従姉妹とは東京と大阪なのでほとんど会う機会もありませんでしたが、多感だった高校生時代にいろいろ話をし、少し歳が離れていましたが精神的には近い存在でした。

通夜まで時間があったので、別の従姉妹の車で神戸に散歩に行きました。1時間程度だったと思いますが、賑わいと静けさが微妙に溶け合った雰囲気に、心が癒されました。生田神社の甍が美しかったことを覚えています。

用事があったのでその晩のうち東京に戻りましたが、翌朝、テレビで震災のニュースを見て本当にびっくりしました。葬儀のため親兄弟が大阪に残っていたため安否を電話で確認しましたが、大阪市内もかなり揺れたものの、無事なことがわかりほっとしました。ただマンションに暮らしていた従姉妹は、明け方の激しい揺れに、気づいた時はマンションの壁を手で支えていたそうです。倒壊するのではないかという恐ろしさが無意識にとらせた行動だったようです。

車で通った阪神高速道や、お参りした生田神社が倒壊している映像を見て、もし地震が半日早く起きていれば、自分も巻き込まれていたかもしれないと思いました。運命論者ではありませんが、人の世には自分ではどうしようもない運・不運というものが、やはりあるのかもしれません。少しして、ラジオで幼いお子さんを自宅の倒壊で失くされたお母さんの話を聞いたときは、涙が溢れてくるのを止めることができませんでした。震災で大切なものを失くされた方々が、少しでも癒やされていることをお祈り申し上げます。

トムとジェリー
(57・男性・東京都町田市・研究者)
2015年1月19日 13:27
17日は代休日の予定

14,15日は大学入試センター試験の監督で,17日は代休日の予定でした.また,学会発表の原稿を発送する予定でした.
前年12月の夕食中に,微震があったように記憶しています.神戸では珍しい地震でした.
まさか休暇の予定が激震で始まるとは.
約1ケ月,職場の復旧と,知人の訪問,水の運搬等々,愛用の自転車で震災地の渦の中を寒さも感じず動いていました.震災地の渦の外へ出れば普段の日常生活があるのに,不思議な時間でした.
代休流れ,閑散とした郵便局であったような記憶です.

伊藤 隆
(65・男性・神戸市兵庫区・パート)
2015年1月18日 20:54
「地震ってなに?」

阪神淡路大震災の前日、私は7才になりたての小学校1年生でした。

お昼過ぎだったでしょうか。
家族全員で食卓を囲んでいると、少し大きめの揺れが来ました。
「あ、地震や」
父がそう言いました。
「地震ってなに?」
私はその時初めて「地震」という言葉を知ったように、思います。

その前日の自分の誕生日は記憶が無いのに、その食卓での会話や父の顔は記憶に焼き付いて離れません。
あの時の揺れが、余震と言うのだと知ったのはかなり大人になってからでした。

今でも、当時の事を思い出すと怖さで涙が出そうになります。
当日の朝、家族で一番小さかった弟を囲んで小さくなって布団を被った事、寒空の中、水を汲みに行ったりトイレを探した事、転校していった友達の顔、小学生だった私でもこんなにしっかりと記憶に残っている災害。
本当に風化させてはいけません。
いつまでも忘れず教訓にし、今後に役立てていかなければいけませんね。


まー
(27・女性・明石市・飲食)
2015年1月18日 17:02
高槻の自宅

1995年、神戸にある銀行に勤めていた時、阪神淡路大震災は起きました。その日は祝日明けの火曜日で、前日の夜は、彼女を家まで送った後、魚崎から阪神高速、名神高速に乗り、高槻の自宅へ帰りました。明る早朝、初めはテレビのニュースでは、まだ夜が明けてないので把握できてないのか、そんな大きな地震の感じじゃなく、震源地も曖昧な感じでした。震源がはっきりわかったのは、少し後だったと思います。

出勤しようにも電車が動いていなかったので、高槻の自宅から、バイクで171号線、2号線で勤務地の灘区水道筋まで行くことにしました。伊丹、尼崎を通り、 2号線に入り、西宮、芦屋、東灘区と、西へ行くほど、道路や標識、信号やガードレールはグニャグニャで、コンビニにはパジャマ姿の人が並んでいました。

電車が全線不通で、出勤するために
バイクで出たのは、ホントはそれより、御影に住んでいた彼女が心配で、電話も繋がらないし、無事かどうかが一番の理由でした。

8時ぐらいに神戸市内に着いて、勤務先の水道筋に行く前に、祈るように彼女の自宅に行くと、建物は形としては残っていて、彼女も家族も軽傷はあるものの全員無事でした。やっと安心して銀行にいくと、壁のガラスは割れていて、外も中もグチャグチャでした。

銀行には支店長だけが車で来ていて、高槻からどうやってここまで来たのかと驚いていました。
できるところは片付けてたりして、一旦帰宅の指示があったので、もう一度彼女の自宅へ向かい、彼女をバイクの後ろに乗せて、JR住吉駅近くに同期の女の子が住む寮があったので、心配で様子を見に行きました。きっと避難していたのか、誰もいなく、携帯とかもないので安否はわからずでした。2.3日後、無事は確認できました。

バイクで南に下り、六甲道駅は高架が落ちていて、 2号線よりも下、43号線辺り、阪神高速は倒れていて、建物も倒壊しているところがありました。人影はありません。パトカーや消防車、救急車とかもおらず、建物や道路、標識、電柱、ガードレール、信号、地面にあるものすべてが曲ってたり、倒れたりしているのに、物音ひとつなくシーンとしていました。
彼女を家まで送り、高槻へ帰るのに、高速道路は使えないので、地道を走っていると、少し火の手が上がっているところがありました。なんとなく焦げた臭いが充満していました。
その日以降、また当たり前のように、毎日毎日、灘区水道筋まで出勤しました。
それはその日の昨日までとは違う、道と気持ちで。
100人いれば、100通りの震災体験があります。どこに住んでいても、たとえコタツでテレビを見てるだけだったとしても。
自宅が残って無事だった神戸の人は、実際停電でテレビが見れなくて、その日から1週間ほどの状況は、家の中と近所のことしかわからなかったそうです。
テレビや新聞が当時のことを報道したりしても、1ミリも復興の役には立たないけど、ただ、それだけの時間の経過があって、復興しつつあるんだと思います。
今日よりもっと復興が進みますように。




伊香牛部音観
(44・男性・高槻市・会社員)
2015年1月18日 11:50
「ねるとんパーティー」

震災の前日は、その頃流行っていた「ねるとんパーティー」に参加していました。最後に意中の彼女とカップリングが成立して約2時間ほど三ノ宮周辺をデートしました。彼女は遠くからきており終電もあるので三ノ宮駅まで送りに行きました。再開を約束して別れた8時間後あの地震に会いました。
須磨区の高台にある自宅から見える長田、須磨周辺が地震地直後から、あちらこちらで火の手が上がり手のつけようのない猛火に包まれて行く様子をなすすべもなく見ていました。また、行方不明の親戚を探しに遺体安置場をまわり一体一体御遺体を確認して行きました。前日のあの平穏な生活から一転して地獄の生活が始まりました。
神戸市では震災を知らない世代が4割を越えたそうです。語り継ぐ大切さを改めて感じる震災20年目でした。最後にカップルになった彼女とはこのような状況の中、それっきりとなりました。

1964
(50・男性・須磨区・公務員)
2015年1月18日 10:18
1匹も釣れませんでした

当時私は高校生で中央区在住。
前日16日は父とポーアイへ釣りに行っていました。
毎週のように通っていたのですが
16日は何時間粘っても1匹も釣れませんでした。
他の方も同様で、こんな日もあるのだなぁと話しながら帰宅しました。
夕食時、サザエさんを見ていた時間かな?
震度1か2の地震がありました。
父が「神戸で地震は珍しいな」と言ったのが印象的でした。
翌日は火曜日で、学校で漢字テストがある予定でした。
寝るときに妹が「明日漢字テストや勉強してへん学校休みになったらいいのに」
などと言ったので
「休みになるわけないやんはよ寝ーや」と寝たら
翌朝あの地震でした。
部屋はガラスなどが散乱し、足の踏み場もない状況でしたが
当時冷え性だった私はスキー用ソックスを履いていたので
怪我をせず済みました。(妹は素足だったので怪我をしました。)
当日は明るくなるまで何も状況が判らず
電気もつきませんでしたので暗い中家族でかたまって
ラジオで情報収集しながら過ごしました。
ようやく夜が明け、父の実家に安否確認に向かう途中
大安亭市場周辺では何軒もの店が倒壊して道路にせりだし
また、倒れてきた家屋に車が押しつぶされていたり
頭に巻いたタオルから血をにじませた人が呆然としていたりで
ただただ見たことのない光景にあぜんとしました。
そんな中でも車が無事だった方はラジオのボリュームを最大にして
周りに居る方皆にラジオが聞こえるようにしていたのが印象的でした。
祖父母の無事を確認し、自宅に連れて帰り
その日は一日中後片付けと、買い出しに追われました。
停電の為レジが動かなくて電卓で計算しながらお買いものさせてくれるお店もあれば
乾電池1個500円、ゆでたまご1個500円で売ってるお店もありました。

遠くでずっと黒煙を上げ続けるのを見ながらラジオで錯綜する情報を聞き
不安に駆られていましたが
まだその時は自分の行動した範囲以外どうなっているのか
予想もつきませんで、学校いつから始まるんだろう・・・と
そんなことばかり気にしていました。
当日、少しの間だけ電話がつながったのですが
東灘区から電話をかけてきた友人は、自分の家に周りの家が
ほとんどつぶれていると言っていました。
兵庫区から電話を掛けてきた友人は「家は全壊したけど助け出されて無事で
今は小学校の校庭で倒壊した家屋の木材を燃やして暖をとっている」
と言っていました。
電気がついたのが当日夕方だったかと思いますが
その時やっとテレビを見る事が出来て事の重大さを再認識しました。
電気がついて初めて温かい食事をとることが出来ました。
水やガスは数か月出ませんでしたので
水を汲みに行ったり銭湯にならんだり、色々な経験をしました。
あれから20年がたちましたが
今でもわが家では寝室に倒れてくる家具を置かない
水や食料を備蓄する ということだけは
わすれずに過ごしています。

ちょこす
(36・女性・神戸市北区・自営業)
2015年1月18日 10:00
16日に出産

1月10日が予定日でしたが、15日に破水して入院。16日に無事出産。
私にとっては初めての出産で、一仕事やり終えた気分で、のんびりしてました。
まさか、もう二度と自宅に戻れなくなるなんて思いもしませんでした。

Yumino
(53・女性・神戸市中央区・パートタイマー)
2015年1月18日 02:57
堺市にあった私大

当時21歳、大学3回生。三重県名張市の実家から当時堺市にあった私大に通っていました。試験期間に入った矢先の3連休、就職活動のエントリーが当時は郵送で、分厚い会社案内と応募用はがきが情報会社(最近再上場したR社)から届いたのを覚えています。16日の夜は地元のスーパーでバイト、17日は朝から英語の後期試験を控えていました。1時ごろ就寝したと思います。名張市もかなり揺れましたが震度4程度だったと思います。木造1戸建ての2階で寝ていましたが、揺れを感じる直前、今まで聞いたことのない、ゴーっという地鳴りでまず目覚め、何事か?と思った矢先に激しい揺れがあり、とっさに足元にある本棚が倒れてきてもいいように、掛布団をしっかり足元に寄せて、直撃しないようベッドで三角座りをして揺れが収まるのを待ちました。1階から母の悲鳴がしても、冷静に受け答えた記憶があります。そういう対応ができた揺れだったんでしょう。17日8時ごろに、10日前に前述の友人たちと車で通った阪神高速倒壊を見て、被害規模の重大さに驚き、その後連絡の取れなくなった西宮在住のゼミの恩師宛にNHK安否情報を送ったのを思い出します。尼崎の友人とは比較的早く再会できたのですが、自宅に帰宅できない、音信が取れない状態で憔悴しており、西宮の親友は自宅が全壊、2週間程度音信が取れませんでした。

ist
(41・男性・吹田市・会社員)
2015年1月18日 02:27
阪急宝塚線

16日は家族4人で、池田市の親戚の家に
遊びに行きました。
道中、阪急宝塚線の急行に乗り、
梅田から池田までの車窓をのんびりと眺めていました。
天気が良く、見晴らしの良い平和な風景を
何故かよく覚えています。
まさか翌日、その風景が一変するとは
思いも寄りませんでした。

震災後、暫くして再び池田市の親戚の家を
尋ねたときに見た宝塚線沿線の風景は、
車窓からもはっきりと地震の痕跡があちこちに見られ、
ブルーシートの屋根が連なっている光景が
未だに目に焼き付いています。
池田市もかなり揺れたそうですが、
幸い親戚は皆無事でした。ただ、家屋には
ヒビやゆがみ、傾きなどが発生したそうです。

また、私は神戸市中央区にある短大を出ていて、
友人の多くが神戸の人たちでした。
報道等で、地震後の様子が分かるにつれ、
友人達の安否が気になり大変心配でしたが、
幸い親しい友人は皆無事と分かり、
別の友人がそれを知らせてくれた電話口で
号泣したのを覚えています。
今でも思い出したら目頭が熱くなります。
この記憶は決して風化させてはならない。
今後に生かして行くべきだと思います。

コンソメパンチ
(52・女性・大阪市・事務職)
2015年1月17日 22:55
明日からまた学校かー

震災前日、当日私は中学2年生で神戸市須磨区に住んでました。16日前日から小5の妹のサッカーの遠征へ両親揃って関東の方に行ってたので、私は15日は1人で留守番してました。
16日は夜遅くに3人が帰宅。
3連休も終わり、留守番中好き放題してたので明日からまた学校が始まるのが嫌やなーと、思いながら寝たのを覚えてます。
あの地震が1日早く起きてたら、私は完全に1人で誰もいない家の中で地震を経験してたかもしれないと思うと怖くなりました。
家の中はメチャクチャになりましたが、家族全員無事でホントに良かったと思うと同時に家族の大切さもその同時初めて感じました。

よしたか
(33・女性・神戸市垂水区・)
2015年1月17日 21:59
テレビに地震速報

震災前日の連休最終日。当時は神戸市垂水区在住。
ファーストフード店のアルバイトを終え、自宅で家族とテレビを見ていた時に地震速報がありました。
震度は記憶にないぐらい小さいものでしたが、震源地は確か須磨沖。
「珍しいね」と話していたところに翌朝の出来事。
当日のことはもちろん、前日のこの地震速報のことは結び付けられて記憶に残っています。

oz
(41・女性・高松市・会社員)
2015年1月17日 21:47
大阪の豊中市に住んでいました

私は当時、大阪の豊中市に住んでいました。
震災の前日ですが、昼過ぎから友人が一人伊丹から遊びに来ていて、特別何かをすることも無くありきたりな感じで、部屋でゲームをしたりして色んな話をしながらすごしていました。ただ、奇妙な微震が猪名川辺りだと思うのですが、ずっと続いていました。揺れは感じているのにテレビの速報には出ないので、地震があったのかどうかを恐らく気象庁だと思うのですが、電話して質問したのを記憶しています。その際、ついでのように「大地震とか大丈夫ですよね?」と聞いてもみましたが、「大丈夫ですよー」とお答え頂きました。正直、お互いに危機感はそれ程無かったと思います。そういった事もちょっとした話の種として前日に友人としていました。今ふり返ってみても、震災前日は震災があったから覚えていますが、地震が起こらなければ極々ありふれた日だったと思います。それだけに、自然災害は突然起こりうるものなんだと痛感しました。それは20年経った今でも強く心に刻まれています。ニュースなので不幸にも自然災害に遭われた方達を知る度に、私自身もいつそうなるのかと考えたりするようになりました。

震災後ですが、豊中市は神戸ほどの被害はありませんが、一階部分が潰れている建物や、傾いている建物もありましたし、ライフラインが止まってしまった地域もありました。当時私の住んでいたマンションも廊下に亀裂が入りましたが、幸い住むには問題無い程度でした。震災直後、友人は家族へ連絡を取ろうと何度も電話をしていました。連絡が取れないので、急いでバイクで帰りました。私は姉から電話があり、姉は車で早朝ドライブをしていたらしく、橋の上で信号待ちをしていたらグラグラゆれた感じがした、そっちも揺れたのかという内容だったと思います。その後、大阪市内に住む親からも電話があり、そっち(豊中)は大丈夫なのかという心配をする内容でした。友人ですが、当日は連絡が取れなかったものの、後に家族全員無事であるという事がわかり、それを伝えに大変な最中バイクで豊中まで知らせに来てくれました。

猫の手
(42・男性・加古川市・会社員)
2015年1月17日 20:54
結婚式の準備

前日まで結婚式の準備のため東京で強行軍のスケジュールをこなしていた私は最終の新幹線で神戸に戻り疲労困憊で床に就きました。
当時、私は須磨の実家に住み大阪まで通勤していたため毎朝5時半には起きていたのですが、さすがにその翌日はいつものように自然と目が醒める、ということはありませんでした。いつまでも眠っている私を父が起こしてくれ、地震が発生したときには父と食事をしていました。あの激しい揺れが収まり母を含め家族全員の無事を確認した後、自分の寝室(昔使っていた子供部屋は物置となっていたため、仏間に寝ていたのです)を覗く枕元にあった仏壇が私の寝床の上に覆いかぶさっていたのです。
そのとき、あ、ご先祖と父に救われたんだ、という気持ちになり、その途端冷や汗がドッと吹き出しました。

実家は半壊となったものの、家族が無事であったことは幸いでした。が一方、亡くなられた方々やそのご遺族の無念さを考えるにつけもしあの朝父が私を起こしてくれなければどうなっていたかと思うと恐ろしく、紙一重で生かされた者の責務として毎年この日の5時46分には必ず黙祷を捧げています。

20年めの今日、自分の体験を家族はもちろん友人知己にも語り継ぐことーそれが私の義務だと思いを新たにしました。

まやさん
(53・男性・さいたま市・会社員)
2015年1月17日 19:08
神戸の復旧に携われたことは誇りです

当時24歳の私は、前日の夜から彼女(現在の妻)と信州へスキーに向かいました。
夜中に信州のスキー場に到着し、ちょうど地震が発生したときは車で仮眠中でしたので、、何も知らずに朝からスキーを楽しんでいました。
昼頃スキー場で数日前から来ていた友人に会い、大震災が発生し神戸が大変なことになっている事を聞きました。ホテルに帰ってテレビで見た神戸の街の惨状は今でも目に焼き付いています。
ライフライン関係の仕事をしている私は、2月3月と復旧作業の応援に行きましたが、神戸の方たちは、私たちに対してとても温かく感謝していただき、炊き出しや温かい飲み物を差し入れしていただきました。
少しでも神戸の復旧に携われたことは、今でも私の誇りです。

D5
(44・男性・堺市・会社員)
2015年1月17日 16:35
車窓から神戸を眺めて

当時高校3年の受験生でした。
加古川に住んでいましたが、14・15日はセンター試験を灘区の高校で受け、16日は自己採点のため三宮の予備校に友達と行きました。
それなりの手ごたえを感じ、JRで友人と二次試験のことや、車窓を見ながら、やっぱり神戸は都会や、阪神間で一人暮らししたいなあと話していたことを覚えています。

翌日体験のしたことのない地鳴り・揺れでおきましたが、停電でしばらく様子もわからず高校もとりあえず登校。相当な揺れでも目が覚めなかったクラスメイトをからかいながらも、神戸在住の先生方と連絡がつかないこと、テレビで犠牲者数がどんどん増えていくことを知り皆で黙ってしまいました。結局当日は午前で休校。
大学入試は大学側が配慮され開始時間がずらされたり、岡山等に会場を分散されて受けることができました。

どんどん鉄道が復旧し、大学周辺も大変な被災地でしたが更地から新しい建物が建っていく様子を眺めながら、仰木監督率いるオリックスの優勝、ルミナリエの明かりに大学生となった私は学生らしく無邪気に喜びながら学生生活を過ごしました。

それから早20年、震災後の人生のほうが長くなり、私も家庭を持つようになりましたが、今になって漸く家族と普通に暮らしができることの幸せを感じるようになってきました。
直接被災したものではありませんが、1月17日、そして3月11日を知らないわが子には一日一日生きられることの素晴らしさ、家族・友人の大切さを今後伝えていければと思っています。

206
(38・男性・横浜市・会社員)
2015年1月17日 15:20
センター試験の自己採点

 1月14・15日に大学入試センター試験があり、16日は自己採点集計会でした。故郷の神戸から遠く離れた地の予備校に勤めていた私は、受験生の自己採点データを回収しながら、失敗してしょげている受験生たちを、何とか励ましていたのを覚えています。
 しかし、センター試験の点数如何に関わらず、大学入試どころではなくなってしまった数多くの受験生が翌日生まれようなんて、そのときは考えもしませんでした。

神戸宅
(55・男性・沖縄県那覇市・予備校講師)
2015年1月17日 14:04
お気に入りのネグリジェで眠りに

当時、兵庫県尼崎市に住む、小学校5年生でした。親は、自営業でお好み焼き屋を営んでいました。自宅は店の横に縦2列に並ぶ平屋の、店から離れた側の奥の端。父・母・祖父・祖母・弟・私の家族6人暮らし。
前日の日中の事はよく覚えていませんが、普段通りの生活だったと思います。お気に入りのネグリジェとタオルケットで眠りにつきました。
そして地震発生。
平屋の裏には、砂利を乗せて走るダンプカーの運輸会社があり、ダンプカーが走る振動で家が揺れる事があったので、ドーン!と突き上げた瞬間は、その揺れかと思いましたが、直ぐに大きな揺れを感じ、地震だと分かりました。父母が「地震や!」と叫びながら弟に覆い被さり、私は寝ぼけながらも、とっさに布団の角を掴みながらダンゴムシの様に丸まり、揺れがおさまるのを待ちました。地震の怖さなどを知らない無知さから、私は意外に冷静でした。
揺れがおさまって見ると、私の横に私向きに置いていた勉強机が、足元まで90度移動して、家族を避ける様に横向きに倒れていました。枕元にあった大きな化粧箪笥は、物が飛び出しただけで倒れなかった事など、神様に助けられた気分でした。
親達は家族の安否確認をしたあと、近所の人の安否確認とお年寄りの避難を手伝いました。その時、店の横のアパートが出火しており、その後、アパートと店と店横の平屋は全焼。他にも周りの建物が一部崩れるなどありましたが、住んでいた平屋だけはなんとか無事で、周辺住民も大きな怪我なく無事でした。しかし、不幸中の幸いと喜んで良いかは、子供ながらに複雑なものがありました。

真美
(30・女性・大阪市港区・主婦)
2015年1月17日 13:09
親戚と板宿の映画館へ

20年前、当時5歳。小学校入学前でした。
前日は長田区の祖父母の家に親戚が集まり、兄妹と従兄妹たちと板宿の映画館へ行きました。
まさか次の日にあんな地震がくるとは…。
私が住んでいた地域は被害が少なかったが、タンスに挟まれて寝ていた私を母親が四つん這いになり守ってくれた事を覚えています。
幸い長田に住む祖父母は軽傷、ですが家は全壊、全焼。
自宅に祖父母、両親の友人が避難しに来ていました。
その当時は家にたくさんの人が来て、楽しかったです。
今思うと避難して来た方々の辛さ、これから先の不安な気持ちを考えると…。
私自身未だ経験していない辛さ。
今後、南海トラフという大地震があると言われています。
他にも天災はいつ起こるか分かりません。
もっと1日1日を大切に、生きて行きたいと思います。

みぃちゃん
(25・女性・神戸市北区・事務職)
2015年1月17日 12:20
京都在住

当時高校1年生。実家のある京都在住でした。
3連休の最終日、同級生と3人で少し遠出して買い物を楽しんだことを覚えています。
普段行かない街まで行って、楽しかったな。
また翌日から学校に行って、普通の日常が戻ってくると思っていました。

17日、猫と一緒に寝ていたところ、揺れで目が覚めました。
猫もびっくりしていました。
神戸ほどではないけれど、それまでで1番強く感じた揺れでした。
すぐに親が心配して部屋にやってきました。
まだ将来神戸に住むことすら考えてなかった頃です。
灘、東灘などの地名は、この地震で覚えました。

しゃむ
(36・女性・神戸市中央区・事務)
2015年1月17日 12:11
夜行バスの車中でした

当時おつきあいしていた方が東京にいたので月一ぐらいで上京していました。1月16日は年明けすぐの3連休。行かない理由はなくてやっぱり上京してて。
16日の夜に別の友人たちとごはんをたべて、数ヶ月遅れの誕生日プレゼントをもらったあと姫路行きの高速バスに。
地震が起きたのはバスが魚崎あたりの高速を走っている時でした。
どうにかバスは地上に降りることができて、そこから倒壊した高速とか見ながら三宮まで。車内妙にシーンとしてたのを覚えています。
三宮で降りて、歩いて帰宅。
帰宅した私を見た母の一言目が「お皿ぜーんぶ割れた」で苦笑したのですが、幸いというか前日にもらったプレゼントはティーポットとお皿のセットでものすごく役に立ちました。

あれから20年。
当時お付き合いしてた方と別の方と結婚して今も神戸にいます。
生きているとさまざまな別れ道があるものだけれど、震災っていうのはやっぱり考え方や生き方を変える大きなポイントだったのかなって時々考えます。

tomo
(45・女性・神戸市長田区・会社員)
2015年1月17日 11:07
朝まで映画鑑賞会

3連休だったので、関空近くの香港映画好き仲間の家に、数人で合宿させてもらい、彼女が収集したお宝ビデオや香港で出版された映画スターの写真集や映画雑誌などを見せてもらっていました。16日朝に友人宅を辞して、寄り道して三宮~元町をのんびりウインドーショッピング。夕方には、月を仰ぎ見ながら帰宅しました。母は、前週に亡くなった祖父宅の片付けのため九州に帰省していて、父と二人だけの夕食でした。神戸新聞にベタ記事で猪名川群発地震について載っていたのも思い出せます。
17日早朝に大阪の会社に出勤して、連休のため溜まった仕事を片付け、当日の締め切りに備えるつもりで、朝5時半にファンヒーターのタイマーをセットしていました。17日5時半、確かにタイマーは作動しましたが、まだ起き上がれずウトウトしていると、いきなりの縦揺れ。トラックが自宅に突っ込んだ?!と青ざめると、次は洗濯機に突っ込まれ回転するかのように揺さぶられ、ただベッドにしがみつくばかり。ファンヒーターが倒れて火を出さないか恐れつつ見つめ続け、棚に並べていたビデオテープが、部屋の反対側に次々と宙を飛ぶのを(私のコレクションに、何してくれるんやぁ!)と呆然と眺めていました。
震災では幸い、家族4人は無事でしたが、この年の2月に母がガンであることが発覚、翌年3月にホスピスで息を引き取りました。震災当日、バイクで駆けつけ表六甲の惨状を聞かせてくれた弟は結婚、東京勤務になり東日本大震災では帰宅難民&仙台に出向になったりしました。震災の年が定年退職だった父は、我が家に住み続けましたが昨年倒れて身体が不自由になり、病院暮らしを余儀なくされています。震災で一時は断念した海外留学を、7年前に果たしてそのまま現地で就職した私ですが、父を見かねて辞職し帰国。震災であちこち歪んだままのボロい我が家を、一人で守っています。
人は震災以外でも死別、生き別れの悲劇に見舞われるものです。でも「神様が、もういいよとお赦しくださるまで」何とか生きねばなりません。当たり前だと思っていた日常は、ライフラインは、案外脆いものです。昨日の続きが明日にはもう無いかもしれない。自分の一生では、もうこれ以上の天災を経験することはないだろうと油断していたら東日本大震災…。儚い、もろい小さな命ですが、それでも精一杯生き抜くしかありませんね…。

マリンスノー
(51・女性・神戸市北区・求職中)
2015年1月17日 09:55
三宮の夜景

私は当時、三ノ宮で百貨店の販売員をしていました。
16日は大阪の本社から販売責任者がやってきて私はその責任者と三ノ宮の繁華街のとある高い見晴らしのいい場所で仕事の話をしながらディナーをしていました。
私の頭にはふとこの景色を見ながら、キレイだな、ずーっとこの風景が見れる場所なんだな〜ここは…なんて思ってました。
その何時間かのちにテレビで見た光景は凄まじく変わっていました。
今だに16日に見たキレイな風景は忘れていません。

さっちん
(42・女性・浦安市・主婦)
2015年1月17日 09:22
大阪の海遊館へ

当時小学6年生でした。前日16日は大阪の海遊館へ家族で初めて行きました。館内はごった返しており水槽の前に辿り着くのもやっとこと。初めて見る大きな水槽の中にはウミガメが悠々と泳いでおり、時折わたしをつまらなさそうな目で見やり、ぐるぐると旋回していました。
私たちがカメを見ているというより、カメがぎゅうぎゅう詰めの人を見ているようだと思ったことを思い出します。

灘区の自宅に帰宅し、明日の学校の用意をしながら憂鬱な気分になりました。およそ子どもらしくないのですが「明日も学校か…学校なくならへんかなー」などと言ったことを憶えています。その時はまだ何も知らずに。

程なくして母がマンションのベランダから「見てみー!」と呼ぶので行ってみると、街の灯りが全て青緑色に輝いていました。この世のもとは思えぬ程とても美しく、そして少し恐怖さえ感じるような夜景で、母の袖を引っ張りました。今でもその景色だけは強烈に覚えています。その青緑は昼間に見た水槽の深い青緑と似ていた気がしました。

深い青緑に輝く神戸市内を見ながら、私はカメのあの悠々と泳ぐ姿をを思い出していました。

ニコ
(31・女性・神戸市灘区・会社員)
2015年1月17日 09:18
勉強していました

当時、大阪在住の高校1年生でした。17日には学校で「実力テスト」があったので、前日は日付が変わる頃まで机に向かっていました。
ああ、普段からちゃんと勉強しておけばなあ、と思っていました。

17日、大阪でもかなり揺れました。本棚のものが全て落ちて来ました。
夜が明け、学校へは電車通学だったので最寄り駅に行ったところ当然電車は動いておらず、学校も3日、臨時休校でした。
尼崎や西宮から通っていた同級生が居たので、とても心配でした。
帰宅すると、テレビに阪神高速の倒壊現場が映し出されていました。
テレビが映し出す悲惨な光景が、とても「現実」のものとは思えず、胸が潰れるような思いでした。

あれから20年が経過し、私も結婚し子供にも恵まれました。
いつ、何が自分や家族、友人たちに起こるか分かりませんが、震災から「毎日を精一杯生きて行くことが出来ることの大切さ」を教わったように感じます。
私は被災者ではありませんが、震災を知らない娘にも、それを話して行きたいと思います。

えいじ
(35・男性・東大阪市・医療・福祉従事者)
2015年1月17日 08:41
お父さん、ごめん

当時、私は2歳という幼い時でした。
全く震災のことは覚えていませんが、
1.16、震災前日のことは両親から何度も何度も話を聞かされています。
その話というのは、震災の前日の夜、
私たちは東灘区に住んでおり
いつものように母がお風呂を沸かし、
ご飯を食べ、そんなあたりまえの
日常だったそうです。
ただ、空の色が赤く怖かったそうで、、、でも地震が来るとは思ってもみなかったそうです。

父がお風呂に入る前母に耳掃除をしてもらっていたらしく、
そこへ私が母に飛びつき、
父の耳からは大量の血が溢れ出たそうです。
そのまま救急にいき、耳は無事だったそうですが、
夜中になってしまい、
そのまま家族で就寝したということでした。

そして、朝方と大きな揺れを感じたそうで、母は飛行機が墜落したんじゃないか、と思ったそうです。

地震が起きて水や電気が使えない中、
唯一、うちには昨夜使わなかった
お風呂の水が大変役に立ったそうです!

ご飯をたいたり水にしたりと、
ご近所さんとも助けあったそうです。

もし、私が耳掃除中の父に
ぶつかっていなければ、
お湯は捨てられていたはず…!

父には申し訳ない気持ちですが、
私のした行動が
あとあと役に立ったので、
記憶にはありませんが、
少しだけ嬉しくなりました。

先ほど、追悼式にも初めて20年という節目で行くことができました。
黙祷を5:46にできたのも初めてでした。

このときを迎え、
阪神淡路大震災のことはずっとずっと
忘れてはいけないことなんだと
現地にいって改めて感じました。

予想以上の人で、
それでも忘れてはならないと
たくさんの人が来て
黙祷を捧げていることに
ほんとに胸が熱くなりました。

ちーちゃん
(22・女性・神戸市長田区・フリーター)
2015年1月17日 07:46
見上げた空は

妹が3月に結婚するため、両親は先方のおうちでの打ち合わせに出かけました。私は友人と「久しぶりに本場の明石焼きを食べよう」と、車で出かけて、家に帰ったのは夜6時前でした。玄関先で空を見ると、星が見えました。3連休の最終日でしたから、空気も澄んでいたんでしょう。やはり冬の空はきれいだなと、珍しくじっと見上げていました。
一緒に明石に行った友人が震災後しばらく経って、「あの日の夕方、第二神明を車で走っていたとき、カラスがやけに多いな、気持ち悪いなと思ったんや」と、話していました。もしかしたら動物は自然の異変を知っていたのかもしれません。

W&S
(51・女性・神戸市須磨区・主婦)
2015年1月17日 06:49
受験生でした

当時の私は高校3年・受験生でした。
16日はセンター試験の自己採点を終えて
第一志望の大学の試験へ向けてがんばろうと
決意を新たに眠りにつきました。

その数時間後、ドーーーンという音と衝撃で目覚め
洗濯機でかき回されるような大きな大きな揺れと共に
自宅マンションは全壊。

もともと父の事業経営が悪化して経済的に厳しい状況だったところへ
地震がさらなる追い討ちをかけました。
家族はバラバラに避難所や知人宅へ居候。
まともに受験勉強ができる状態ではありませんでした。

やむなく志望校の受験学科を変更し、なんとか合格しましたが
あの地震が決定打となり両親は離婚。
父は震災復興住宅で離れた暮らしをはじめ、のちに孤独死しました。

あの地震が私達家族それぞれの人生に
大きな影響を与えたことは間違いありません。

あの時、幸いにして命は助かったけれど
私はあの時一度死んでいるんだ、そう思ってこれまで生きてきました。
今は人の心や意識に働きかける仕事をしています。
振り返ると、現在の私を作っているのは
紛れもなくあの地震がきっかけだったと思います。

まや
(39・女性・西宮市・フリーランス)
2015年1月17日 04:18
お好み焼屋のおばちゃん

定年退職になった大先輩の私物を
車でご自宅まで運ぶために会社(灘区)へ行った。
荷物を積み込んでる最中に
滅多に行かない
隣りのお好み焼屋のおばちゃんから
珍しく声をかけられた。
「休みやのにご苦労さん」

そして、震災。
会社の近所は壊滅状態だった。
お好み焼屋も倒壊していた。
おばちゃん 亡くなったらしい・・・。


(63歳・男性・神戸市兵庫区・アルバイト)
2015年1月17日 03:58
阪急西口で待ち合わせ

阪急西口で待ち合わせて映画を見に行く予定でした。いつも遅刻する友人がその日初めて5分前に来たことをよく覚えています。

ともこ
(34・女性・東京都・フリーランス)
2015年1月17日 02:12
友人を須磨駅まで見送りました

前日に泊まりにきていた友人を海岸を歩きながら
須磨駅まで見送りました。
大きな地震が来るかもしれないと言われている地域に住む友人と
「この辺りは地震なんかないからなあ」と話していました。
その夜小さな地震があり、翌朝激しい揺れに・・・
揺れる前空が明るかったように思います。
後からその友人が『実は水平線のあたりに地震雲みたいなのがあった』と
言っていました。少し前から水道水があったかい気がすると母もいっていたり
前兆は色々あったんだなと怖くなります。

shingorose
(42・女性・須磨区・自由業)
2015年1月17日 01:35
大学4年生だったわたし

当時大学4年生だったわたしは、数日前に卒論を提出し、16日は視聴覚の授業で作成したビデオの編集のため、夜8時ぐらいまで東灘区の大学にいました。自宅は大阪なのでその日は帰宅しました。いつも通りの美しい神戸の夜景を見ながら、、、。
翌日、激しい揺れで目が覚め、両親と妹の名前を叫んでお互いの無事を確認しあったのを覚えています。揺れが収まるまで、布団をかぶっていました。方向感覚がなくなるようなグルグル回る揺れは、決して忘れられません。
電車が動くようになってから、同級生の家に食料を届けたり、ボランティアで避難所を回ったりしました。目の当たりにした神戸の街並みの変わり果てた姿を見て、押しつぶされそうな悲しみにおそわれました。
大学は休校になり、卒論の口頭試問も行われないまま、卒業しました。謝恩会も開催されませんでした。

まゆみ
(42・女性・大阪府豊中市・会社員)
2015年1月17日 01:17
ボーっとした1日

当時は大阪在住の21歳社会人でした。ボーっとした1日でした。お昼に起きて朝昼兼用のご飯を食べて、普段ならその後出掛けるのですが何故か頭がボーっとして夢の中にいるようでした。寒い時期なのになんとなくむし暑い感じもありました。起きたのがお昼にもかかわらず何故か「もう少し寝た方がいい…」と思い夕方からまた寝てしまいました。起きたのは6時半です。もうすっかり外は暗くなっていました。それからです。ずっと「あ~今日で連休も終わりかぁ…また明日からありふれた毎日が始まるのかぁ。一体いつまでこんな退屈な毎日が続くんやろ…明日会社行きたくないわぁ」という気持ちが出てきました。ずっとです。当時職場でトラブルがあった訳ではなく人間関係も良い方でした。なのに「あ~会社行きたくない!行きたくない!」と思い続け落ち着きが無くなりました。今にして思えば次の日は関西人にとってありふれた毎日なんかではなかったのです。
日付が変わり布団に入りましたが足が何回もピクッとなり目が覚め全く眠れませんでした。夜中と言うのに大事なもの(保険証や印鑑、通帳)を集めて目立つ袋に入れたり落ち着きがない状態が続きとうとう夜中の3時半を回ってしまいました。なんだか暑苦しいし神経が高ぶって眠れず…。眠りについたのは朝の4時頃だったと思います。地震が起きる1時間46分前です。
あれから20年経っても前日の事は41歳になった今でも昨日のことのように憶えています。それからあの揺れや地鳴りのようなゴォーという音も…。もうあのようなことが起きて欲しくないです。でも自然はわかりません。それに備えるしかないのです。

あき
(41・女性・神戸市西区・専業主婦)
2015年1月17日 01:03
家業が運送業

家業が運送業で、私は、昼は家業で働き、夜はガソリンスタンドでバイトの生活でした。
震災前夜は、淡路島で弱い地震があり、バイト先のテレビで見て、関西で地震って珍しいなぁ…って思ってました。
父は、仕事ので関東へ長期出張。久しぶりの休みで神戸に帰ってきました。
バイトが終わり、家で父と仕事の打ち合わせ。わざわざ帰って来て、地震に遭うなんて、父もびっくりでした。
今思えば、大地震の予兆だったのですね。

久しぶりに父との会話で寝たのも午前2時過ぎ、まさか翌朝大地震になるとは…

ふと目が覚めた5時44分。
今日は、忙しい1日やなぁって考えていたら、あの突き上げる揺れ。

父は、関東にいるのか、実家に居るのか理解できなかったそうです。
私の実家は北区でしたので、大きな被害もなく、父と二人、持っていた携帯を駆使して身内や運転手、お得意様の安否確認。
車のラジオから情報収集しながら震災の街に出ました。

次の日からは、不眠不休で復旧、復興関連の仕事がはじまりました。
広報紙の輸送、物資の輸送、仮設資材の輸送、仮設への引っ越しもありました。

避難所に広報紙を届け、「金になるもの持って来い」って怒られたこと、かと思えば「ありがとう、ありがとう」って涙ながらにお礼を言うおばあちゃん、「ご苦労様、頑張ってよ」って言う避難所の役員さん。今も忘れません。

あれから20年なんですね。

毎年、震災の前夜は、あの頃を思い出します。

今は、仕事の都合で、名古屋で生活していますが、故郷神戸。
17日は、帰郷して、亡くなった友人や故郷の方々の冥福を祈ります。
これからもずっと…。

taka
(43・男性・愛知県名古屋市・会社員)
2015年1月17日 00:46
家の近くの公園でバトミントン

阪神淡路大震災の前日は、神戸市東灘区在住で、父、母、小学2年生の私、年長の妹と御影公会堂のオムライスを食べ、家の近くの公園でバトミントンをしていました。これぞ、家族水入らず。
小2の私でもやはり生活があまりにも変わる前日の事は今でも覚えているものなのですね。ちなみに1月18日は妹の誕生日で、パーティを私も楽しみにしていました。
そして、忘れもしないあの朝。家の1階がなくなり2階で寝ていた家族4人は無事でした。学校に行かなくていい事に少し喜んだ私、パーティがなくなって悲しんだ私。家の玄関はみるも無惨なことに。バドミントンのラケットは無情にも下敷きで折れていたのを今でも覚えています。
公園に避難し、友達と会えましたが、ここからの記憶は曖昧です。お父さんが生き埋めの人を助けに、私は毛布に包まっていました。近くに住むおじいちゃん、おばあちゃんの安否確認に車に乗って行きました。倒れた高速道路に驚き、迫ってくる火の手を見ながら繋がらない公衆電話を眺め、夢かもしれないと思ったあの日。

あの時間に地震が来たから助かった家族。
生きたくても生きれなかった方の為にも必死に生きないといけないと思う1月17日。
いつもと同じ明日が来ると思うなと毎年教えてくれる。

私なりに地震を伝えていきたいと思います。

サラパオ
(28・女性・愛知県一宮市・会社員)
2015年1月17日 00:35
コタツで勉強

20年前のあの時私は小6でした。でもあの日のことは今でも映像のように覚えています。

16日その日まで出していなかったコタツを急に出すことにしました。
夜、両親が一時外出したときにTVで地震速報が流れました。「神戸で地震なんて珍しいなぁ」なんて思ったこと今でも覚えています。

その日はなかなか寝付けず、中学受験も控えていたこともありコタツで勉強。父は気づいたらそのままコタツで寝入ってしまいました。母と「このままコタツで寝ちゃおうか」と話し、2時くらいにやっと就寝…
数時間後、あの大地震発生!!
電車が間近で通っているようなゴーッという音がしたことが今でも鮮明に耳に残っています。
「なんで阪神電車がこんな近くで走ってんねんやろ?」当時43号線より南側に住んでいたので電車が間近で走ることなんてあり得ず、夢なのか現実なのか最初分かりませんでした。父の「地震やーっ!」って声で我に返り現実だと認識しました。揺れが収まり真っ暗な中、懐中電灯代わりに電話の子機のライトを頼りに部屋の中を確認するとタンスがコタツの上にあることがわかりました。16日コタツを出していなければ…コタツで寝ていなければタンスの下敷きになり家族3人どうなっていたかわかりません。
何とか窓から着の身着のまま脱出し家を見ると傾いていました。
そんな時ライト代わりに持った子機が鳴り出しました。
東北に住む祖父でした。たまたま子機の電池があり、おそらく電話線も切れていなかったのか安否だけ伝えることが出来ました。

あれから20年、本当に鮮明に覚えているあの日…
いまだに16日から17日にかけてはとてつもない不安にかられます。

あっきょん
(32・女性・豊中市(当時東灘区)・会社員)
2015年1月17日 00:20
大阪の実家

17日は高3学年末試験の打ち合わせをするはずでした。16日の日中は所用で大阪の実家に帰っていましたが、試験の下案を少しでも考えておこうと、夜9時台に阪神高速を走って宝塚の家に帰りました。もし8時間早く揺れていたら、と今でも時々思います。授業再開後に他学年の学年末試験は行われましたけど、高3は結局のところ2学期までの成績で卒業認定することになりました。

16日の月夜のことは覚えていませんが、本震の揺れが治まった直後、町全体が停電しているにも関わらず、月明かりに照らされたラ・ビスタ方面が明るく見えていたことを妙に覚えています。

はっしー
(50・男性・宝塚市・団体役員)
2015年1月17日 00:02
摩耶山

大学生だった私は、当時家庭教師を頼まれていた中学2年生の男子生徒2人と、震災前日の1月16日、彼らの希望で、摩耶ケーブルに乗って摩耶山に行きました。私は神戸に住んで初めての摩耶山でしたので、けっこうわくわくしてケーブルに乗り、すばらしい景色を見たことを覚えています。翌朝、大地震が来て、よく行ったものだと思いました。その後、かなり時間はかかりましたが、ケーブルが復旧した時は、復興の一途を強く感じました。

白國高太郎
(41・男性・神戸市垂水区・会社役員)
2015年1月17日 00:01
就職して一年目

当時は就職して一年目、当日は休みではなく仕事をして、仕事が終わってから彼女が住んでいる徳島へ行き、翌日は仕事なので夜中に家へ帰りました。
年末に事故を起こし、車は軽の台車でCDやFMラジオが聴けない為AMラジオを聴きながら大鳴門橋を渡った事を今でも覚えています。そして家に着きすぐに寝ましたが、ドーンと大きな音と衝撃、目が覚めると真っ暗な中自分の体激しく揺れていました。幸いに家は倒れず居間に家族が集まり、停電もしばらくすると復旧してテレビをつけ、被害がわからない状況の中寝る事もなくそのまま仕事に行きました。会社に行くとみんながテレビをみていて分かっていく被害情報に非常に衝撃を受けました。
私は半年後神戸へ転勤となり二年間仮設住宅に関する仕事に携わりました。復興していく神戸と共に過ごし、様々な経験をした二年間は今でも忘れる事はできません。
神戸から地元へ帰った私は彼女と結婚をして二人の子供に恵まれました。
20年目の震災の日1月17日、地元へ帰って来てから一度も行かなかったこの日に震災を経験していない子供2人を連れて家族4人で神戸へ行きます。

たまみあ
(39・男性・南あわじ市・会社員)
2015年1月16日 23:52
北海道のスキー旅行

1/16は3連休の最終日。この日、北海道のスキー旅行から戻ってきました。

連休に一日有給を足しての旅行。連休の前日に足すか後日に足すか迷った末、前日を選んだ事が大きく運命を変えるとは思ってもみませんでした。

北海道の宿で出会った人達との団らんで「最近地震が多い」と、いう話題になった時「関西は地震が来ないんですよー」と、きっぱり言ってのけた私。今思い返しても穴があったら入りたい気持ちになります・・・。

よね
(46・女性・神戸市灘区・自由業)
2015年1月16日 23:38
センター街で買った学校カバン

当時、小学校6年生だった私。
震災の前日、とても天気がよく冬なのに、温かかった事を覚えています。
家族で三宮のセンター街へ買い物へ出かけて、前から欲しがってた学校カバンを買ってもらい。翌日そのカバンで学校へ行くのをワクワクしながら机の上に用意をして寝ました。朝方…
ゴゴゴゴォォーっと。地鳴りを聞きドーンと下から突き上げる揺れ、横にも揺れ、ガラスの割れる音。その当時地震の事を知らない私は何が起きたのか分からず…
母の元へ行こうと起き上がろうとした時。
本棚が私の上へ倒れ、下敷きになってしまいました。
揺れがおさまり、母が助けに来てくれました。お陰様でケガはありませんでしたが…。
起きて目の前にした光景が今でも忘れられません。
自分が生まれ育った家がぐちゃぐちゃに。外へでてみると。空は黒く。異様な匂いがし。火事で燃えているのに。消防車は、来れず。燃え尽きるまで、燃えていました。前のおばさんの家も2階だてが1階だけに…みんな、着のみ着のまま公園へ避難しました。
そこから、長い避難生活。
友達にも長い間会えない日々。
卒業式も避難所の中で、被災者の皆さんに見送られました。
子供だったから、乗り越えれたのかな?と。ふと思う時があります。
あれから、20年。。。
私も子を持つ母になり。
今では、もし。またあの震災が起きたら…?と1.17を迎える度に不安になりますが。
私も母として、まず家族を守る事!周りとの支えあい。
子供達にもあの日の事を話。
伝え。訓練。避難経路をよく話あいます。

20年経った今でも。神戸のあの時あの経験をした事は事実であり、風化してはいけない事だと思います。
まだまだ。思い出したくない方や、本当に辛い思いをされた方、あの時で時が止まってしまった方も沢山おられる事。
生きたかったのに、生きられなかった方々の為にも。
この20年を迎えるにあたって、更に深い絆で思いありのある。
神戸になって盛り上げて行ってほしいです。

【We Love KOBE】
がんばろや!!
あの歌今でも耳に残ってます。

最後まで読んで下さり、ありがとうございました。

KAMOMI
(32・女性・神戸市東灘区・主婦)
2015年1月16日 22:43
モザイクで映画「未来は今」

モザイクに、妹と映画を観に行きました。題名は「未来は今」
確か、ティム・ロビンス主演でした。その後、夕食にイタリアレストランに入り
「悪魔の舌」という名のパスタ(ペペロンチーノ)を食べて、モザイクの夜景を綺麗だと言いながら、帰宅しました。空に浮かぶ月の色が赤かったのが少し不気味でしたが、その数時間後にあんなことが起こるとは夢にも思いませんでした。
偶然とはいえ、何とも皮肉な題名の映画を観たものだと今でも思います。


かおる
(50・女性・芦屋市・講師)
2015年1月16日 22:25
16日は父の誕生日

1月16日は父の誕生日、15日は私の成人式、ダブルお祝いで家族団らん楽しい時を過ごしました。
住んでいた場所は東灘区深江、震災当日は自宅が全壊。
私は無事でしたが、成人式で久しぶりに再会した友達の数人は亡くなりました…。
あれから20年、大人の仲間入りをしたばかりで壮絶な経験した私たちは40歳。随分大人になったものです。
毎年1月17日になると亡くなった友達の事を思い出します。

M
(40・女性・兵庫県・主婦)
2015年1月16日 22:24
当時19歳

当時19歳、長い冬休み中でした。16日は家にいて、夕方小さな揺れを感じ、食事を準備していた母と「いま小さい地震があったねえ」と言い合いました。思えばそれが予兆だったのでしょう。翌日の久しぶりの登校日を控えて就寝。近くアメリカへ留学が決まっていたのでそのことに思いを巡らせながらベッドへ入りました。夕方感じたものよりももっともっと大きな、家ごと揺さぶられるような揺れで目覚めることになるとは夢にも思わずに。

湯たんぽ
(38・女性・海外(当時は東灘区)・専業主婦)
2015年1月16日 22:19
ドリカムのCD

当時は中学3年生。高校受験を控え、1月16日は志望校の下見に行ってました。帰りには「受験頑張ってね」と母親にドリカムのCDを買ってもらいました。震災後、全員が揃うことはありませんでしたが中学校を卒業し、無事に高校生になれました。あれから20年。昨日のことのように思い出されます。

りゅう
(35・女性・灘区・)
2015年1月16日 22:01
尼崎のあるカラオケBOX

はっきりと覚えています。
加古川市内の大手スーパーマッケット内にある旅行代理店に勤務していました。
そう、16日は月曜日で成人の日の振り替え休日。
当時のスーパーは大抵火曜日が定休日で、定休日前日でもありました。
20年前の丁度いまごろ、加古川から西宮までJRで帰宅しました。
翌日は久々の休日だったので、学生時代の友人に誘われて尼崎のあるカラオケBOXで深夜まで歌い呆けていました。
西宮の自宅に帰宅したのは17日の3時半くらいでした。
それから約2時間後・・・
人生が変わりました。
現在は旅行代理店を退職し、震災の事を語れる業界に転職しました。
その傍ら、小学生にサッカーの指導をしております。
今から仮眠して東遊園地に行きます。
その後、グラウンドで小学生に20年前の事、語り伝えます。

コーチ
(44・男性・西宮市・会社員)
2015年1月16日 21:54
携帯もなかったころ

まだ携帯もなかったので、家の電話で東京の友人と遅くまで長話していました。
東京は地震が多いこと、第二の関東大震災がきたらどうするかなどと、翌朝のことなど予想もせず、気楽に笑って話してました。

きゅー
(49・女性・京都市・主婦)
2015年1月16日 21:30
1月15日に結婚式

1月15日に結婚式をしました。
それから二晩過ごして、新婚二日目の朝に襲われたあの揺れ。
こんな経験した方、他にいますでしょうか?
生まれ育った街が焼けただれていく光景は、自分が生きている限り忘れることは出来ないでしょう。
それからの人生は一変しました。

崇幸
(43・男性・加東市・)
2015年1月16日 21:26
卒論を書いていました

神戸市灘区の下宿で大学の卒業論文を書いていました。
提出期限が迫っていたので遅くまで起きていましたが、眠気に勝てず、「明日から頑張る」と独り言を言いながら就寝したことを覚えています。
昨日や今日と同じような明日が来ることを疑いもしませんでした。


(42・女性・姫路市・)
2015年1月16日 21:06
典型的な受験生

当時、高校3年の受験生。
センター試験は受けなかったが、自分の受験対策の一貫で、いつもと同じ時間に起きて、朝食の後は新聞に掲載されていたセンター試験の問題を解く。
午後からは休憩を取りながら引き続き受験勉強。そして休み明けの授業の為の予習。
入浴後は好きだった深夜番組を少し観て、いつもと全く同じタイムスケジュールに従って深夜1時頃に就寝。
典型的な「高校生」「受験生」の1日に他なりませんでした。

翌朝いつもより90分も早く眼が醒め、時計を見てもう一度頭から布団を被るまでは。

さきゅ
(38・女性・大阪市・医療従事者)
2015年1月16日 20:56
結婚する前の家内とデート

成人の日がまだ1月15日で日にちで固定されており、1月15日が日曜日であったので、翌16日は振替休日であった。結婚する前の家内とデートする普通の休日であった。和歌山の加太に遊びに行き、日差しだけは春のように感じられる日であった。普通に1月16日は過ぎた。

5時46分、神戸市西区の自宅で経験したことのない揺れに見舞われた。あまりの揺れの大きさに(経験がないがゆえに)、目が覚めても寝床から起き上がることすらできず、いつ揺れがおさまるのかひたすら待った。十数秒間の揺れと言われているが、1分間にも2分間にも思える揺れであった。直後の停電で情報が得られなかったが、9時頃であったか、通電してテレビで少しずつ状況が分かるようになって始めて、大変なことが起きたとわかった。被害がなかったことに、生涯で最大限の感謝をせねばならないと思った。

家内とは翌年に結婚し、その後、3人の子供に恵まれた。毎年1月17日が近づくと、子供達に震災のことを何がしか伝えるようにしている。普通の日の翌日も普通であることに感謝をしながら。

mns
(50・男性・神戸市西区・会社員)
2015年1月16日 20:54
親子で1000ピースのパズル

震災前日の夜は、親子で1000ピースのパズルを
親子でワイワイいいながら埋めていました。
あともう少しと言うところ
次女が「風邪気味だから寝るわ」とベッドへ。。。
それを合図にと言うか、みんな寝ることになりましたが・・・
その言葉が娘の最後の言葉になってしまいました。
当たり前のように、今まで通りの朝が来ると思っていました。
当たり前のように、学校へ子どもを送りだす思っていました。
娘も、どうして?って思っているでしょうね

さっちゃん
(64・女性・神戸市東灘区・主婦)
2015年1月16日 20:45
香港映画「男たちの挽歌」

震災前日夜中、大好きな香港映画「男たちの挽歌」を二階で見ていた。暫くしたら、母が(今、地震あっよね?)と上がってきた。
(地震なんてないよ!)と答え、眠りについた。
それから、恐らく一時間後くらいたった頃もの凄い地鳴りと家が撹拌され、ガラスの割れる音 表で聞こえるドーンドーンと土壁が壊れる音 今でも、トレーラーの走る音工事現場側を通る時の音に心臓の鼓動が早くなる。

それから4ヶ月のテント生活を経て、南の国で過ごし明日20年目を迎える。
今年は、神戸でできる事を模索したい。


妙子
(55・女性・シンガポール・自営(おばんざいや))
2015年1月16日 20:26
東京の小学生でした

東京の小学生でした。前日、家族でレンタルビデオショップに行った時、バイトのお兄さんたちがテレビをみながら、関西で地震があったとか、大きな地震があるかもなどと話しており、関西に転校していった友人を心配したことを覚えています。

阪神大震災は、私にとって物心ついてから初めての大きな天災であり、初めて家族と銀行に行き、募金をし、ボランティアという言葉も知りました。成人後に兵庫県に住む機会があり、神戸の街が大好きになりました。そして、地域の人から、折々に1.17は兵庫県に住む人にとって大切な日だということを教わり、体験していない者には想像できない悲しみや鎮魂の深さに触れた気がしました。復興した神戸の街並みしか知らない私ですが、復興に向けて歩んできた方々の力に敬服する思いです。

ねりごま
(32・女性・千葉県・)
2015年1月16日 19:34
「今日の海はおかしいね」

釣り好きの私は15日16日と連日神戸港へ釣りに行っていました。15日にあれ程釣れていた魚が16日は一匹も釣れなかったのです。一回の浮き当たりも無く、釣りの常連さん達と「今日の海はおかしいね」と話をして家路に着きました。帰りは夜になりましたが赤い異様な色の月だったのを覚えています。後で知ったのですが、淡路島ではいつもは釣れない高級魚が大漁で釣り人を喜ばせたそうです。海は異変を教えていたのかも知れません。

ハ-バ-
(61歳・男性・神戸市長田区・無職)
2015年1月16日 16:43
生田筋のカラオケボックス

震災の前日は、学生時代の友人たちと三宮で飲んでいた。
三宮の喫茶店でお茶をして、居酒屋で飲んで、カラオケボックスに行って。帰ったのは、終電1台前。夕方小さな地震があったと聞いたけれど、まったく気付かず。ただ楽しい時間だった。
前年の秋に神戸市内の会社に転職したところだった。派遣会社から派遣されていた会社に誘ってもらって、そのまま入社することになった。生まれ故郷の神戸で、港の見える事務所で、家から通える職場。やっと落ち着いて働ける、貯金もして、そろそろ彼氏なんて作ったりしたいな、そのうち結婚もできたらいいなって思ってた。
3連休が終わったら、仕事があるはずだった。一つの事務所で働くことが、やっと普通になりかけたところだった。
最後に行ったカラオケボックスは、生田筋沿いのビルの地下にあった。地震後1ヶ月くらいして行ってみたけれど、あたりのビルみな潰れていて、どこの店だかわからなくなっていた。従業員さんたちは無事だったのか。もしあの地震が6時間早く来たら、私は生きてただろうか。もしそうなっていたら、私の体は見つかったのだろうか。

ながたちほ
(47・女性・東京都荒川区・自営)
2015年1月16日 16:22
彼女と新居の話

あの日は、仕事終わりに彼女(今の嫁さん)と三ノ宮で食事をしながら、新居の話をしていました。翌日に、不動産屋さんと会う約束をしていましたので、どこが良いとか?どんな広さが良いとか?不動産の知識など全く無い二人でしたから、お任せしようね。なんて言いながら、少しづつ結婚の準備を進めているカップルでした。彼女を送った後、駐車場に車を止めて実家に戻る途中、歩きながら見上げた夜空が、いつもより随分明るい印象が記憶にあります。その時は、明るい未来を祝福してくれている様に思えました。それから約6時間後に起こる悲劇的状況など想像することもなく…

メグパパ
(49・男性・神戸市東灘区・会社経営)
2015年1月16日 16:07
当たり前の日常

当時は実家の愛知県に住む高校3年生。
3連休の最初の土日がセンター試験で、3連休の3日目は何をしてたか全く覚えていない。
早朝、愛知県でも揺れて目が覚めた。
そのままテレビを見ると、現実に起こっていることが何だかよくわからなかった。

震災前日は当たり前の日常過ぎて記憶がない。
1日1日を大切に生きなければならないと感じる。

かいまーる
(37歳・男性・大阪市・)
2015年1月16日 15:52
上空から見た神戸の夜景

震災の前年末より北海道へ出張しておりました。
年末に三陸はるか沖地震に遭遇し、その場に居合わせた北海道の人たちに「関西は地震がないからええよ」って話していました。
そして年が明け、震災前日に飛行機で関西空港へ帰ってきました。
神戸上空に差し掛かった時に上空より神戸の夜景を見ました。
なんてきれいな街なんだろうと思ったのを覚えています。
まさか数時間後にこんなことになるとは思いもよりませんでした。

なお
(43・男性・加古川市・)
2015年1月16日 15:26
舞子タワー

1月16日のことは忘れもしません。
お昼過ぎより、主人と舞子から淡路島に架かる橋の工事を見るため、今はありませんが、舞子タワーに上りました。
その時は既に地震があったようです。私達は感じることはなかったのですが。
360度回転する展望台にも上り、下へ降り工事の進み具合、工事に携わっている方達の姿は、望遠鏡を通して見ることは出来ました。
こんなことが本当に実現するのだろうか?本当に「夢の懸け橋」、素晴らしいなあ。出来たらもっと頻繁に淡路へ釣りに行けるなあと話しました。
下へ降り、橋に使う材料やスライドを見て、記憶が曖昧ですが、震度8以上の地震にも耐えられると書いてあったように思います。
見事耐えられました。
帰って来てからも、何故かその地震のことが、頭から離れなかったことを覚えております。
余談ですが、地震の起こる1週間前の神戸新聞に「近畿にマグニチュード7クラスの地震の可能性が」との見出しを見て、ただならぬものを覚えました。
新聞の切り抜きを何処かに置いていたと、あちらこちらを探しました。
やはり、ありました。古ぼけた切り抜きが…。
あれから毎日を懸命に生きてきました。

ゆき子
(69歳・女性・神戸市兵庫区・主婦)
2015年1月16日 14:58
準備万端の日

病院が機能を果たすことができなくなるとは思いもよらない震災前日、臨床検査をより効率的に実施するための外来患者さんの臨床検査技師による検査採血中央化や夜間の緊急検査の体制見直しなど、また検査機器の効率的な運用、特に超音波検査の中央化や遺伝子検査など新規検査の導入に動き出す夢と希望あふれる準備万端の日でした。

ふくちゃん
(69・男性・神戸市西区・臨床検査技師)
2015年1月16日 14:50
最終電車で神戸へ

震災の2日前、1月15日は成人式で、私たちの同級生はみなそれぞれ地元に戻って家族や懐かしい仲間とたのしい時を過ごし、成人になった喜びにあふれていました。翌16日は振り替え休日だったため、地元に残り、同窓会に参加し夜遅くまで盛り上がっていました。
16日の最終電車で神戸に向かい、17日の早朝、あの地震に遭いました。
私は神戸市長田区に在住でしたが、幸い新築のアパートだったため倒壊を免れ、また、ちょうど火の手も届かず無事でした。
私たちの学科の授業は、たまたま昼からだったため、部屋が全壊したり火事にのまれたりした友人も、たまたままだ地元に残ったままだったり、友人の家にいたりして無事でした。
あれから20年、震災前と同じだけの月日が流れました。

miya
(40・女性・名古屋市・)
2015年1月16日 14:11
プログラムを組んでいました

16日は仕事を終えた後、17日深夜にかけて、ずっとプログラムを組んでいました。
早朝、地震の直前にしっかりと目が覚め、「パーーーーーン」か「バーーーーーン」という、「ドーーーーン」よりも、少し渇いた音を暗闇の中でハッキリと聞きました。
ミサイルの着弾だろうと思いました。その後は、何かによって、家が壊されかかってるのがわかりましたが、地震とは思えなかったのが正直な感想です。家が宙に浮いているような感覚がありました。
被災したのは当時住んでいた須磨区でしたが、近隣の家の殆ど全てが全壊でした。

todo
(58・男性・神戸市・)
2015年1月16日 13:42
祖母の言葉

連休の14日15日は寒くて、16日の朝は小春日和のようなお天気だったのに太陽が霞んで見えたのを思い出します。昔、祖母からこんな天気の日には地震が起きると聞いた事がありまして、朝車の中で地震が起きるかもと主人と話をしながら仕事場に行きました。
明くる日には、実際に地震が起きて嫌な予感が当たったと驚いたのを覚えております。

トシ子
(74・女性・兵庫区・無職)
2015年1月16日 13:40
広瀬香美さんの曲

翌週の21,22日に会社(銀行)の若者グループでスキー旅行に行く予定だったので、スキーウェアを買いに行っていました。当時風邪気味でぼーっとしていたのと、20年前のことなのでウェアを買ったのかどうかはっきり憶えていませんが、店内に当時大ヒットしていた広瀬香美さんの曲がかかっていたように思います。曇り空で寒い日で、風邪気味だったのでなんとなくどんよりした気持ちでした。また、会社のメンバーで旅行の話が出たのが初めてだったせいか、なんとなく「ほんまにスキー行けるんかなあ・・・」と思っていました。1月19日に銀行の店舗のシャッターが開いてから怒涛のような日々が続き、スキー旅行は幻となりましたが、何にも代え難い体験を共有していたな・・・と思います。

うま
(48・女性・神戸市垂水区・主婦)
2015年1月16日 13:30
父親にこっぴどく怒られた

20年前は17歳高校2年生
震災前日の16日は男女の仲間6人で三宮で夜ご飯を食べメリケンパークで話しをしていた。
その間に時間は過ぎ17日になっていた。
帰ろうと思ったが電車は終電で家まではたどり着くことが出来ず石屋川までだった。
そこで自分の家まで走って帰ることにした。
自分の乗降する駅には自転車を置いてあったので更に二駅を帰る友人に自転車を貸した。
そして帰ると父親にこっぴどく怒られた。
こんなに怒られた経験は後にも先にもこの日だけ。
父との会話はこれが最後になった。

ひろあき
(37・男性・神戸市東灘区・会社員)
2015年1月16日 13:18
仕事でホテルの披露宴業務

1月16日は確か、仕事でホテルの披露宴業務に付いていました。
披露宴の最中に身体に感じる地震が2回程有ったように思います。
事務所に戻ってからも1回地震が有、職場の人達と『何か今日は地震が多いよね』と言っていました。
当時は兵庫区に住んでおり、夜遅くに帰宅し夜中3時頃に布団に入りました。
多分眠りが浅かったと思うのですが、枕の下から『ゴーッ』と言う凄い音と共に物凄い揺れ。
夢うつつだった事もあり、ジェットコースターに乗っている夢を見てましたが、目が覚めると家中がとんでもなく揺れていました。
私が『地震や!』と叫ぶと母が『はよ布団かぶり!』と言いましたが、四方八方から荷物やらなんやら落ちて身動きが取れませんでした。
私の身体の上にズシッと重みがあり、テレビが落ちてきてましたが冬で分厚い布団だったので怪我はありませんでした。
幸い両親、私は無事でした。
揺れが収まった後は、何の物音もしなくてシーンとしていて怖かった。
家中足の踏み場も無いくらい無茶苦茶で、凄く寒くて。
明るくなって来て家の壁が割れていて外が見えていました。
向かいの家のお兄さんが両親が夢野の方に住んでいたので『心配で見に行ったら東山にあった5階立てのトポスが1階になってた』と言っていて信じられませんでした。
家の近くの銭湯の巨大な煙突もポキッとおれて横倒し。
電気も付かないし、ラジオを探して付け大変な地震が起こった事を知りました。
たまたまその日に限って足元にある電話で夜友達と電話してそのまま寝てしまい上下逆に寝ていて難を逃れました。
足元に棚の上にかざっていた牛の置物がケースごと落ちてきてガラスが粉々でした。
かなり重たい置物で、もし、いつもの様に頭がそこにあったらその置物で大変な事になっていたかも。
午後から火の手が回ってきて消防署の方が『水が出ないから消せない。早く逃げて!』と言われて近所の中学校に避難。
寒くて教室にはおれず、父が車を学校のグランドに持ってきてそこで『今頃家は燃えているのか』と何ともやるせない気持ちで一晩過ごしました。
翌日、燃えてしまったと諦めながら家を見に行くと、2件手前のお家で風向きが変わったらしく、全壊でしたが荷物は無事でした。
想い出の物が残っていたのは嬉しかった。
避難した隣の車にいたおじさんは『近所の消火を手伝いに行ってたら逆方向から燃えてきて、何にも無くなってしまった』と。
近所の燃えてしまった焼け跡の瓦礫の中に『この中に人がいます』とう立札を見たとき、なんとも例えようのない気持ちになりました。
当時は今のように携帯も普及しておらず、連絡もできなかったので当初会社では私は亡くなってると思われていました。
学生時代の同級生、友人の家族もこの震災で亡くなりました。
その後学校のグランドの車で半年過ごし、ポートアイランドの仮設住宅に3年住みました。
確か仮設の中でも一番孤独死の多い所だったと記憶しています。
神戸市民も震災を経験していない人が4割になったと言うことですが、この経験を風化させてはいけないと日々思っています。

KANA
(44・女性・神戸市灘区・会社員)
2015年1月16日 12:30
パソコン通信のオフ会

パソコン通信のオフ会をしました。ちょうど神戸でのオフ会で六甲山とかドライブして夜は居酒屋で飲んで帰ったのが夜の12時でした。そして5時45分にもの凄い濡れで目が覚めましたちょうどベットで寝てて濡れがおさまるまで動けなかったです。そしたら窓ガラスが割れる音とか物が落ちる音がしました。揺れがおそまって家の中はもうめちゃめちゃになってました。外に出ると周りの家はもう家が崩れていました。自分の住んでるアパートは全壊でしたが倒れなかったです。

まさまさ
(49・男性・神戸市西区・)
2015年1月16日 12:24
なぜか部屋の模様替え

当時の自宅は神戸市内、前日の16日晩、震度1の地震がありました。地震なんてほとんど経験がなかったので、震度1の揺れにひどく動揺したことを覚えています。前日まで、スチール製のハイベッドを含む複合家具を書棚としてレイアウトして自身は畳の床に布団を敷いて寝ていました。しかし、この16日の晩、なんとなく1年ぶりに模様替えをしようと思い立ったのです。揺れたから、というわけではありませんでしたが、別の箱を並べて書籍を整理し、高さ120センチ程度のハイベッドで寝ることにしました。夜遅くまでバタバタして模様替えをし終えて眠りにつき、その明け方の地震でした。爆発的な揺れの時には、勢いで天井に着くほどでしたが、ベッドの上で跳ねたことで助かりました。揺れが収まって前の日まで自分が寝ていた場所をみると、大型家具や部屋の中にあるものほとんど全てが倒れてきて積み上がっていました。畳で寝ていたら、間違いなく死んでいた、とゾッとする思いでした。前日の予兆を理解して行動したわけではありませんが、虫の知らせというのがあるんだと思いました。あの時私が感じた何か、とても不思議でなりません。

あー
(34・女性・尼崎市・会社員)
2015年1月16日 11:57
雪遊び

小学校に入学する前の3連休最終日。私は両親と妹とちぐさ高原へ雪遊びに行きました。しかし混雑でスキー場には入れず近くの空き地で雪遊びをして帰ってきたことを思い出します。そして帰ってから父と異様に赤い月を眺めたのを覚えています。

三原 史寛
(26・男性・静岡県富士市・会社員)
2015年1月16日 11:16
「ドーン」という音

夕食準備中の母に修学旅行について話しているときに、「ドカーン」と今まで聞いたことのない隕石でも落ちたのかという音とともに、台所全体がこちらに向かって飛び出してくるような勢いの横揺れの地震がありました。
それからは、いつもとは違う下から突き上げてくるような地震が頻繁にあったこと、
どこからか聞こえてくる「ドーン」という大きな音に不安を感じながら、家族全員早めに就寝しました。
翌朝、目が覚めると、例の音が聞こえユラユラしていました。「ああ、また地震か、起きるには早いから、もうちょっと寝よう、学校めんどくさいな」と布団を頭からかぶり直し・・・

あの日から、音にはとても敏感になりました。「ドーン」といった音を聞くとドキドキします。

ふじっこ
(37・女性・神戸市垂水区・)
2015年1月16日 10:55
友人の出産祝いを買いに

長田区の友人の出産祝いを買いに行っていました。
友人に初めてのお子さんが誕生し、誕生祝にベビー服専門店へ買い物へ。
お店から直接、友人宅へ送ってもいました。
数日後、そのお店から連絡があり、長田区の被害のひどいところなので、お届けできませんと・・・震災で友人のことは心配していましたが、誕生祝いを送ったことは忘れていました。荷物はいったん、我が家に送ってもらいましたが、友人とは連絡がつきません。
しばらくして連絡があり、全員無事だが、奥様の長田の実家が焼失したこと。
また、お子さんが生まれる前に貸していた、我が家のベビーベッドが焼けてしまったことも恐縮されながら連絡していただきました。
今ではお互い家族も増え、なかなな会う機会も少なくなくなりましたが、その友人の写真付きの年賀状を見るたびに、あの時のお子さんが今年20歳になったこと、あの時の混乱や生きることに必死だったことを思い出します。

50おやじ
(50・男性・神戸市須磨区・会社員)
2015年1月16日 09:45
進路のことを考えていた

1995年1月16日はセンター試験の直後で、センター試験の自己採点の結果を、友人と一緒に大阪や神戸にある予備校へ持って行ったりしていました。大学入試の二次試験をどこの大学を受けるか迷っていて、自分が暑がりだったので北海道とかの大学を受けようかなと家族に話したとき、そんな地震の多いところはやめておきなさいと言われたのを覚えています。17日に進路指導を受ける予定だったので、16日夜は進路のことを考えてあまり寝付けませんでした。

わしからすかも
(39・男性・佐賀市・小児科医)
2015年1月16日 09:35
「シンドラーのリスト」

当時、高校3年生だった私は、前日まで受けていたセンター試験の自己採点をしに午前中は学校に行ってました。試験の結果は散々でした。気分転換のために下校途中に板宿にあったレンタルビデオ店に寄り「シンドラーのリスト」を借りました。
夕方、家の居間の柱にもたれながら映画を見ていたら「ガタッ」と一方向にだけ揺れる地震がありました。夕食の準備をしていた母親に「今、経験したことない変な地震あったな。念のため一時間ほどお風呂の火、消しとこう」って言ったのを覚えています。まさかその半日後にあんなに大きな地震がくるとは思いもしませんでした。

すまひが
(38・男性・神戸市須磨区・会社員)
2015年1月16日 08:33
ゆっくりできた夜

普通な日常生活でした。
主人の友達が美容師で、成人式が終わって久々一緒にゆっくりできる夜でした。
テレビのニュースで北海道の地震の余震があったとか。夜中の大地震で津波にのまれ多くの方が亡くなりました。
「怖いなぁ…その内、姫路も大きいのくるんちゃうか〜?」山崎断層が近くにある事もあり、冗談で言った事を覚えています。
翌朝、何故か何時もより早目が覚めて起き上がろうとした時、地鳴りが聞こえてきました。
家か揺れはじめたと同時にとてつもなく強くなり、9ヶ月に入ったお腹に布団を寄せました。ビシビシガタガタと家のきしむ音がとてつもなく怖かった事を憶えてます。
前夜の友達家族との楽しい団らんから一転、長田の義姉、灘のおばさん、いとことの連絡が取れず とてつもない不安でお腹が痛くなりました。私の友達、親戚は無事でしたが、多くの方が被害、犠牲になりショックでした。毎年、16日の夜も怖いです。

友美
(44・女性・姫路・主婦)
2015年1月16日 06:37
梅田で食事

芦屋で開業して30年の年。前日は初めて患者さんと4人で、梅田の薬膳料理店で食事。ウナギ、その他等も美味しく、楽しく過ごした日だった。帰宅途中、当時アパートの1階にあった治療室に寄り、ガスファンヒーターをセットして帰宅。その患者さんたちは翌日の17日に来院予定。

17日当日は、アパート1階の通路部分からひしゃげており、隣の家屋にもたれかかっていた。アパートは2月に取り壊しの予定で、住人は出た後で誰もいなかったのが幸いだった。でも、時間がずれていたら、自分は助かっていなかったかもしれない。来院予定の患者さんとは連絡が取れないままになった。

リリー
(76・女性・西宮市・)
2015年1月16日 06:22
名古屋へ

震災の前日、1995年1月16日は、当時尼崎に住んでいた彼女と一緒に、名古屋まで青春18きっぷを使ってきしめんを食べに行ってました。転がり込むような感じで彼女の住むマンションに戻ってきた夜、大阪市内の自宅に戻るのが面倒になり、そのまま一泊しました。
地震があった朝は、その当時猪名川上流域震源でで小さな地震が頻発していたので、とうとうその大きなのが来たか、とも思いました。
揺れが尋常じゃなかった事、そして「このままでは建物が崩れる」と思い正直死を覚悟しました。「このまま死ぬのでも、彼女だけは綺麗な顔のままで」と思って、頭を無理やり抱え込んでました。揺れが静まったあと、部屋の非常灯だけはつきました。見渡すと当然部屋の中はめちゃくちゃ。大きな家具が倒れてこなかったのは不幸中の幸いでした。もちろん水も出ない。明るくなって窓を開けて、西の方角を見ると、立ち上る黒い煙。
ただ事ではないことを悟りました。もちろん何も用意していなかったので、近くのコンビニエンスストアに水その他の買い出し。途中にあったブロック塀は崩壊、マンションの向かいにあった木造のアパートは平行四辺形。近くのマンションは、1階が駐車場だったせいかそのままぺしゃんこ。そしてたどり着いたコンビニエンスストアでは、真っ暗な中で店員さんが奮闘されてました。
電車など動いてるはずもない、と直感。飛び乗ったタクシーでの、西成区の自宅までの時間が異常なまでに長かった事を覚えています。「タクシー電話、使っていいよ」とも言われました。心配になって彼女に電話しましたが、当然つながりませんでした。
自宅に戻って、電気は通っている事を確認して、テレビを点けて、いきなりどアップになった、横倒しの阪神高速道路の映像は、一生忘れません。
今こうやって、誰かに生かされていることに感謝をしつつ、亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。

もう20年、経つんですね。

苦行僧
(47 ・男性・大阪府堺市東区・)
2015年1月16日 02:04
多井畑の厄神さん

1995年1月16日の事は忘れる事ができません。
主人が厄年という事もあって、お正月に主人の実家に顔を合わせて時に
16日は多井畑の厄神さんにみんなでお詣りに行く約束をしました。
けれども、当日になって主人の母が 「しんどいから行かない」ってどうしても動きません。
結局、私たち家族5人と義父の6人で多井畑の厄神さんに行ったのです。
翌17日の地震で主人の実家は全壊。同じ部屋で寝ていた義父母でしたが義父はかすり傷ひとつなく、義母は圧死でした。そして家は全焼して何も無くなってしまいました。
20年経っても1995年1月16日と17日の事ははっきりと覚えています。一生薄れる事はないでしょう。

残された者より
(58・女性・神戸市長田区・主婦)
2015年1月16日 00:18
大蔵省検査の準備

1月14日~16日まで大蔵省検査の準備で休日出勤でした。
勤務先は三宮。目の前に神戸国際会館、兵庫相互銀行の本店がありました。
16日は途中お客さまの葬儀に石屋川行きました。
お葬式が終わられ疲れがお出になった直後に震災にあわれさぞ大変だったことと思います。
芦屋の自宅に帰宅後17日に提出の部下の人事調書を仕上げ、午前2時ごろに寝ました。
地鳴りの音で目が覚めた直後に激しい揺れに襲われました。
食器棚が倒れ、食器の大半は割れてしまいました。
結婚のお祝いにもらった食器も割れてしまいましたが、妻は捨てることが出来ず箱に入れて今も残しています。
食器棚は結婚のときに買ったものですがガラスが割れてしまいました。震災のことを忘れないためにそのままにしているため我が家の食器棚の左の扉にはガラスが入っていません。

みずほ
(59・男性・芦屋市・会社員)
2015年1月15日 23:30
17日が楽しみでワクワクしていました

震災の前日、長田区の幼稚園に通っていた私は、次の日が楽しみでワクワクしていました。
次の日、1月17日は、幼稚園で1月生まれの誕生日会をする日。1月生まれの私は、この日をずっと待ちわびていました。
震災以降、当時通っていた幼稚園には一度も足を運んでいません。4月には新しい町の新しい幼稚園で、新しい生活がスタートしました。
それから20年。今でも、粉々になって床に散らばった食器が目に浮かぶし、就寝時に蛍光灯の紐が揺れていると怖くて眠れません。
そんな私も、もう25歳。当時、1人じゃ何もできなかった私に苦労も見せず、震災前と変わらない毎日をつくってくれた両親に心から感謝しています。

mifune
(25・女性・神戸市西区・会社員)
2015年1月15日 23:17
数日前から風邪をひいて…

16日は、その数日前から風邪をひいて自宅で寝込んでいました。
当時、長距離トラックに乗っていた私は、16日は既に神戸を出発していて、17日に秋田県に到着してる予定でした。
震災当日は、父と兄弟は出張等で不在。自宅には母と私の2人だけ。
自宅が全壊、その後全焼となり、着の身着のままで避難しましたが、母1人だけだったらと思うと、風邪をひいて仕事を休んだのは単なる偶然とは思えません。

まさぼ
(44・男性・芦屋市・)
2015年1月15日 22:49
サンチカの「銀水」でカツカレー

15歳、私はのんきな高校1年生でした。震災前日のことは、今でもはっきりと覚えています。自宅は東灘区、震度7の帯状地帯にありました。

あれは三連休の最終日、母と二人で三宮へバーゲンに出掛けました。前からの約束で、お昼ご飯はサンチカにあった「銀水」というレストランでカツカレーを食べました。家族の中で私だけ食べたことがなかった「銀水のカツカレー」は当時の私の憧れでした。買い物のあと、不二家でパフェも食べました。高校生の私にとって、それはそれは楽しい1日でした。「銀水」も、バーゲンに行った「ダイエー女館」も「センタープラザの不二家」も、まさか次の日に崩壊しようとは…。

帰り道、東に向かって歩いていた私達の目の前には、赤い大きな月が浮かんでいました。「夕陽みたい。変なお月さんだね」そう言いながら、それでも私は楽しかった余韻に浸りつつ、家路に着きました。夕飯時、小さな地震がありました。当時の神戸市民には地震の経験なんてほとんどなかったのではないでしょうか。小さな揺れにもドキドキしながら、私は小学生の頃読んだ「大地震が学校を襲った」という本のことを思い出していました。ふと、母が「この前ラジオで道場洋三さんが、今年は天災の多い年になるかもって言ってたのよ」と言いました。怖いなぁと思いながらも、次の瞬間にはもう頭の中から消えていました。

夕飯のあと、連休中サボっていたことを後悔しながら、眠い目をこすり、必死に宿題をしました。忘れもしない「徒然草」の品詞分解でした。震災の混乱で、結局答え合わせをすることなく終わった宿題…。

あの明け方は、母の悲鳴で目が覚めました。目覚めた瞬間には、ベッドの上で大きく揺れていました。父が、動くなーと叫んでいました。私はただひたすら毛布をかぶって震えていました。母が怪我をしたのか、必死に励ましている父の声を聞きながら。しばらくして、何もかもが倒れて足の踏み場もない真っ暗な部屋の片隅で、六時にセットしていた目覚まし時計が鳴り響きました。瞬時に、夜が明ける!と悟り、少し希望が見えた気がしました。

しばらくして、父がこじ開けてくれた扉を這い出て目にしたのは、顔面血だらけの母でした。外に出ると、犬がブルブルと震えていました。道行く人がみな呆然とし、無表情で歩いていました。余震に震えながら聞いたラジオは、亡くなった友の名を伝えました。すべての光景が、心に大きく突き刺さり、今でも褪せることはありません。

幸い母も助かり、家族は無事でしたが、震災前と後で、人生ははっきりと別れている気がします。あれから20年、震災前よりずっと長く生きていることが、不思議な気がします。最近は日本各地を度々天災が襲います。もうこれ以上、悲惨な災害がおこりませんようにと願わずにはいられません。

せつこ
(35・女性・神戸市灘区・公務員)
2015年1月15日 22:20
「今日の空おかしいね」

地震の前の日に車で1時間かかる祖父母の家にいました。
泊まろうとしましたが、母が迎えに来て帰りました。
帰りの車で空を見るといつもと違ってて、「今日の空おかしいね」と母に言ったのを覚えてます。
その次の日に地震が起きました。
家族と家は無事でしたが、祖父母の家は潰れてました。祖父母は瓦礫の下敷きになりましたが、救出していただいて助かりました。
もし泊まってたら命はなかったかもしれません。
20年たっても生きてる『今』を大切に感じます。

MAI
(28・女性・西宮・)
2015年1月15日 21:48
大阪へ出かけていました

越前屋俵太さん主催のイベントがあったため1人で大阪へ出かけていました。イベントが終わり電車に乗り込みぼんやり外に目をやると,もう夕方だというのに妙に空が明るかったのを何となく覚えています。しかしそれ以上特に気に留めることもなく,帰宅して,配偶者が用意してくれていたすき焼きを食べ,普通に就寝しました。通常と異なっていたのは,飼っていた熱帯魚が皆同じ方角を向いて泳いでいたことだけかもしれません。揺れで目が覚めた震災後のことは,学事出版「学校事務」誌1995年10月号に寄稿し掲載されているとおりです。

やーすー
(53・女性・神戸市・)
2015年1月15日 20:52
前日の記憶は全くありません

前日の記憶は全くありません。
揺れを感じると同時にガシャンと音がして目を覚ましました。
台所に降りるとテレビの上の一輪挿しが落ちて床が濡れていました。
その後のニュースで大変なことが起きたのだと知りましたが
僕は何も行動しませんでした。
後にボランティア元年だと言われますが
恥ずかしながら当時の僕には、その様な意識は全くありませんでした。
十数年が経過したころ地元のボランティア活動グループに入会することになりました。
災害などには全く関係ない会なのですがボランティアって何だろうとの考えから
津山市や豊岡市の災害ボランティアに参加しました。
平成21年8月9日の台風9号による水害では佐用町に大きな被害があり
尊い命を失う事にもなりました。
今更ですが阪神淡路大震災に関する記事を読んで
佐用の水害を思い出したり
一面が瓦礫に覆われた東日本大震災の光景を思い出し涙します。
17日は仕事なので18日には神戸に行こうと考えています。

松尾尚幸
(53・男性・佐用郡佐用町・会社員)
2015年1月15日 20:30
「変な空やなあ~」

前日の16日夜地震がありました。「地震?」やと・・でもすぐその事はあまり気にしてませんでした。当時の我が家は長屋の平屋を建てまわした2階建て、以前から1階と2階の隙間にネズミ?らしきものが移動しバタバタと音がする時もあった。その日はあまりのバタバタの異常な音の大きさに夜中に目がさめた。何気に窓を開けて空を見た。なんとも言えない空の色。赤なのかオレンジなのか・・・おもわず「変な空やなあ~」とつぶやいた。その後ベットに戻り、しばらくしたら地震が来た。

EKKO
(56・女性・須磨区・会社員)
2015年1月15日 20:29
ポーアイにあった会員制大型スーパー

連休 実家で過ごしポーアイにあった会員制大型スーパーで買い物。
いろんな物を買い、めったに 買わない 特価のスポーツ飲料二箱買いだめしました。

当時私達は三重県名張市に住んでいたので午後11時すぎに阪神高速で帰りました何時間前に通った高速道路が......衝撃でした。

りえ
(45・女性・神戸市北区・主婦)
2015年1月15日 20:06
夕食の時間に地震

夕食の時間に震度1か2程度の地震がありました。
当時、妊娠10ヶ月で21日が予定日だった私は、陣痛が始まったらとか、避難するときは?「どうしよう…」と、とても不安になったのを覚えています。出産した病院には明石や西神戸からの方もいて半壊で退院後、どこに帰るのかを話しておられました。先日、その時産まれた長女が成人の日を迎えました。元気に明るく過ごせるように、という願いは変わりませんが、若い人たちが未来に夢や希望が持てるような社会であってぼしいと願います。

小山洋子
(45歳・女性・姫路市・公務員)
2015年1月15日 19:05
友達と神戸に買い物に

 私は、友達と神戸に買い物に行っていました。少し遅めの昼食を、ハーバーランドの神戸新聞の文化情報ビルの最上階(?)で食事をしていました。途中、震度1ぐらいの揺れがきたのを覚えています。ビルの上の方だったためもっと大きな揺れだと勘違いするぐらいでした。
 まさか、次の日にそんなことが起こるとはおもっていませんでした。
 それよりも震災の次の日に発行された神戸新聞の紙面を見て涙を浮かべていた父の姿を今でも覚えています。
 
 

まゆぴー
(45・女性・姫路市・公務員)
2015年1月15日 19:04
大学生で大阪府堺市に住んでいました

当時私は大学生で大阪府の堺市に住んでいましたが、1月15日が成人式の為、須磨区の実家に帰省していました。成人式では、久しぶりに同級生と会い遅くまで飲んで自宅に帰りました。その後、1月16日の明け方に調子を崩して発熱してしまいました。元々1月16日の夕方に堺の方でバイトが入っており堺に戻る予定でしたが、発熱の為にバイトを休み、次の日の17日の始発で戻り大学の授業に出ようと思いバイト先に連絡したところ、他にも休んでいる人がおり少しでも手伝って欲しいということで、ふらふらで堺に戻りました。次の日未明に大きな揺れで目が覚め神戸の状況を知り、バイクで須磨区の実家に戻りましたが、途中の線路には脱線した電車が横たわっていました。もしバイトが休めて1月17日の始発で移動していたらどこかの電車に乗っていたと思います。前日とあまりにも変わり果てた町をバイクで通りながら目の当たりにした光景は今でも忘れられません。その後、東日本大震災の際も前日の夕方まで東京に出張でいました。次の日まで出張を延長するか思案した後に神戸に戻りました。その時にも1995年の1月16日のことを思い出しました。

けん
(40・男性・東灘区(当時は実家が須磨区、大阪府堺市に在住)・会社員)
2015年1月15日 19:01
車で三宮へ

明石の魚住に住んでいます。
愛知県から家内の姉が3連休で遊びに来ていて、16日の午後からドライブがてら三宮まで車で送りました。
もともと神戸に住んでいた義姉に県庁から北野あたりを見せ、西村コーヒーや東門、生田神社になつかしいなぁと話ししたのを覚えています。
阪急三宮駅の北側で義姉をおろしました。
夕方5時ごろだったかと思います。
それから半日後に地震がありました。
もし、義姉を送って行ったときに地震があったらどうなっていたかと今でも恐ろしく感じます。

ヘビースモーカー
(59・男性・明石市・無職)
2015年1月15日 18:40
母と長男

1歳8ヶ月の長男をお風呂に入れるのに、階下で別世帯の母が来てくれました。
わたしは月のものの日で、しかも多かったため、シャワーすら躊躇してたんです。
元夫は完全夜勤で夕方から17日の午前にかけて留守にする日でした。
母と長男が楽しげにお風呂に入り、わたしはそれを受け取り、
嬉しそうな長男に服を着せて寝かしつけました。
母は、
「なんか知らんけど今日は暑いな。
もうパンツ一丁で寝るわ」
とふざけて言っていましたが、翌日分かったことですが、
いつもと違う暑さに変だと思いながら、上は着ていたものの、
下はズボンを穿かずに寝たため、潰れた家からの避難も
躊躇ったほどの格好だったそうです。
当時サークルで会報を出す役目を持っていたわたしは、それを
仕上げ、茶の間兼寝室の狭い家で、こたつの上にそれを
置いて午前2時半頃に長男の横で眠りに就きました。
元夫が帰宅後に入れるようにお風呂のお湯はそのままに、
ご飯も保温したまま、おかずもお鍋の中にありました。

浴槽も炊飯器もお鍋も、3時間後に家ごと吹っ飛ぶとは
思いませんでした。

懐かしい家で過ごした最後の夜でした。
初めての子を産み育て、その成長を喜んだ狭い古い家での最後の夜でした。
あの夜着ていたベネトンのトレーナーを今でも大事に持っているのは、
生き残ったことでのお守り代わりのつもりかも知れません。

ざくろ
(46・女性・神戸市東灘区・在宅ライター)
2015年1月15日 18:18
部屋の大掃除

当時は大学の4回生で寮に住んでました。
部屋を散らかしがちな自分は3連休だった16日の夜に急に思い立って、部屋の大掃除をしていました。
16日ではないのですが、連休前の13日には所属していたゼミに次年度から加わる2回生の歓迎会があったことと、その歓迎会に参加していた当時2回生の学生の1人が亡くなったのも覚えています。

104key
(43・男性・東京語・会社員)
2015年1月15日 17:28
アパートで1人暮らし

私は実家が北陸で当時、阪急稲野駅近くの短大の一年生で実家を離れてアパートで1人暮らしをしていました。
もうすぐ後期試験ということもあり前日は試験勉強をしてからいつも通りに就寝しました。
ただ、その日に限ってたまたま使っていたスリッパをベッド下に入れて寝たのです。
そして、翌朝、まだ真っ暗の中での突然の轟音といろんなものが割れる音と激しい揺れ…目は覚めてもとにかくすぐに動くことができませんでした。揺れがおさまって我に返ったときに真っ先にベッド下に置いたスリッパを履いて床に下りたら足の踏み場がないほど物が散乱し破損していました。
地震後、しばらくは室内でも靴を近くに置いたり、夜も寝巻きなんて着て寝ることはできなかった記憶が鮮明にあります。

ネイビーブルー
(39・女性・尼崎市・主婦)
2015年1月15日 17:03
同級生の女性

成人式も終わりほっとしていた16日、成人式のため西宮から高砂市へ帰省していた大好きだった同級生の女性(ちょうど1年前に別れてしまっていましたが)と、須磨離宮公園で散歩デートをした後、車で西宮の鳴尾まで送りました。その次の日に震災が起こってしまい、あの時 送っていっていなければ、と後悔したこともあります。某新聞データベースに載っていた犠牲になられた方々の一覧には、名前がなくホッとしましたが、未だに怖くて連絡をとれていません。

もりさん
(40・男性・高砂市・自営業)
2015年1月15日 15:59
月を見に母と海岸へ

小学6年生で淡路島に住んでいました。
前日の夜、母が何か用事で外出しており帰宅して私に「なんか月の色がおかしいねん。不気味な色してるんよ」と言い二人で海岸へ見に行きました。
何とも言えない赤のような茶色のような色で、大きさも凄く大きかったのを覚えています。
あの月の色だけは今でも覚えています。
そしてあの色に似た月を見るたびに何か起きるんじゃないかとドキドキします。

はる
(32・女性・尼崎市・会社員)
2015年1月15日 15:57
大学一年生

大学一年生で、16日は当時所属していた野外活動サークルの研修会の最終日でした。数日前から発熱していた妹のインフルエンザがうつったのか、研修先で熱を出しフラフラしながらの帰宅途中、見上げた月が異様に赤く大きかったのをよく覚えています。当時の自宅は古い二階建てで、普段は一階に祖母が寝ており、地震発生時刻は妹と母が朝練に行く為に一階で朝食を取ったりお弁当を作たっりしている時間でしたが、当日は祖母は入院中、妹はインフルエンザで学校欠席、母も弁当作りは休みで、奇跡的に家族全員無事でした。近所の子供たちの中では私が最年長で、最年少の子をおぶり他の小さな子の手を引いて、近くの小学校まで避難したことを覚えています。親世代は生き埋めになった近所の人を助けようとしていたように思います。この震災で、私は小学校からの友人を亡くしました。ご家族を亡くされた方の悲しみとは比べものになりませんが、いまだに思い出すと涙が出ます。

~より
(39・女性・明石市(当時神戸市須磨区)・パート)
2015年1月15日 14:11
震源地の実家へ

神戸で一人暮らしでした。連休で震源地の実家へ。
友達もおなじように神戸で一人暮らしでしたが、たまたまみんな戻ってたので富島の友達の家に集まってすごしました。
次の朝、友達の家が全壊。幸い友達家族は救出されました。

いぶ
(42・女性・淡路市・主婦)
2015年1月15日 13:53
東京で働いていました

神戸市東灘区生まれ、垂水区育ち、東京在住です。
16日も東京で働いていましたが、妻が出産のため実家の大阪市東淀川区に帰っていて、16日が予定日でした。産まれそうだからできるならば帰ってきてと呼ばれて大阪に向かいました。その日は産まれなかったのですが、翌朝4:58(地震の48分前)に産まれました。出産に立ち会えたこと、そしてその子が成人を迎えられることに深く感謝しています。

土谷稔
(49・男性・東京都杉並区・イラストレーター)
2015年1月15日 12:47
長男の学習机

4月に小学校に入学する長男の学習机を、義両親からのお祝いということで買いに行きました。
学習机代だけ頂き、家族だけで買いに行き、その夜に長男から御礼の電話を入れました。
「ばあちゃん、机ありがとう。届いたら見にきてね」と。
その「ばあちゃん」は地震で家の下敷きになり、長男の学習机をみることなく亡くなってしましいました。
長男はもう社会人ですが、その机を今も大事に使っています。

さとちん
(51・女性・神戸市垂水区・会社員)
2015年1月15日 10:26
父親と地震の話

震災の前日、父親と地震の話をしていました。当時、北海道と九州付近で立て続けに地震があり、「次は真ん中の近畿かもね~」なんて話をしていたのです。
そうしたら次の朝、実際に地震が起こりました。

今でもあんな話はするもんじゃないねと父と話しています。

Rieko
(38・女性・芦屋市・会社員)
2015年1月15日 09:36
父と母

その日は昼間は何をしていたか思い出せませんが、向かい同士に住んでいた私の両親は新年会やら何やらで、外出していて顔を合わすことはありませんでした。
附属小学校に通っていた小学5年生の娘は入学試験のため始まりが遅れていた3学期がいよいよ17日からはじまるので、制服の用意やら何やら準備していました。
夕方になって、新年会から帰ってきた母が珍しく家にきてくれて、お土産にもらってきたお惣菜と、その日新年会のお楽しみ抽選会で当たったパックのお醤油か何かを持ってきてくれて、そのお醤油に何かことわざか教訓のようなものがは貼ってあり、私に『こんなこと書いてあるから、覚えておきなさい…』みたいなことを言いました。
夕食の支度をしていて母も上に上がることなく玄関先でのやりとりで終わってしまい なんの教訓だったのか今は思い出せないのですが、その時が母に会った最後になってしまいました。
そして父は前日には会えず、15日の夜に私が実家に行った時、小豆粥を作った残りで作ったおぜんざいを食べさせてくれたのが最後になりました。
お葬式をするために、京都の親戚の家まで2台の棺をトラックに乗せて夜どうし走ったことは一生忘れることはないでしょう。

ミレニー
(59・女性・神戸市東灘区・事務員)
2015年1月15日 02:55
大きく赤い月

前日が彼女の誕生日だったので、誕生日デートの帰り、
寒さが和らいで、わりあい暖かい日だった。
花隈公園の辺りで見た月が、今までに見た事が無いくらい大きく、
不気味なほど赤かったので、彼女に「不吉な事の前触れじゃなきゃいいけど。」と、
冗談で言ったのを鮮明に覚えています。
何日か前から、小規模の地震が何度かあり「このあたりにしてはめずらしいなぁ」とも
感じており、今にして思えば、何がしかの予兆にしか過ぎなかったのかも知れません。
一月前まで住んでいたアパートが立ち退きになり、親父は「二月まで立ち退かんぞ」と
粘っていましたが、地震の後、立ち退いたアパートを見に行くと、粉々に崩れており、
何に救われたのか知りませんが、人の生死なんて紙一重である事を思い知らされ、
毎年、震災の日は、自分が生かされている意味を考え直す日になっています。

震災前日に住んでいた家は借家だったのですが、引っ越して来た時から「暖房入れても寒い家だな」と思っておりましたが、地震で損壊して判りました。
壁に断熱材が入っていない「欠陥住宅」でした。


まぶまぶ
(43・男性・長野県松本市・)
2015年1月15日 01:57
クラスでインフルエンザが流行

 私は当時中学2年生でした。クラスでインフルエンザが流行しており、前日まで寝込んでいました。その日は部活動の試合があり、休んでしまったことに対する後ろめたさがありました。そして、明日学校に行くのが気まずいなあ…と思いつつ眠りにつきました。翌朝5時45分にパチッと目が覚めました。何でこんな時間に目が覚めたんだろうか?と思った瞬間ゆっくりとした縦揺れから、洗濯機の中に放り込まれたような横揺れ。慌てて布団をかぶりましたがタンスの下敷きになりました。幸い怪我はなかったのですが、避難所暮らし、ライフラインが寸断された生活が始まりました。
 あれから20年…現在は宮城県気仙沼市で教員をしています。あの日の出来事を子どもたちに伝えていこうと思った時、東日本大審査に遭遇しました。地震の怖さと津波の怖さ、両方を経験しました。なかなかこのような運命に遭遇するのは珍しいと思います。きっと天からのお告げなのかもしれません。これからも地震・津波に対する教訓を後世にきちんと伝えていきたいと思います。

川尻宏一
(34・男性・岩手県一関市・教員)
2015年1月14日 22:12
阪神岩屋駅前の撞球店

3連休最後の夜を、友人たちと阪神岩屋駅前にある撞球店で過ごしていました。遊び終え日付が変わったころ、私は国道43号線に車を走らせ芦屋市の自宅まで戻りました。

寝床につき数時間、あの大きな揺れが襲ったのです。

ついさっき通ったあのヨンサンに高速道路が倒れ込んでいるのを現実感なく眺めていました。数十年百年単位で動く大地震が、もし、ほんの少しで早く起きていたなら、あの下を走っていた自分が巻き込まれていたのかもしれません。

幸いにして自分も家族も大きな怪我をすることもなく無事に避難することができたのですが、20年経った今でもあの日のことは決して忘れません。
今は神戸から離れ遠い地に居ますが、年に一度は実家に戻り、あの日あの時撮影した風景と同じ場所から今の復興した神戸を撮影しています。
綺麗になった町並みもよく見ると瓦礫に引っかかれた住所標識が残るなど、その当時の傷跡を残しています。

阪神淡路大震災後、「もうこんな惨事は二度と起こらない・・・」と思いながらも、続く各地の地震災害。残念ながら日本は地震の活動期に入ったことは間違いないでしょう。

これからも決して油断することなく、根拠なき「大丈夫だろう」に逃げぬよう気を引き締めていきたいと思います。

root66
(50・男性・兵庫県芦屋市・会社員)
2015年1月14日 21:44
娘の一歳の誕生

娘の一歳の誕生日。
遠方から来てくれた義両親とインフルエンザで倒れていた夫とともに自宅で誕生日を祝いました。
当時住んでいた長田区のマンションは区役所の近くであり、一歳の記念にと周辺をてくてく歩く姿をビデオカメラにおさめました。区役所裏の公園はマラソンをする人がいたのですが、寒さもありあまり人気が少なかったです。鳩を追いかける娘を撮影しました。
いつも三人で寝ていた部屋は、夫のインフルエンザのこともあり、となりの家具を置かない部屋で寝ていたのです。地震で普段寝ていた私たちの場所にはタンスが倒れていました。生死をわけました。
鳴り響くサイレンの音と水道管が破裂した水の音に人が叫ぶ音。いまでも覚えています。そして、周辺は火災のためになかなか明るくねらなかった朝をむかえました。

みすず
(49・女性・神戸市灘区・看護師)
2015年1月14日 21:32
1/15に男の子を出産

1/15に男の子を出産しました。
出産の翌日、早朝5時過ぎに目を覚ましました。
震災当日も決まって早朝5時過ぎに目を覚まし、トイレに行って部屋のソファーに座って夜食のジュースを飲んでいると、遠くからゴーと地響きに似た音が段々こちらに近づいてきたと思った瞬間、ドンと壁に大きな物がぶつかったと思ったら強い揺れで立ってられない程の揺れが…
慌ててベッドに入り布団をかぶり揺れが収まるのを待ちました。
揺れが収まってみると部屋のパネルヒーターは倒れ粉々に割れ、部屋の外の棚も倒れしばらくは部屋の外にも出られませんでした。
病院のヒーターが地震の影響で破損し、新生児室の赤ちゃん達は母親の病室に暖を取るために一時避難してきて来ました。
地震後、看護師さんに地震の中、赤ちゃん達がよく無事でいた事を尋ねると、その日はたまたまベッドのキャスターをオフにしていたが為、ベッドが倒れず無事でいたと…
あの日、ベッドのキャスターをオフにしてなかったら、ベッドが倒れ大ケガをしていたかも、ベッドの下敷きになって新しく生まれた命を亡くしていたかも…
後になって、恐ろしくなりました。

noir
(47・女性・兵庫県尼崎市・専業主婦)
2015年1月14日 21:22
家で寝込んでいました

震災前日。当時小学6年でしたが、数日前よりインフルエンザにかかっており、家で寝込んでいました。明日はいよいよ月曜日。久々に学校に行ける気持ちでワクワクしていたことを今でも覚えております。17日当日、期待からなのか、午前2時頃に一度目が覚めてしまった事も覚えています。そんな期待の当日にあの様な震災を体験するなんて思ってもいませんでした。

隈元武史
(32・男性・尼崎市・会社員)
2015年1月14日 21:21
午後9時前に地震

16日の、午後9時前に地震がありました。ああ、地震だと思っただけでした。明日から,仕事か、と、めんどくさく思いました。正月気分が抜けないような感じでした。現在82才の私の母は「日経新聞に関西の地震の可能性について出てたな」と思ったそうですが、もちろん、起こるかもしれない!とは思ってなかったようです。

わにさん
(53・女性・神戸市中央区・会社員)
2015年1月14日 20:05
三宮で食事

今の嫁(当時は付き合い中)と三宮に食事に行き、帰りは倒壊するなどとは考えもよらなかった阪神高速道路を通りました。

アンリー
(51・男性・松原市・会社員)
2015年1月14日 19:24
インフルエンザ

小学校1年生だった私はインフルエンザで寝込んでいました。
夕方に大きな音が3度して、怖くなって、夕飯の支度をしていた母を一生懸命呼んだのを覚えています。
「大丈夫よ」と優しく言ってくれた母は気になったのか、就寝前に懐中電灯の位置を確認したそうです。

あれから月日が経って、まさか東京で東日本大震災に遭遇するとは…1人防災リュックを持って外に出たものの、どうしていいか分からなくなり泣き崩れました。

何歳になっても地震はやはり怖いです。

あい
(27・女性・東京都・会社員)
2015年1月14日 17:29
お土産が非常食に

3連休を実家(横浜)で過ごし、飛行機で伊丹へ。
バスで阪神高速を通って三宮へ。
地下鉄で須磨に帰宅しました。
翌日からの仕事の準備に横浜土産も加えて、やすみました。
半日前に通った高速があんな形に・・・、そして、そのお土産が非常食になるとは思いもせずに。

関東で経験していた地震とは違いすぎて、はじめは地震と思わず、飛行機でも墜落したのかと思いました。
一瞬のうちに光がなくなり怖かったことを、今でも電気を消す瞬間に思い出したり、小さな地震でもどこかで大きな地震では?といつもビクビクするようになりました。

今年も、17日のあの時間には、黙とうをささげます。

ちとせ
(51・女性・横浜市(当時は須磨区)・)
2015年1月14日 17:26
母が「今日の空は変だよ」

前日のこと はっきりと憶えています

あの日は振替休日で 学生時代の友達仲間と久しぶりにランチでもと集合していました
とても珍しく全員が揃っていました
しかし 私はなんだか気分がすぐれず せっかくの中華のランチも注文する気がおきず、ただひとり白いおかゆを注文
それもろくすっぽ食べられず 結局『どうせ またすぐ会えるからさ』と思って私ひとりが帰宅しました
帰宅して しばらくして 北海道で大きめの地震があったと速報が出ました
当時は 現在ほど速報がしょっちゅう出ることはなくて それだけに母と『何か嫌だね 気味悪いね』と言い、『でも北海道だから』と思ったこと、
日が暮れる頃 母が『今日の空は変だよ』としつこく言ったけれど、それをスルーして見なかったことを憶えています

すのすの
(47・女性・神戸・)
2015年1月14日 17:14
ディズニーランド

当時小学三年生だった私は前日まで家族旅行で夢の国ディズニーランドへ行ってました。夢の国だといわれるだけあって、すごく楽しかったと思います。帰りの新幹線内で両親に楽しかったね。また連れてってね。と言ってました。そんな楽しい気持ちのまま寝ていると、突然の大きな揺れで目が覚めベッドのすぐ横にはタンスが倒れてきました。山手側にあった家から海側の街並みは炎と煙があがってるのが見え、一気に地獄に落とされたような気がしました。

がいちょす
(29・男性・神戸市長田区・会社員)
2015年1月14日 16:58
友人宅に集まって…

高校3年生の卒業間近、地元の仲間たちと友人宅に集まり夜12時ごろまで
遊んでいました。
「帰るのだるいなあ、泊まっていこうか。」といった話も出ていましたが
私を含めて数名が翌日に高校のマラソン大会を控えていたため、
結局その日はおとなしく帰宅しました。

この友人宅は翌日の震災により全壊、その友人は亡くなることになるのですが
その時はそんなことが起きるとは全く想像もしていませんでした。

ようすけ
(37・男性・神戸市東灘区・会社経営)
2015年1月14日 15:06
「明日から仕事か」

14日(土)に、大型バイクの限定解除のために教習所へ行ったばかりで、15日(日)はお昼前まで寝ており、午後から梅田のバイクショップへ出かけました。 当時は西宮北口にあった会社の独身寮におり、外出から帰ってからは普段通り、夕食を食べ、「明日から仕事か。 バイクの教習所へもいかんとなぁ。」と思いつつお風呂に入った記憶があります。 線路に近かったため、電車の振動音を聞きながら、(今から思うと、)妙に、珍しく早い時間に床に就きましたね。 そのためか、地震発生時までに目が覚め、地震で天井の蛍光灯がグルグル回るのを見ながら、床の上を左右に滑っている布団にしがみついて「わあああああーーーー」って叫んでましたね。

且蔵
(46・男性・三田市・会社員)
2015年1月14日 15:01
「テスト、嫌だなぁ」

当時は中学2年生。3連休最終日で、翌日は国語のテストがある予定で「嫌だなぁ~」と思ってました。そして当日、この日に限ってトイレに行きたくなり、5:38に目覚めたことは鮮明に覚えています。

もるがん
(34・男性・東京都・会社員)
2015年1月14日 14:36
生田川近くの設計事務所

バイトしてました

当時は生田川近くの設計事務所で平日はお仕事していました。
3連休はその近くの別の設計事務所で製図のお勉強を兼ねてバイトさせてもらっていました。
ズル休みしたいような気分を抱えつつ
けど、良い方々に恵まれたことに感謝して頑張らないと!
そんな事をぼんやり考えながらいつもと同じ阪神電車で三宮へ向かいました。

16日は所長さんが1日留守にされていたので1人黙々と芦屋浜あたりの土木関係の図面に線を引いたり数字を打ったりしていました。
その頃はまだ手書きの図面が多くて製図台に向かっての手作業でした。
夕方に身体がフワっとして線が乱れたのを覚えています。
地震とは全く思わず、ちょっと疲れたのかな?と思ってました。

その日は留守番と仕事をしてくれたからということで焼肉をご馳走していただきました。
所長さんのお子さん家族と一緒に大勢でワイワイ楽しく美味しい夕飯でした。
帰りは21時頃。1月の夜だというのにコートも着ずに月がとっても綺麗だわと夜空を見ながら三宮駅まで歩きました。

当時は母が泊まりの仕事で宝塚に行っていましたので自宅は1人でした。
深夜2時くらいにお布団も敷かずコタツに潜り込んで就寝。

気がついたらカタカタ小刻みに揺れるような音がしており
直感で「地震だ!イヤだな」とコタツに頭まですっぽり潜り込みました。
その直後にドーンと突き上げられ激しく揺れ始めコタツの足に必死につかまり
コタツと一緒に振り回されていました。
揺れがおさまり恐る恐る出てみると頭があった場所には仏壇が落ちてきており
その反対側には本棚のガラスが割れ中身が飛び出し散乱してました。
長方形の大きいコタツで全身入ったので怪我せずにすんだのだと思います。
母が在宅だったら、お互いが相手の心配をしてどちらかが被害を受けていたでしょう。
怖かったし心細かったけれど、あの日1人で良かったと今でも思います。

自宅は11階建ての5階。ベランダからは43号線と阪神高速が見える所でした。
とにかく窓を開けなくては!と思いベランダの窓を全開にしてました。
何故なんだろう?
まだ夜明け前で暗くてシーンと静かで43号線は歩道側に車が何台か停車していました。車の後方のランプとオレンジ色の街灯を覚えています。
オレンジ色の街灯が高速道路だったのか43号線だったのか思い出せません。

宝塚に居た母の無事は翌日に確認できました。
2週間後、16日に仕事した芦屋浜の図面は使い物にならなくなったと聞きました。
同じ区内で家の被害がまだマシだった兄宅で居候させてもらい桜の頃のガス復旧で自宅にもどりました。

みいこ
(50・女性・西宮市・主婦)
2015年1月14日 14:34
就活中

就職活動の願書を大量に書いていました。
大学3回生の冬で、いよいよ本格的に就職活動開始というタイミングでした。
明日大学にいくまえにポストに出そうと思って準備をして就寝。
なんとなく目が覚めると同時に大きな揺れに襲われました。マンションは半壊、運よく命は助かりましたが部屋はめちゃくちゃになりました。

今もあの時のことは忘れられません。鮮明に覚えています。
あれから数年して東京に移住し、今度は東北の震災で東京で震度5弱の地震にあい、阪神での震災のことが一瞬でフラッシュバックし、今度こそ死ぬ!と思いました。
日本にいる限り、どこに住んでいても大きな地震が来る可能性は高いんだろうと思いつつ、揺れるたびに心臓が痛いです。

モモ
(40・女性・東京都・会社員)
2015年1月14日 13:34
中学3年生

当時中学3年生でした。
生徒会役員の任期が終わり、生徒会担当の先生のご自宅にお招きいただき
食事をごちそうになったり任期中のことを話したりしました。
3連休の最終日で、穏やかな一日であったと記憶しています。

翌日は受験する神戸の高校へ願書を取りに行く予定でした。
激しい揺れに目を覚ますと、真っ暗な部屋の中にたくさんの本が散乱していました。
自宅マンションは半壊となり避難命令を受けましたが、幸い家族は全員無事でした。
テレビに映る神戸の参上を目の当たりして、言葉が出てきませんでした。

今は一児の父となり、震災を語り継いでゆく使命感を持っています。

あおなみ
(34・男性・神戸市・会社員)
2015年1月14日 13:07
両国国技館

1995/1/16 当時大相撲にハマっていた母親に連れられ両国国技館に行ってました。
東京はまったく何もない朝を迎えいつものようにテレビをつけると阪神の酷い様子に驚きました。
当時中学二年生、生徒会役員。
当日から校内で義援金を集め神戸に送りました。

私が鮮明に残るショックは潰れた家の画像から当時好きだったアイドルが震災2日前に大阪でやったコンサートのパンフレットが見えてた事。
同じアイドルを好きで応援していて時と場所は違えど同じコンサートツアーに行ったあの家の子はどうしているんだろうそれが鮮明に覚えています。

るぅ
(34・女性・東京都世田谷区・会社員)
2015年1月14日 12:41
空がどす黒い赤い色

前日に市内の実家で、姉の結婚祝いを兼ねて食事会をしました。一晩泊まり、東灘区の自宅に戻る時に空がどす黒い赤い色で、空を見上げていた人が沢山いました。近所から、犬の遠吠えが響いていました。
晩御飯を作っていた時に、突き上げるようなドンとした揺れ。すぐにテレビをつけて確認し、神戸で地震は珍しいものだと思ったことを思い出します。
次の日の早朝の出来事は、今もまだ詳しくは話すことはありません。
震災、震災関連で亡くなった方々のご冥福を心よりお祈り致します。

匿名希望
(42・女性・神戸市須磨区・)
2015年1月14日 09:08
部活の遠征から帰宅

当時中学2年で部活の遠征から帰ってきて、ゆっくり過ごしていました。
疲れていたので眠りが深く、夢の中でかなり揺れていると思っていると途中で目が覚めて、化粧箪笥が倒れてガラスが粉々に割れていました。
隣りで寝ていた妹が、お姉ちゃんが動かないと泣きそうになったそうです。
慌てて家族の安否を確認してから外に飛び出すと、隣の家は全壊で道向かいのお寺の屋根もペシャンコで、見る風景全てが変わっていました。
余震が頻発していた中で役所勤務の母が私達子供をおいて仕事に行ったのはとても不安だったのを思い出します。

直子
(33・女性・淡路市・パート)
2015年1月14日 00:26
22歳、百貨店勤務でした

私は当時、22歳。百貨店で働いていました。
16日は仕事を終え、次の日は定休日だったのでそのまま高校時代の友達の家に泊まらせてもらう為、芦屋に向かいました。
夜は友達と並んで布団を敷いてもらい楽しい想いで寝ていたその時に地震にあいました。 横に寝ていた友達と寝たまま手を握って声をあげた事は今でも鮮明に覚えています。
17日は近くの学校に避難し、夜は友達のワゴン車に泊まりました。
18日は家が須磨区でしたが歩いて帰ろうと思い、とりあえず電車が動き出した地下鉄新神戸駅を目指し歩きました。
駅には両親が自動車で来てくれていて思わず泣いてしまいました。
この時の3日間は生涯忘れないと思います。

えるこ
(42・女性・須磨区・販売)
2015年1月13日 23:37
六甲山でスキー

前日は親戚達と六甲山にあるスキー場に行ってました。
次の日にあんな大きな地震が来るとは全く気づきもせずに2歳前の子供と楽しく時間も忘れて遊んでおりました。
ただ、帰りに須磨区にあるホームセンターに向かう車中でオレンジ色の大きな月が出てたことを今でも鮮明に覚えています。
あれから20年。早いです。
子供達も社会人になりましたが、忘れてはいけない出来事だと思います。

チェリーパイ
(45・女性・神戸市北区・会社員)
2015年1月13日 23:07
センター試験

私は大学受験生だったので、1月15・16日はセンター試験でした。音大受験だったのでセンター試験が終わったことでやっと実技試験に向けて集中できると少しホットしていたようにおもいます。18:00過ぎから夕食を食べ始めたのですが、その最中に、本当に一瞬、ガタッと揺れを感じました。直ぐにテレビ(NHKで)で神戸市震度1が伝えられました。大地震の前兆だったのでしょうね。

およしまこと
(30代・男性・神戸市須磨区・)
2015年1月13日 23:04
大掃除を終わらせ寝ていました

前年の大晦日に大掃除を終わらすことが出来ず、部屋の中に未整理の荷物が散乱していたので、前日までは部屋の片側(本棚の前)で寝ていました。3連休だったので大掃除を終わらせ、当日は部屋のど真ん中で寝ており、地震で目が覚めると棚から飛び出した本等が布団の上にドッサリ、顔の両側にも降り積もっていました。3連休に大掃除を終わらせていなければ、顔面直撃の大怪我だったかもしれないと思うと肝を冷やしたのを良く覚えています。

匿名さん
(56・男性・神戸市東灘区・IT関連)
2015年1月13日 22:07
卒論を仕上げていました

当時は大学四年生で卒業論文を仕上げていました。
16日夕方に書き終わり、背伸びをした時に、(ドンッ)と軽く突き上げる地震を感じたことを覚えています。
えっ、地震?と思うほどの瞬間たて揺れで、こんなん初めてとその時は軽くながしていました。

自然からの警告だったのかもしれませんね。

それから半日後、暗闇の中、ゴーっと鳴り響く地鳴りと、もの凄いたて揺れ、バキバキ数秒だったはずですが、横揺れまでのその間を長い時間のように覚えています。
閉じている目に映ったのは日本地図、日本が沈没するのかと思いました。

今でも新幹線に乗ると、新幹線同士がすれ違うときのドンという小さいはずの振動を身体がその時の始まりと認識し、ビクッとします。

20年、故郷は離れてもあの大変な経験をした神戸の街を人を慈しむ気持ちに変わりはありません。

亮子
(42・女性・川崎市麻生区・主婦)
2015年1月13日 21:07
父が病死しました

午後3時半頃、父が病死しました。死に目には立ち会えませんでした。
当時中学3年生だった私は、学校で虐めにあっており不登校気味で、両親や兄弟、親戚とも不仲でした。

あれから20年たちますが、未だに1995年1月16日・17日の記憶は向き合えません。家族との仲もこじれたままです。

いくら時間が経とうが、嫌なものは嫌なのです。


さなぎ
(35・女性・神戸市中央区・)
2015年1月13日 20:08
当時は大阪

当時大阪に住んでいましたが、成人式で地元岡山に帰っていました。17日の朝、大阪に戻る予定で16日は懐かしいメンバーと再会を喜んでいました。震災から数日後に海路で大阪に戻ると留守番電話テープいっぱいに16日にあっていたメンバーからのメッセージがあり、胸がいっぱいになりました。

亜由美
(40・女性・岡山市南区・主婦)
2015年1月13日 19:47
韓国旅行の出発日

会社の同期4人で二泊三日の韓国旅行へと出発した日でした。
ショッピングに焼き肉に・・と、とても楽しみにしていました。
17日は朝から買い物三昧・・と早朝より街へ出かけたとき、韓国の方に「日本で大変なことが起こっているのに買い物しているのか!」と言われ、店のテレビを見せていただいたら神戸の街が赤く染まっているのに驚愕。慌ててホテルへ戻りテレビを見たり、其々(須磨区・垂水区・東灘区・北区)の家族の安否のために電話をかけたりしました。家族の安否が確認できるのに時間がかかりましたが皆無事でホッとし、これからどうしようかと考えました。とりあえず明日の飛行機で関空へ帰国しても家へ帰れる保証はないだろうからと、防寒着や食料など空港で寝泊まりしてもいいようにという買い物をして準備しました。
18日関空から神戸へ帰る手段がなく、親戚の方を頼りに香川県までフェリーで。しばらく滞在させていただきましたが、私の高校の友人の悲しい知らせが届き急遽帰ることに。瀬戸大橋で明石までは帰れることを知り、なんとか友達の顔を拝むことが出来ました。
旅行の楽しかった記憶は全くありません。
その日以降は、三宮にあった会社を大阪に移して仕事にとりかかるため三田周りで大阪へ通う忙しい日々を送りました。
しかし、震災の当日、神戸にいなかった罪悪感がずっと心にあり、このことを口にだすことはありませんでした。
20年経ってようやく向き合えるようになった気がします。

えー
(43・女性・神戸市垂水区(当時は北区)・主婦)
2015年1月13日 17:34
主人とたわいのない話

 16日夜から17日の午前3時くらいまで、主人とたわいのない話をして起きていました。
私は、徹夜で原稿を書いていたので、目の前のインク壺がカタカタ音を立てて歩き始めたので、地震だと気づきました。
 コップひとつ割れただけだったので、そのまま原稿を書き続ける私に、主人が「こんな時に何やってんだ!」と叱られ、「この地震じゃ、原稿依頼を出した神戸の会社も潰れてるかも知れんぞ。」と、そのまま同じ尼崎市でも被害の大きかった北部へとボランティアに出かけて、3日間帰って来ませんでした。
 とにかく静かでした。まるで町中から人がいなくなったように、シーンとしていた事を憶えています。
 

安良城 誠子
(54・女性・尼崎市・主婦)
2015年1月13日 16:21
小学2年でした

小学2年でした。兵庫区のとても古い平家に住んでいました。
前日、母が普段滅多に触らない場所を念入りに掃除したのを覚えています。
翌朝にあの地震。震度7の地域でしたが幸い家族は無事、家も壊れず避難もせずに済みました。
狭い家なので母と1つの布団で寝ていましたが、咄嗟に私を覆うようにして守ってくれたのを忘れません。

まみ
(28・女性・神戸市北区・主婦)
2015年1月13日 15:36
大阪の病院で夜勤

16日は、準夜勤の為大阪の病院で仕事でした。17日の、午前0時45分まで働きタクシーで自宅に帰りました。
多分帰ったのは2時半くらい。家族が寝静まった中お風呂に入って床に付いたのが3時半くらいでしょうか。
そして最初の縦揺れで目が覚めるまでほんの数時間。タクシーで通った湾岸線は落ちていました。

スズカ母
(42・女性・神戸市北区・看護師)
2015年1月13日 15:21
久しぶりの休み

前日、須磨寺で神戸新聞主催の兵庫県かるた大会が行われ、中学生を引率して参加しました。16日は久しぶりの休みで、家でゆっくりしていました。夕方、6時半前、テレビを見ていたとき、地震がありました。でも、テレビの画面に地震速報がでなかったので、おかしいなあと思いながら、10時ごろ親子5人で居間で床につきました。

兵庫区のきよし
(59・男性・神戸市兵庫区・中学校教諭)
2015年1月13日 14:17
都銀のシステム部員

当時、東京に本店がある都市銀行のシステム部員として勤務していました。前日16日は、翌日は朝7時から大阪事務所のシステム立ち上げ確認の担当であったので、いつもより早く寝ました。5時起床、出勤直前、確か6時頃の民放で「大阪、関西方面で大きな地震があった模様」という速報が流れました。その時は気に留めず電車に乗り出勤。しかし大阪事務所のシステムは立ち上げができず、事務所とは全く電話連絡がとれませんでした。その後、大阪ではなく、神戸で大きな地震があったことがわかり、神戸市内の支店の倒壊など大きな被害状況が次第にわかってきました。当日は勘定処理方法の検討などで帰宅したのは翌日朝でした。

元都市銀行員
(49・男性・神戸市東灘区・)
2015年1月13日 13:03
家族で伊丹へ遊びに

3連休最後の日,家族で伊丹へ遊びに行っていました。
たくさん遊んだ帰り道,ふと主人の実家へ寄るかどうかという話になりました。当時は,実家へ遊びに行くと長男が「泊まっていく!おばあちゃんと寝る」ということがよくありました。
結局,実家へは寄らずに帰りました。
翌朝,外の明るさに目覚め,少しすると淡路島のほうから不気味な音が近づいてきました。
実家は全壊。家族にけがはありませんでしたが,それはいくつもの偶然・運があったから。その中の1つに「寄らずに帰った」もありました。
あの日以来音に敏感になってしまいました

pon
(49・女性・神戸市垂水区・)
2015年1月13日 12:11
スキー場で遊んだ

正月に実家に帰ったら、例年は春まで帰省しないのだが、その年に限って母親が「三連休で、とんど祭りがあるから帰って来い」と、ひつこく言うので帰省した。14日に玉津からバイパスに乗って姫路方面に向かっていると淡路島の富島上空に赤い不気味な雲を見た。15日にとんど祭りを終え16日は実家から2時間ほどのスキー場に子供を連れて行き遊んだ。実家に戻ると小学1年の兄と幼稚園の弟が二人とも熱を出したので、神戸に戻ることをあきらめ、翌17日は子供たちは学校を休ませ、自分は17日の朝に実家から出社することにして16日は家族4人、実家で3泊目をしていた。

ぼく、み~ちゃん!
(54・男性・神戸市西区・会社員)
2015年1月13日 10:40
父親とふたり

高校1年生でした。当時母親と二人で暮らしていたのですが、ちょうど母親が仕事の関係で1週間ほど家にいませんでした。別に暮らしていた父親が珍しく、ご飯を作りに来てくれ、一緒に食べるという普段ない夜でした。少し変わった家庭環境でしたが、父親とふたりで過ごすという貴重な体験でした。その時に話していたことや、やろうとしていたことが震災でできなくなってしましました。けれども、そういう話ができたことが、離れて暮らす父と、少し青年になった僕との間を詰める、素敵な時間だったように思えます。

少年h
(36・男性・神戸市東灘区・教員)
2015年1月13日 02:49
家族でしあわせの村

家族でしあわせの村に遊びに行きました。暖かい日で、グランドゴルフを楽しんだことを覚えています。
当たり前だったしあわせが一瞬で崩れたあの日から、まだしあわせの村に出かけることができていません。

あの日はまだ子ども
(30・女性・神戸市・会社員)
2015年1月13日 01:56
夕方に地震

私は当時、独身で垂水の実家に家族と住んでいました。前日の16日の夕方に地震があって、グラッと揺れたことを覚えています。まさかその地震が翌朝のあの大きな地震の前兆だとは夢にも思いませんでした。大震災当日、二段ベッドの上の段に寝ていた私。はじめは何が起こっているのかわからず寝ぼけていて、隣の部屋で寝ていた父が私の名前を呼んでいるのを聞いて地震だとわかりました。結構な時間揺れていたことを20年たった今でも覚えていて、これから先も阪神・淡路大震災のことは忘れられないです。

なおっち
(43・女性・大阪市・主婦)
2015年1月13日 01:14
大阪の南港に住んでいました

私は三宮にある短大への入学が決まっていたので、毎日アルバイト三昧でした。
その当時は大阪の南港に住んでいました。
朝弱い私が5時半頃にトイレに起きると、母親、弟も同時にトイレに起きた様子で、「あんたがトイレに起きるなんて珍しいなぁ」と三人でたわいのない会話をして、あと一時間ぐらい寝ような、と床についたときに、ドーンと突き上げるような感覚のあと、激しい横揺れがあり、すぐにテレビをつけましたが、正確な情報がなかなか入らず、嫌な横揺れの余震が何度もあり、7時前にやっと大変なことになっていることを知りました。
父親は大阪空港近くの工場で夜勤中だったため、丸一日連絡が取れずとても心配でした。
3月に卒業旅行で船で宮崎に行きましたが、船の揺れが余震の揺れに似ていて、寝られなかったのを覚えています。

みゆうきママ
(37・女性・広島県福山市・会社員)
2015年1月13日 00:17
高熱で寝込んでいました

震災当時は高校3年生でした。
家は豊中でしたが、西宮の高校に通っていて、震災前日は高熱が出て寝込んでいました…皆勤賞を狙っていたのに、明日は休まないとあかんな…と思っていました。そして、震災当日、地震の30分前くらいから目を覚まし、寝付けないな…と思っていた時に阪神淡路大震災が発生!
豊中も恐ろしいほど揺れました。本棚の下敷きにもなりました。
でも、それよりもっと恐ろしかったのは地震から2日後に西宮北口に向かった時です。普段見ていた家やホテルが倒壊…本来見えるはずのない学校が駅から見えていました。まるで戦場にでも来たかのような感覚になり、震えが止まりませんでした。20年たっても鮮明に覚えてます。

かんちゃん
(38・女性・大津市・会社員)
2015年1月12日 23:58
友達とポーアイでスケート

当時、私は神戸市の中学3年生でした。
人生初めての受験勉強に疲れて、親しい生徒会仲間らとポートアイランドのスケートリンクで気晴らしに滑ってました。
意外にスケートが上手いMくん。全くの初心者でキャーキャー叫ぶ女性たち。初心者ながら着実に上達するJくん。運動得意なはずが、フラフラ滑走で子供に抜かれ、評価を落とす私。
1995年1月16日のポートアイランドのスケートリンクは、子供も多く、みんなの笑い声が聞こえる楽しい場所でした。

TOM
(35・男性・兵庫県芦屋市・公務員)
2015年1月12日 23:48
2歳の娘が風邪でした

2歳の娘が風邪をひいいていて、かなりひどい咳。よくもどす子だったので、案の定その日も夜中何度も吐かれ、(その日の夕食は手作り餃子)ベッドの掃除をやって朝方親子でやっと眠りについたときで、かなりわたしは寝ぼけてました。下の階で主人が大丈夫かって声で目覚めました。タンスが倒れてきましたが、ベッドだったので、斜めに倒れただけで助かりました。いまはトラックが横を通っただけでも怖くて目が覚めます。

Kye
(53・女性・芦屋市・パート)
2015年1月12日 23:03
翌日の仕事を考え少し憂鬱に

前日は連休最終日で翌日の仕事に少し憂鬱になりながらも寝る準備をしていました。
いつもは大きなタンスのある部屋で寝るんですが、何故かその日は隣の部屋で子供と二人で寝ることにしました(今思っても理由は不明です)。
そして翌朝5時46分。本当に死を覚悟するほどの揺れの中、うずくまっていました。
しばらくして隣の部屋を見ると寝るはずだった場所にタンスが・・・・
そこで寝ていたら私も子供もどうなっていたかわかりません。
本当に人間って生かされてるんだなと後になって改めて思いました。

なまちゃ
(54・女性・神戸市・派遣社員)
2015年1月12日 23:01
14日に娘を出産し院中でした

1月14日に娘を出産し、まだ入院中でした。 初めての出産でしたので、小さい娘を抱っこするのも恐々で、母乳がちゃんと出てるのか、ちゃんと飲めてるのか、新米ママは不安でいっぱいでした。
その娘も、昨日成人式を迎えることができました。いろんな事があった20年。元気に迎えることができ、涙が溢れました。

ここあ
(42・女性・南あわじ市・会社員)
2015年1月12日 22:47
夜通し歩いた神戸の街

あの頃は高校3年生で卒業まで1ヶ月半、内定も決まり卒業旅行の計画を立てていました。残り少ない学生生活をどう楽しもうかといろいろ思案しながら過ごしていたのを覚えています。正月にそうやって友達と実行した一つが六甲道から須磨海岸までの日の出ウォーキング。冒険気分で夜通しかけながら三宮や出来て間もないハーバーランド、そして長田を経て須磨まで歩き続けました。深夜の静かな時間帯とはいえ同じ神戸の街でもさまざまな町並みが多彩に広がってるのを自分の目で見ることができ、あらためていい街やなと愛着が深まっていました。その後全てが一変することなど想像などできませんでした。いい日の出が拝めたのと社会人になるという期待からいい年になると思っていたのです。

中西 誠二
(38・男性・神戸市中央区・運輸業)
2015年1月12日 22:16
家で友達と遊んでました

当時は中学二年生で、家で友達と当時はやっていた格闘ゲームをして遊んでいました。
夜6時頃だったと思うのですが、横浜出身の友人が「今地震あったよな?」言っていたのを覚えています。
私を含めて他の人はまったく気づかなかったのですが、彼だけ気づいていたようです。
翌日は部活動の朝連があるので、玄関に荷物を準備してから就寝したのを覚えています。
そして翌日、あんな大きな地震が・・・・。当日は私の14歳の誕生日で、前日の夕方に祝ってもらったのを覚えています。

しらが
(33・男性・垂水区(当時)・)
2015年1月12日 22:02
弟とテレビゲーム

1月16日、震災の前日は神戸市北区の自宅で夕食後弟とテレビゲームをしておりました。午後8時ごろ地震があり神戸は震度1だったと思います。当時は和歌山や京都で地震が多く今回も和歌山が震源とおもっていました。ただ、いつもと違う下から突き上げられるような地震だったことは今も覚えています。翌日から国家試験対策の授業があり早目に就寝しました。早朝、近くでガス爆発か思うような大きな音が聞こえ、すぐ家が揺れ始めました。部屋に置いていた物全てが音を立てて倒れていく様子は20年たった今も忘れられません。

まさきょ
(46・男性・熊本県宇土市・会社員)
2015年1月12日 21:09
家族4人で夕食

1995年1月16日。連休最終日。家族4人で夕食。家のローンがもうじき終わるという話でワインを飲みながら。私がこんな時に地震が来たりして…と言い、母はそういえば大阪湾で震度1の地震があったとか、地震があったらまずどんな行動を取るかなんて確認話をしました。
普通にTVを観て、お風呂に入って、寝ました。連休明けは会社の机を拭いたりと色々用事があるので、5時半に目覚まし掛けて。
そして、5時半。目覚ましのベルを止めて布団の中で起きなきゃなと思ってたら46分。南の方からダンプカーが突っ込んでくるような音が。???と思った矢先に凄い地響きと共に下に落ちる衝撃と横揺れ。死ぬ〜と大声を出しながら布団をかぶって耐えました。
私の部屋は全ての物が倒れ、散々でした。父の大丈夫かという声に安心し、夜明けではない明るさの中とりあえず靴下を手探りで見つけ、部屋に散乱した物の上を歩き、昨晩家族で確認した事、雨戸やドアが開くかどうか、近くに家事がないかどうかを確認しました。小学校の同級生が亡くなった事を電気の付いた夜のTVニュースで知り、ショックでした。父と一緒に全壊した友人の家を見て、地震の怖さを思い知りました。

美紀子
(45・女性・神戸市東灘区・会社員)
2015年1月12日 20:45
実家にいました

2月22日が予定日の大きなおなかで主人と一緒に私の実家にいました。小さな地震があり、めずらしいね。なんて私の両親と話したのを覚えています。実家の一階の大きな四枚窓からみた夕焼けと、筋のような雲も忘れられません。次の日にあんなことが起こるなんて思いもしませんでした。中学の同級生や、会社の元同僚夫婦もなくなりました。奥さんのお腹の中の小さな命もいっしょに。
私のおなかの中にいた長女は今年20歳になります。

ころん
(44・女性・神戸市西区・主婦)
2015年1月12日 20:28
祖母の命日の前日

当時私は18歳でした。その日は祖母の命日の前日でもありました。今までは必ず当日に法事を行っていましたが都合により1日早く法事を済ませる事になりました。後々になって偶然とは言え震災の日を避ける形になった事に父はずっと不思議な気持ちでいたようです。法事が終わり私は夕方からバイトに行き、終わってから少し食事に出て遅めの電車に乗りました。もうすぐ家に着く手前で和歌山で暮らしているはずの従姉妹のお姉ちゃんが公衆電話の所に立っていてびっくりしたのを覚えてます。どうやら彼とケンカして家を飛び出し神戸の私達の所まで来たらしく電話が繋がらないのでずっと外で待っていたそう…あの日も寒かった。二人で帰宅し深夜のテレビを見ながら午前4時頃に就寝。震災は深い眠りに入った直後に来ました。1日早めた法事、突然の従姉妹との再会、偶然が二つ重なった震災前日、今でもはっきり覚えています

湯浅 麻衣子
(38歳・女性・神戸市中央区・飲食業)
2015年1月12日 20:23
東京生活

東京生活3年目、正月神戸帰省の後、後片付けしてた。
もう20年経ったんだ。17日は神戸に入る予定。

TM
(50・男性・松戸市・会社員)
2015年1月12日 20:22
車窓から見た三宮

地元で成人式を迎えた翌日でした。当時大阪の大学に通っていた私は某新聞奨学生として学校近くの販売店に住み込みで働いていました。1日休みをもらい家族とひと時を過ごし翌日の配達に備え夜大阪に帰ったのですが、地震のおよそ7時間前、電車の車窓から見える三宮などの夜景が未だに頭に焼き付いています…

ともさん
(40・男性・明石市・会社員)
2015年1月12日 19:05
夕焼けとは違う変な空

当時は灘区に住んでいました。
晩ご飯は天婦羅をしようと準備をし、炬燵でひと休みしながら 何気に外を見たら 夕焼けとは違う変な赤さのある空の色が気味が悪かった事が印象深く残っています。
激震過ぎて 地震とは思わず、まるで怪獣にマンションを揺らされてるのかと本当に思った程のあの瞬間をむかえるまでは、いつも通りの時間が流れていました。

ちーこ
(55・女性・神戸市垂水区・主婦(派遣社員))
2015年1月12日 18:56
10才の誕生日

1995年1月16日、地震の前日は私の10才の誕生日でした。
当時、古いアパートの1階に家族四人で暮らしていて、普段、仕事で夜勤の多かった父もあの日は家に居て、滅多に揃わない家族が四人揃って、ケーキもあってお祝いしてもらいました。
明日からまた普通に学校だなーと思っていたのに、あんなに怖い朝が来るなんて思っても居ませんでした。

ircle♪
(29・女性・三木市・フリーター)
2015年1月12日 18:40
京都にいました

私は、離婚した父の家(京都)にいました。
当時は小学五年生でした。
次の日、家(神戸のちょっと向こう)に帰る為に早く起きて支度をしていたら揺れ始め…。
父が私におぶさり、母は5歳の弟を必死に抱いていました。
揺れ続ける中、キッチンの棚からコップが、くるくると回転しながら流しに割れることなく落下したのを見ていました。
テレビでは関西でなにかあった?みたいなニュースが流れる中、とにかく学校があるからと父宅を出ましたが、高速が閉まっていました。
京都は比較的ゆれたものの被害は少なく、まさか高速が落ちたりしているとは思いませんでした。
帰れないと悟り父宅に戻ったところ、父が煙を上げる三宮の街を映したニュースをみていました。

ひどいことになってるぞ。

忘れられません。
それから一週間、帰るのは無理だと京都にいましたが、さすがに帰らないと…と、地道を通って帰りました。
前も後ろも支援物資を積んだトラックでした。

かおねこ
(31・女性・高知県安芸市・主婦)
2015年1月12日 18:39
下宿先の京都市

15日の成人式を明石市で終え、16日は下宿先の京都市に戻ってテスト勉強を再開。しかし、徹夜の勉強は全く捗らず。
17日朝5時過ぎ、仮眠のためコタツで寝転び、「そのとき」を迎える。

それから20年。新たな震災の被災地で働く日々。「希望の灯り」の分灯が、きょうも光っている。

かわせぶん。
(39・男性・福島県南相馬市・)
2015年1月12日 18:30
祖父宅ですきやき

小学6年生でした。
その日は、祖父の家に家族で遊びに行っていました。
夕食はスキヤキ鍋だったと記憶しています。
準備が整い全員が席に着いたその時、ガタガタとガラスの戸棚が音をたてました。
「ちょっと揺れとぉ?」
母がそうつぶやいたのを聞いて、祖父がテレビのチャンネルを変えました。
直ぐには情報は出ず、そのまま食事が始まりました。
しばらくたって地震速報が流れました。
私がいた地域は、震度1か2だったと思います。
「あぁ、やっぱ地震やったね。この辺りでは珍しいなぁ」
「瀬戸内では、昔から地震はないって言われとる」
そんな話をしながら食卓を囲んでいたと記憶しています。

みき
(32・女性・明石市(当時)・)
2015年1月12日 17:45
中学3年生

当時は中学3年生。伊丹市の実家に住んでいました。震災の前日は風邪をひいてしまい、ラジオを聴きながら1日寝込んでいたことを覚えています。明日から学校やけど、風邪治りそうやな。タイミング悪いな...なんてことを考えていたような。なんてことない、ちょっとついてない休日でした。

かけさん
(35・男性・札幌市・会社員)
2015年1月12日 17:36
1月14日に娘を出産

1月14日に娘を出産し、まだ入院中でした。 初めての出産でしたので、小さい娘を抱っこするのも恐々で、母乳がちゃんと出てるのか、ちゃんと飲めてるのか、新米ママは不安でいっぱいでした。
その娘も、昨日成人式を迎えることができました。いろんな事があった20年。元気に迎えることができ、涙が溢れました。

ここあ
(42・女性・南あわじ市・会社員)
2015年1月12日 17:28
ハチ北でスキー

私はその震災前の連休にハチ北へスキーに行っていました。雪が多すぎてなかなか辿りつけなかったし、ハチ北で停電にもあいました。。。帰宅して疲れてそのまま寝てしまい、朝起きて出勤前にお風呂に入ろうと、お風呂を沸かしていたのですが、眠くてもう少し寝ようと二度寝していた矢先、地震が起きました。何が起きているのかわからなかったくらいの大きな揺れで自宅は全壊判定、父はタンスの下敷きになりました(が助かりました!)揺れは本当に大きくて、これは現実なのか?一体何がどうなるのか?お風呂に入っていなくて本当に良かったと家族に言われましたし、自分でも思いました。

tk
(44・女性・神戸市東灘区(当時も)・主婦)
2015年1月12日 17:14
南京町からのテレビ中継

テレビを見ていたら神戸の南京町からの中継をやっていました。いつもはテレビ番組の内容はあまり気にしないのですが、なぜか南京町のシーンだけ印象に残っていました。
その翌日にあの震災がおきるとは…。

あいあい
(34・男性・愛知県・公務員)
2015年1月12日 17:03
電線に凄い数のスズメ

震災前日の夕方、母と近所のスーパーへ買い物に行った帰り、凄い数のスズメが電線にとまっているのを見ました。
「たくさんいるね」「そうね。何か会議をしてるのかもしれないよ。何かあるのかなぁ?」
という会話をしたことを今でもはっきりと覚えています。

ゆか
(26・女性・神戸市・販売)
2015年1月12日 15:27
私の27歳の誕生日

地震の前日、それは私の27歳の誕生日でした。
11月30日に2人目の息子を出産するために長田の実家にもどっていました。
前日の日曜日に、本当は家に戻る予定でしたが、2人の子供達が耳鼻科に通院中ということもあり、予定を一週間のばすことにしていたのです。
出産のために構ってやれなかった2歳の娘と手をつなぎ、『夕焼けがキレイやねー』と言いながら、散歩をしました。家に戻り、ニュースを見ていると、大阪湾あたりが震源地だったか小さな地震があったことを知りました。そのニュースを見ながら、転勤で関東に越した兄の家族のことが心配になり、祖父と『いつか来るっていう関東の大地震が心配やなぁ、神戸は地震が少ないからええとこやけど、向こうは地震が多いから怖いなぁ』と話をしました。
いつもより大きなバースデーケーキで、家族がみんなで私の誕生日を祝ってくれました。食べきれずに『明日もケーキを食べれるで』と冷蔵庫に入れました。人生で一番しあわせな誕生日でした。
翌日の朝、あの地震。
夕方、実家は全焼してしまいました。

毎年誕生日に、娘と手をつないで夕焼けの空を見上げた風景を思い出します。
そして、あの時産まれた息子は今日、成人式。
震災からの20年は息子の成長の20年でもあります。

nao
(46・女性・長田区・)
2015年1月12日 14:18
「明日、バイトやな」

16日はバイトが休みで家でのんびりしていました。明日は、バイトやなと思いながら寝ました。
いつもは部屋のこたつに入ってテレビを見ながら寝てしまうのに、なぜかあの夜はテレビを消してベッドで寝ました。
明け方、トイレに起きた時に外が明るく感じたのを覚えてます。
冬なのに、なんで明るいんやろと不思議に思いながらベッドに入りました。
少しして、ゴォーと… なんだろうと起きたら音が止まり、また寝ようと布団をかぶった瞬間、横揺れがきて、すぐに縦揺れが…
振り落とされぬよう、布団にしがみついていたのを覚えています。
揺れがおさまり、こたつのとこを見たら、私が頭を置く場所にテレビが飛んでました。ゾッとした瞬間でした…

20年、あの揺れは今も恐ろしいです。

あーちゃん
(42・女性・神戸市東灘区・契約社員)
2015年1月12日 14:09
フルーツフラワーパークでスケート

前日は友人たちと一緒に神戸市北区のフルーツフラワーパークでスケートを楽しんでいました。夜遅くまで楽しく過ごし、帰宅して眠りについたのが深夜2時半頃。
慣れないスケートで疲れていたにもかかわらず、不思議なことに地震発生の2分前に目が覚めました。
「寒い!」と思って布団を頭から被り直した途端、下から突き上げるような強烈な揺れが始まり、傍に置いていたテレビが顔の上に落ちてきました。布団を被っていなかったらどんな怪我になっていたか、今考えてもぞっとします。

家族の無事を確認し、ぐちゃぐちゃにひっくり返った家の片づけが終わった頃に電気が復活しました。テレビの画面に広がる各地の惨状を見た途端、自転車に飛び乗って友人たちの安否確認に走りだしていました。長田・兵庫へと向かう途中に見た、煙と炎で紫色に染まった神戸の空の光景は一生忘れることは出来ないと思います。

福永 起実彦
(44・男性・神戸市中央区・団体職員)
2015年1月12日 13:17
大学の製図課題

大学2年生の私は建築学科の製図の課題「木造2階建て住宅」の提出期限が迫っていたため午前2じくらいまで自宅の製図板に向かって課題の仕上げを行っていました。まさか、その数時間ののちに、その課題のテーマと同じ構造規模の建物の無残な姿を見ることになろうとは夢にも思っていませんでした。

翌日のあの衝撃的な揺れで自宅マンションは半壊したものの人的被害はありませんでした。大学に通い始めるようになってからしばらくは、近所でも倒壊したたくさんの木造住宅のことが脳裏から離れず、このまま建築を専攻し続けても良いものかどうか随分と思い悩んだことを記憶しています。

K/T
(41・男性・神戸市灘区・建築関係)
2015年1月12日 11:46
「ジュラシック・パーク」を鑑賞

当時は、中学1年生だった私。
まだ正月気分が抜けない3連休の最終日のことは、よく覚えています。

母と当時3歳だった弟が、祖父と荒神さんに行くと張り切りますが、なんだか体が怠く留守番に。
ずっと眠かったですが、ふと窓の外を見るとみぞれが降っており、夕方には紫にも近いような、異様な夕焼けになったことが記憶に焼きついています。

夜は家族で、ジュラシックパークを鑑賞。その途中、小さな地震があり、「ほんまに怪獣が来たんかと思ったね!」
と家族で笑い合いました。

それが、最後の穏やかな家族団欒だったなんて。
その8時間後には、三宮の自宅は全壊しました。

かわたまい
(33・女性・神戸市・WEBデザイナー、ライター)
2015年1月12日 11:28
夜空の色が変化

前日の印象で特に覚えているのは、一方向の夜空の色が変化してた事です。
時間は22時頃でしたので当然陽も落ちている時間帯なのに、最初は夕焼けを少し赤くした感じで…たまたま近くにいた近所の人と、あの辺って何か施設とかあったっけとかの話しをしていました。そうこうしているうちに今度は青ぽくなって!不思議な感じの夜でした。
そして次の日に地震でしたから、前日の事はよく覚えています。

まー
(49・男性・広島市・会社員)
2015年1月12日 09:31
インフルエンザ

中学一年生でした。
前日は、本当は家族で香川に旅行の予定でしたが私のみインフルエンザにかかってしまい家で寝てました。熱が38℃もあり苦しかったです。
両親と妹たちは、夜には帰ってきました。帰ってきてなかったらと思うと怖いですね。

宮脇弘載
(33・男性・神戸市灘区・自営業)
2015年1月12日 08:56
小さな地震

地震当時は明石市西部の実家に住んでいた私には、1/16の記憶といえば夕方からガタッと持ち上がるような小さめ地震があったことくらい。
こんな地震珍しいねーと話したことは覚えています。
前日の1/15に、母と弟と3人でフルーツフラワーパークでアイススケートしていて、1/16は筋肉痛でくたびれてたんです。
実家の辺りは幸い大きな被害もありませんでしたが、東への交通は遮断されました。当時は京都まで通勤していました。たまたま朝8時前に職場に電話したら早く出てくれていた後輩と繋がって、無事と行けないことを連絡。2日後に西明石以西のJRが復旧したので、姫路〜和田山経由で京都に向かいました。ホテルに2泊して一度戻ると言うのを数回繰り返し、神戸まで開通してからは代替バスを使って通勤していました。
初めて神戸までの電車に乗った時。窓から見える焼け野原の長田に車内は静まり返り、すすり泣く音が響いていました。すっかりビルが建ち並んだ今でも、長田あたりを通ると、あの日の光景を思い出します。

つきん
(45・女性・大阪市・)
2015年1月12日 06:24
スキーの板をメンテナンス

神戸市長田区丸山の自宅で家族3人(妻、1才半の子供)穏やかな休日を過ごしていました。翌週の1泊2日のスキー旅行を楽しみにスキーの板をメンテナンスして寝た記憶があります。

Matsumoco
(49・男性・神戸市北区・会社員)
2015年1月12日 02:09
東京に戻った直後

この年の正月は熊本の実家で過ごし、小学時代のタイムカプセルを開けて成人を祝ってから東京に戻った直後くらいの記憶です。
私は東海道新幹線が熊本への足ですから、大変ショックだった覚えがあります。
だって、数日遅れたら私も直接ではないにしろ足を無くしてしまったかもしれないからです。
玄海灘沖も実は同じ状況でした。
非常にタイミング的に守られているな、と感じて生きてきましたが東日本大震災は揺れと混乱に遭遇し、同僚やテレビに出ていた人達が阪神淡路を思い出して震えている姿に胸が痛みました。
今、住んでいる場所は一度も揺れは無いものの活断層を数メートルに望む台地です。
活断層が動かない保障は全く無い。
そう感じる度に阪神淡路が頭をよぎります。
その時私は何をしているのか。
当時より博識になってきた今なら揺れた瞬間に動けるのか?とつねに自問自答します。
しかし、我々は地球によっていかされている事だけは忘れないようにしないと、イエスとは言えないのだと思います。


(39・女性・東京都日野市・)
2015年1月12日 02:01
友人と飲みました

友人と飲んでいて、普段なら酔っているはずが、
全然酔わず、帰宅してからさらに飲んでいました。
FMラジオを聴きながら2時くらいに就寝したと思います。

5時半に目が覚めましたが外は真っ暗。
その後も眠たくありません。
むしろすっきりとした良い目覚めでした。
寒かったので布団に包まっていたところ、遠くから大型ダンプが何十台も走っているかのような「ゴー」っという音とかすかな地響きを感じ、こんな時間になんで走ってるのか不思議に思ていると、だんだん音と地響きが大きくなり、突然下から突き上げられ、その後は布団の中で、ただひたすら揺れが収まるのを待ってました。
一体何が起きたのかもわからなかったのですが、すぐに台所のガス栓を確認したことと、地震直後はテレビをつけても、あれだけの揺れにも関わらず、地震についてあまり放送されていなかったことを覚えています。

3.11を関東で経験しましたが、緊急地震速報が流れ、何もすることができませんでしたが、身構えることはできました。
20年前に緊急地震速報が普及していれば被害は軽減していたかもしれない・・・と1.17を迎えるたびに思います。


(39・男性・兵庫県神埼郡・会社員)
2015年1月12日 01:55
「体育のマラソン嫌やなぁ」と就寝

当時高校1年生で長田区の南に住んでいました」。
16日の18時半ごろに地震があったものの、テレビでは確か近い時間にあった伊豆の神津島の地震の速報が出てたと思います。夕食中、父が冗談交じりに「大きいのが来るかもな~」と言ったのを覚えています。その後友人と菊水湯に行き、神戸で地震なんて珍しいなぁと話しました。
帰宅し、「体育のマラソン嫌やなぁ」と思いながら明日の用意をして就寝した何気ない夜でした。


山形 洋一
(36・男性・高砂市・)
2015年1月12日 00:37
日頃厳しい父がご機嫌

当時は小学校6年生。冬休み最終日でした。
お昼間はどこに行ったか覚えていないけど、夕飯は家族4人で十二間道路沿いにある中華に行って、帰り道に岡本のハーゲンダッツに寄りました。
日頃厳しい父もご機嫌で本当に楽しい家族団らんの1日でした。
その時の家族みんなの笑顔は20年経った今も忘れられません。
幸せだったんです。本当に。
震災以来、家族で夜にアイスを買いに行くのがしばらく怖かったです。
中華料理屋さんもあれ以来行けていません。
今度帰省した時には行ってみようかと思っています。

ファミちゃん
(31・女性・当時は東灘区・主婦)
2015年1月12日 00:17
義父の四十九日

12月1日に亡くなった義父の四十九日でした。親戚に集まって頂いて法要をしました。神戸市北区の家の日陰の所に雪が残っていたように思いますが、記憶があやふやです。次の日の早朝、地鳴りとともに突き上げられ、横に揺さぶられました。仏壇は倒れ、花瓶に活けていた花の水で座敷の畳はびしょ濡れでした。御供えに頂いたお饅頭やカステラに助けられました。

美華
(54・女性・芦屋・主婦)
2015年1月11日 23:30
成人式

震災の数日前、成人式を終え、着物をかもいにかけていました。その前の年の成人式前日に親友が彼氏の運転する車で事故に遭い他界しました。来年は成人式だねと会話していたのを思い出します。
震災を境に、運命が変わったのかは判らないけれど、違った生活があったんやろなーと、ふと思う時があります。
今は、近くに当時の友人が居ないので神戸に帰るのが楽しみです。
震災の後も日本各地で大きな災害が続きニュースを観るたび神戸の震災とリンクし、悲しみがつきません。
周りで亡くなられた方も居るので、生涯忘れられない日となっています。

yu-m
(40・女性・当時神戸市東灘区、現在他府県・主婦)
2015年1月11日 23:21
神戸のホテルマン3年生でした

神戸のホテルマン3年生でした。いつもと同じように17時30分までの勤務を終え、引き継ぎをして帰りました。忙しかったお正月勤務も過ぎて、一番ゆったりしてたように思います。本当に本当に何もない日常の1日でした。誰もがまさか翌朝の悲劇を予想もしてなかったと思います。地震の起こった直後一番に思ったのは夜勤の仲間のことでした。どんなに大変だったろう。今でも思います。

たまちゃん
(45・女性・姫路市・NPO理事)
2015年1月11日 22:53
夜に地震

垂水の自宅で、こたつに入って、テレビを見ていたら、夜、珍しく大きな地震があり、急いで石油ストーブを止めました。
母が、動く気配なく、のんびりしてたことに腹を立て、怒った記憶がありますが、母は、あまり、気にも止めず。
関西で地震はない!
地震が恐いという認識が全くない家族でした。

けい
(43・女性・神戸市垂水区・介護士)
2015年1月11日 22:23
メリケンパークを散策

当時付き合っていた妻と、大丸で買物を終えたあとメリケンパークを散策しました。時雨れた後の夜空がいやにクリアだったことを記憶しています。その何時間後にこの波止場が崩れ、後にメモリアルパークになるとは誰が想像できたでしょうか。結婚を経て、産まれた長女がこの春、高校生になります。震災をあたかも歴史のひとコマと捉える彼女に、この愛すべき神戸の出来事をことある度に話しています。亡くなった多くの方へのせめてもの弔いと思いつつ…。

Reo
(47・男性・神戸市西区・会社員)
2015年1月11日 21:35
父の誕生日

前日の夜、小さい地震が起きました。その日は父の誕生日で家族でお祝いをしていたと思います。
地震なんて珍しいなと思い、テレビのニュースを観ながら姉に「何かだんだん南に来てない?次はこっち来るんちゃう?」と何の気なしに話したことを覚えています。
たしか数ヶ月〜数日前から変則的に日本各地で地震が起こっていて、震源地が南におりてきているように感じたからです。
でも、まさか翌日にあのような震災を体験するとは思いもしませんでした。

さみ
(34歳・女性・神戸市・)
2015年1月11日 21:01
家族でハーバーランドへ

当時、私は小学校3年生でした。
震災前日はハーバーランドへ家族4人で出掛けており、とても楽しかった事を覚えています。
そして、家へ帰りしばらくしてたら確か震度1の地震がありました。
その時は「あっ、地震だ」程度でしか感じませんでした。
その後数時間後にあの巨大地震が起こるなんて・・・
前日、家族みんなであんな楽しんだ場所は爆撃を受けた様にメチャクチャになり、地震が夢であって欲しいというよりは街の崩壊が強烈すぎて、前日の楽しかった光景の方が夢だったのか?と思ったのを覚えています。
前日は街中にとても幸せそうにニコニコした人達が沢山歩いていたのに・・・

今になって感じる事は地震前日までは、当たり前の様に来ると思っていた明日の幸せは、当たり前には訪れてこない、突然絶たれるものだと地震から教えてもらった。
そして3年生であの体験をしてから、電車の高架下など地鳴りに似た音を聞くと体が反応するようになりました。

裕二
(29・男性・神戸市北区・)
2015年1月11日 19:28
5歳でした

はっきりと覚えてはいませんが
当時、私は大阪に住んでいて5才でした。
家族5人で川の字で寝ていて
大きな揺れの後、目を覚ますと父が私達の上で物が落ちてこないように多いかぶさっていたのを覚えています。
次に目を覚ますと母が芦屋に住んでいる祖母と祖父の元に水と食料をいっぱい持っていたのを微かに覚えています。

ハイ
(25・男性・西宮市・会社員)
2015年1月11日 19:24
もう一日休みたいなあ…と

三連休の最終日、夕食の片づけをした後で次の日の仕事の準備をしてました。
もう一日休みたいなあ…と不謹慎なことを考えてました。それは次の日も、また同じ日常が始まると信じていたからです。数時間後に起こることなど想像もできませんでした。

ミサゴン
(60・女性・三田市・)
2015年1月11日 19:13
お好み焼きパーティー

高校時代の友達三人と神戸市西区の友達の新居でお好み焼きパーティーをしていました。当時23歳でした。昼過ぎに一度小さな地震があり、神戸では珍しいな、と話したことを覚えています。そのうちの一人は12年前に事故で他界しました。忘れられないお好み焼きです。

ちゃま
(43・女性・神戸市須磨区・会社員)
2015年1月11日 17:56
鹿児島から帰宅

わたしは、鹿児島県から、お父さん、おじさんと帰ってくる新幹線にのってました。
いまとはちがい、乗り継ぎなどあり、1日仕事でした、帰ってきて風呂にはいったりして、お母さんに話をして寝付いた頃に、地震がありました。叔父は、大阪なので1日おくらしてたら、帰れなかったことをいまでもおぼえています。

美保子
(41・女性・姫路市・販売)
2015年1月11日 16:49
仕事先、社宅ともJR六甲道近く

仕事先、社宅ともJR六甲道の近くでした。前日は夕方頃から頭痛だったか体調が思わしくなく早退させてもらいました。寒かったので風邪をひいたと思いました。
2号線沿いのマンションに住んでいましたが揺れる前後くらいにゴーという音は聞いたように思います。それからベッドの横に置いていたタンスがスローモーションのように倒れてきたのははっきり覚えており左側頭部を打撲しました。当時は一人暮らしでしたのでとても不安でした。2号線側の窓を開けると薄ら明かりの中、道路が隆起していたり遠方の空が赤く染まっていたり少しガスの匂いもあったのですが明るくなるまで布団にもぐりこみじっとしていました。
街にでると何もかも変わっていました。公衆電話に人が並んでおりすぐ会社に連絡がつき無事を知らせることができました。

ゆう
(53歳・女性・福岡県・福祉サービス)
2015年1月11日 16:12
静かな夜

私は東京都に住んでいます。
1月16日は、本当に静かな夜で、
今日が終われば明日は仕事だなぁと
仕事の準備をして、寝た記憶があります。

こっこ
(48・女性・東京都八王子市・)
2015年1月11日 15:59
風邪で調子が悪く

東灘区の自宅マンションでその日提出の仕事の資料を作ってました。そんな時間にやってたのは風邪を引いていて調子が悪くて中々取りかからなかったツケですね。そんな調子だったので16日の日中は寝ていたかなと。正確な所は覚えてません。
なんとか出来たので少し寝ようとベッドに上がった所で少し揺れがあった後に灯りが停電で消えて本震が来ました。本棚は全て転倒。正月に兄が姪とその部屋で寝ていたので、あれはぞっとした。あと母は高い所に置いていた碁盤が空中を飛んで行ったのを見たと言っていたっけ。そういうものは寝床に直撃するような場所には一切置かなくなった。

さとー
(45・男性・神戸市東灘区・会社員)
2015年1月11日 15:42
耳鳴りのような音

決して忘れる事のない一日です
主人の兄妹と石切神社へおまいりして新大阪の妹宅で楽しく会食して帰宅しました。
主人はお酒を飲んでいたこともあり機嫌よく休みました
私は姪と深夜まで長電話をしてましたが、その間ズッと耳鳴りのような音がジーーーーーンとしていて、なにか変だと思い姪に聞いても福岡ではなってないとの事でした。翌日も予定があるので音を気にしながら休みました これからも同じ日常が続くと信じてた数時間後にはつらいしんどい日々の始まりになりました

あずき
(68・女性・垂水区 当時灘区・無職)
2015年1月11日 14:59
オレンジ色の月

連休だったので奈良の実家に帰ってゆっくりした後、夜遅くに阪神高速神戸線を利用して神戸市長田区の自宅に戻りました。
まさか、その数時間後には高速道路があのような姿になるとは、想像すらできませんでした。
帰り際、珍しく母が「遅いので、今夜もう1泊して明日帰ったら?」と言ってくれたのですが、翌日(17日)は、生後6ヶ月の息子の6ヶ月健診を予約していたので、帰宅しました。
空には、大きくてオレンジ色の月が出ていたのを、なんとなく覚えています。
明け方、夜泣きをする息子を触ると熱があったので、健診を受ける病院で一緒に診てもらおうと思って、うつらうつらしていたら、突然大きな揺れに襲われました。

母は、前日なぜ無理りにでも引き止めなかったのかと、私達と連絡がとれる迄ずっと後悔していたそうです。

そして、その息子は、明日成人式を迎えます。

ゆうちゃん
(49・女性・豊中市・会社員)
2015年1月11日 13:53
夜、アイロンをかけている時に揺れ

三連休最終日。1月15日は職場の先輩の結婚式。二次会に呼ばれていた。本当は実家のある、広島に帰省するつもりだった。しかし二次会に呼ばれたので、帰省しなかった。
16 日は、予定のない休み。
夜、アイロンをかけている時に揺れを感じた。
あまり大きな揺れではなかったので、大して気にせず寝たと思う。

ケコ
(44・女性・須磨・)
2015年1月11日 11:47
知人の結婚式

当日午前中松蔭女子大学のチャペルで知人の結婚式に出席し、午後からホテルオークラ神戸での披露宴にゆきました。なごやかな良い結婚式でした。結婚した2人はホテルに宿泊して、17日に新婚旅行に出発する予定でした。

じんちゃん
(73・男性・神戸市東灘区・会社役員)
2015年1月11日 09:55
近所の湊山温泉へ

小学校5年生の私。祖母の家で家族ゆっくり過ごし、近所にあった湊山温泉へ行きしました。私と妹はいつも通り父のお迎えで家に帰りお布団で家族4人川の字で寝ていました。いつもは自分の部屋の2段ベッドで妹と寝てたのに珍しく両親と一緒に布団で寝ていました。今考えていたら家族一緒に寝てて正解でした。

メリッサのママ
(31・女性・イタリア・主婦)
2015年1月10日 19:57
新神戸OPA

その日は、彼女(今の奥さん)と新神戸OPAにコートを買うために行き(1着購入)、その後三宮を夕方まで再度コートを探しに歩き廻っていました。結局三宮では見つからず地元(板宿)で見つけ取り置きしてもらい後日に取りに来ることを伝えました(行きつけのお店)。
夜に私の家に行き、父親に「来年に結婚する」ことを報告しました。その後親兄弟甥姪の大グループで食事をしました。
楽しい日を過ごしました。その日の小さな地震には気がつきませんでした。
しかし翌日の大地震以降OPAで購入したコートを春まで着ました。(震災ルックと暫くいわれました)地元での取り置きコートを地震関係が落ち着いた1ヶ月後に取りに行きましたが見事に売られていました。それ以来そのお店とは絶縁しました。
地震が1日早かったらOPAか三宮で被災していたでしょう(考えると恐ろしいです)
自分の歴史が大きく変わっていたかもしれません

吉田の友人
(46・男性・当時長田区・今垂水区 ・会社員)
2015年1月10日 17:45
番犬とお別れ

震災当時、私は、高校1年生でした。
前日の朝に飼っていた番犬が老衰で亡くなり、家族全員でお別れをした後、父が庭に埋葬しました。
家族は、その日一日、犬の思い出話をしたりして過ごしました。

翌朝の明け方ごろ、近所の犬が何匹も遠吠えをはじめて、目が覚めました。
あれっ、チロが泣いてるのかなと思いましたが、いや違う、もう亡くなったんだと思い、もう一度眠りました。
その数十分後に、ゴーーという響く音同時に下から跳ね上げられて、飛び起きました。
一瞬、チロが生きかえったのかと思いましたが、今まで、体験した地震とは、違う長く激しい揺れに事の非常さを理解しました。
幸い、家の被害はありませんでしたが、電気がつかなくなり、ろうそくを灯して、家族で集まりました。
7時ごろにテレビが見れるようになり、神戸の変わり果てた姿が映し出された時には、どうすることも出来ませんでした。

うさはな
(37歳・女性・三木市・主婦)
2015年1月10日 17:10
日付が変わってから帰宅

当日は、仕事の為に「震災日」に日にちが変わってからの帰宅。久々に帰ってきた長男と一杯飲んで爆睡いたしておりました。震災時は何事が起ったのか分らず、休暇をとっていましたので、仕事のある長男やかみさんには「職場の様子を見て来い」と指示し、夜明けを待って、会社と連絡が取れず、我が家の損傷状態や、近隣の被害状況、会社とはインフラの確認などで過ごしました。戦災などの被害状況は記憶にありますが、それに匹敵する惨状に言葉はありませんでした。

寄栖庵
(75歳・男性・神戸市須磨区・現在年金生活者)
2015年1月10日 17:08
手帳の16日の欄は空白

まったく覚えていません。手帳も前後は予定が書かれているのに16日は空白でした。まさか翌朝慌てて東京を発ち夜11時に神戸に辿り着いているとは思いもしませんでした。

てるてる
(51・女性・東京都港区・自営)
2015年1月10日 16:54
山もりのカニの殻

16日は久々に休みだった三連休の最終日でした。
当時は夫婦二人とも、休日も少なく夜遅くまで働くITエンジニアでしたので、本当に久しぶりにどちらも三連休という画期的な!休日でした。
いつものように、一週間分の買い物に午後からでかけて、たまたま売っていた冷凍のカニを見つけて、ひさしぶりにカニ鍋でもしようか~、ということで、あの晩はカニ鍋をしました。お鍋にいれた葛きりが、カニ殻にへばりついて「この組み合わせは失敗やね、食べにくいね~」と笑ったこと、なぜかよく覚えています。

大きな土鍋、山もりのカニの殻、湯気のむこうの相方・・

もう、20年ですね
相方も今はなく、住まいも仕事も大きく変わり、ほのぼのとする光景だけが思い出されます。

まうのママ
(53・女性・神戸市・自営)
2015年1月10日 16:22
暖かい日でした

もう、20年も前なんですよね~あの日の前日は、異常に暖かくて一緒にいた(+。+)友達となんか変な暖かさだよね~地震でも来るんじゃない~なんて/(^o^)\話していました。
少年野球のコーチをしていて、疲れが溜まっていたのか、ぐっすり眠る事が出来ましたが、あの時間に、ベットから跳ね飛ばされて気が付くと、タンスは倒れ金魚バチは落っこちていて大変な状況に「なんじゃこりゃ~」でした。電気は消えていても、解りました。しかし、衝撃で目が覚めたので再度ベッドを直して眠りに就きました。

おさむさん
(63・男性・神戸市北区・無職)
2015年1月10日 14:16
両親が一戸建てを購入

はっきり覚えてます。地震の前の日は、それまでマンションだったのが両親が一戸建てを購入したので、姫路までキッチンとバス、トイレを見にメーカーに行きました。
その後、家に帰ってしばらくしてから親友から電話があり、久しぶりに会わないかと言われたのですが、何故か断ってます。
あの日を境にして、いつになったらマンションの買い手が決まり、忙しい日々でした。
今は、両親2人で住んでいる家も20年を迎えるのだなあ、と改めて思います。

和音
(42・女性・明石市・主婦)
2015年1月10日 13:53
神戸海洋気象台で夜勤

交替制勤務のため、1995年1月16日は、今は移転し名称も変わってしまった神戸海洋気象台で夜勤でした。
当然、普段通りの業務をしていました。翌日の5時46分までは・・・。

スマイルジャック
(58・男性・奈良県生駒市・公務員)
2015年1月10日 13:29
(日記より)

1995年1月16日(月)晴れ 3連休もあっという間に過ぎた。流行性感冒注意の中風邪気味で鬱陶しい。息子がスキーに行くと言うので須磨駅まで送って行く。後は、のんびりテレビ観戦、飲んで食べてばかりおったので体重が増えつつあるので要注意。身体の事会社の事気がかりの事もあるがなるようになると割り切る。夕方息子の部屋の本が乱雑すぎるので片づけてやる。(日記より)

江本 純雄
(78歳・男性・神戸市須磨区・無)
2015年1月10日 12:41
黒田庄町のロッジ

1月15日から同僚達と、黒田庄町のロッジに宿泊していました。
楽しく過ごした後に、「じゃあ、また明日職場でね。」と16日に別れましたが、それから震災が起こり出勤できなくなり、1週間後にようやく再会を果たせました。
震災後の初出勤は、倒壊した町を平衡感覚がおかしくなりながら、明石から西宮まで片道6時間がかりでした。

ぞん
(47・女性・明石市・検査技師)
2015年1月10日 10:15
長男の新婚旅行

今もその日は忘れません。その前日、つまり3連休の初日は、長男の結構式でした。いろんな煩雑なことがありましたが、16日に関空からの二人の新婚旅行を見送りにいき、いくつかの雑事をせいりし、ホッとした一日でした。そして新婚家庭の幸せを祈りつつ、親としての大事な役割を果たせたことの喜びを思いつつ、何事もなくその夜一杯飲んでいつものように床に就いたのです。翌朝あの大惨事が発生するなどつゆ知らず。これが私の前日のことです。人生って分からないものですね。

入山 明
(77・男性・明石市・なし)
2015年1月10日 09:12
休日出勤

いつもと変わらない1日。
だけど、すごく寒くて前の日は雪がちらついていた。
休日出勤をしていて、なんとなく寒いことをいつもより強く感じていた。

うちから観えるのは阪神高速とそのオレンジの電気、芦屋の方の夜景。

いつものように冬空は澄んだ濃紺でそれぞれの明かりはきれいだった。
明日からまた仕事、頑張ろう。
と眠りについた。

有永希美
(41・女性・東京・デザイナー)
2015年1月10日 09:03
母親と愛犬の散歩

いつもと変わらない一日。

その日の夕方、いつものように母親と愛犬の散歩へ行きました。
曇りやったのに、真っ赤な空やったことを覚えています。
「うわー。お母さん。空、真っ赤やで。晴れるかなぁー」
「ほんまやなぁ。明日、学校やし。」
いつもの会話でした。

その、次の日があんなことが起こるとは思いませんでした。

しばちん。
(31・女性・横浜市・主婦)
2015年1月10日 05:20
夜泣きをしない子が

震災が発生するちょうど1時間前、夜泣きなどほとんどしない子で、親思い(?)の当時3歳の息子が「おとうさん、オシッコ」と言って私を起こしました。トイレを済ませた後、うとうととしている時に、あの地震が発生しました。凄まじい揺れで、食器が割れる音がして、私は隣に寝ている息子に覆い被さり、妻に布団を被り落下物に気をつけるよう言いました。幸い私たちは大きな怪我もなく、自宅から外へ出ることができましたがおおくの方が無くなった事に哀しい想いをしました。

なか
(54・男性・神戸市・会社員)
2015年1月10日 00:24
虫が知らせたのでしょうか

私達夫婦は東京で私の父の49日を済ませ、夜の新幹線で帰宅しました。家内は私とは別に、深夜の高速バスで帰る予定でしたが、家内の母親が、虫が知らせたのでしょうか猛烈に反対したため、一緒に帰ることとなったのです。家内が乗る予定だったバスは震災発生時には倒壊した阪神高速道路上を走っていたことになります。留守番をしていた息子・娘と一家が揃って震災を迎えましたが、幸い全員無事でした。こんな事ってあるんですね。

写楽斎
(71・男性・明石市・無職)
2015年1月10日 00:02
大丸で母と買い物

震災の前日は、母と二人で大丸神戸店で通勤用のちょっと大きめのバッグを買いました。その帰り、山陽明石駅の下りホームへ上がるエレベーターで母はバランスを崩し、後ろにいた私は、母を受け止めようとしてそのままズルズルと下へ落ちました。誰かが非常ボタンを押してくださり、母は無傷で、私は脇腹にエスカレーターのギザギザ跡があったくらいで、大事にならずすみました。当時は明石に住んでおりましたが、幸いにも震災の被害も家屋一部損害ですみ、母と運の強さを喜び合いました。それから10年後、母はガンを患いましたが、皆を愛し、愛されて昨年の10月に旅立ちました。87歳でした。この20年は母との思い出が一杯詰まった日々でした。お母さん!ありがとう!!震災前日に買ったバッグは今も手元にあります。

門田 徳子
(64・女性・加古郡播磨町・k)
2015年1月 9日 23:53
キラキラした記憶

私は1月15日にワールド記念ホールで成人式を迎えました。みんな振り袖や新しいスーツに身を包んでキラキラしていたと記憶しています。そして、大人の仲間入りをした2日後に震災でした。
なのでこの20年は共に成長してきたと思っています。
今年は2回目の成人式です。
復興してきた神戸と共に…。
これからも大好きな神戸で生きていきたいと思います。


(40・女性・神戸市東灘区・自営業)
2015年1月 9日 23:41
阪神高速湾岸線

私は旅行の仕事で関西空港へ向かうために、六甲アイランド北からに阪神高速湾岸線に入りました。ちょうど東神戸大橋を過ぎた時に、東の空が真っ白に光、同時にオレンジ灯が消えました。真っ直ぐな道路がひねり飴みたいに揺れ(?)その時は自分の体に異変がおき、気分が悪くなったと思いました。三車線の真ん中を走っていたのに右側の壁や左側の壁にぶつかりそうになりながらやっとの思いで停車したのを覚えています。我に返り車から降りて周りを見ましたが、何も変化はなかった。ラジオでは京都の方で強い地震があったと一方を聞き、携帯のムーバーで自宅に電話をして、すごく揺れたと聞いて地震があったと確認した。高速は、壁から落ちたパネルが散乱、中島の料金所で高速の出入り口が閉鎖されたと聞き、行けるところまで行ってくださいと言われ関西空港を目指す。関空の料金所で、津波は大丈夫ですかと聞かれ、ラジオではそんな情報ないですよと答え、出発ターミナルに入る、荷物を預けるブースには蛍光灯が散乱、余震ではあちらこちらで悲鳴が上がる。テレビが7時のニュースを映す。ヘリコプターから漫才師のノックさんが神戸を中継、悲惨な状況が映し出され神戸が震源地とわかる。阪神高速が倒れているのを見てその横を走ってきたのに・・・。また後で、西宮港大橋も上下線落ちている聞き、あらためて運が良かったと思っています。前日のことではなく当日の投稿となりましたが、今でも当日のことは忘れられません。

高坂 勝巳
(61・男性・小野市・団体職員)
2015年1月 9日 22:57
異様な雲

数日前から、たしかNHKの映りが非常に悪かったという記憶があります。
前日は、連休の最終日でしたのでどこかに行っておこうと、午後から摩耶ケーブルで掬星台に出かけました。
そこで覚えているのは、夕方の空、特に雲の様子が異様な感じでした。うまく言えませんが、今まで見たことがない空模様だったのです。

灘北通
(52・男性・神戸市・)
2015年1月 9日 22:55
長い冬休みの最終日

入試の関係で、17日が始業式。なので16日は長い冬休みの最終日でした。
もちろん地震で学校には行けず、家でずっと布団に包まってやり過ごしていました。地震後しばらく避難していたので、冬休み以来学校の友人に会えたのは3月以降でした。

あい
(29・女性・神戸市東灘区・会社員)
2015年1月 9日 22:38
エアロビクスのインストラクター

フィットネスクラブで、エアロビクスのインストラクターをしていました。当時ちょうどインストラクターを始めて5年で仕事も軌道に乗り17日には、クラブのショップに私がモデルになってウェアを着た写真を貼り出す打ち合わせをしていました。まさかブロック塀の下敷きになって脚に重傷を負うことになるなんて。

浜田法子
(52・女性・中央区・エアロビクスインストラクター)
2015年1月 9日 22:07
「来年は私も成人式かぁ」と

当時はまだ成人式が15日、16日が振替休日でした。来年は私も成人式かぁと思いながらサークルでテニスをして、モスバーガーでお昼を食べながらおしゃべりしていました。
震災は東灘区の震度7地域のマンションの9階で体験しました。
その後、こじつけかもしれないですが、悪いジンクスと思い、しないようにしていることが2つあります。大みそか元旦を自宅以外で迎えること、そして自宅でお抹茶を点てること。1995年の年越しはとても久しぶりに父方の祖母の所に行っていて、親戚で集まっていました。父には申し訳ないですが、それ以降、結婚した今でも年越しは自宅で過ごしたいと思い続けています。もうひとつの「お抹茶」は前年秋から茶道を習い始め、3連休初日の14日に初めて自宅で茶筅を使って父母にお抹茶を点てました。その時使ったお茶碗などはもちろん震災で割れてしまいました。「慣れないことはしない」わけではないですが、何となく結びついてしまうのです。
20年が経ちますが、身近な人が亡くならなかったことと、1年3ヶ月後には大規模補修を終えた元のマンションに戻ることができたのは、幸せなことだと思います。

とこ
(39・女性・西宮市・主婦)
2015年1月 9日 21:52
ポートピアホテルで招待

まさに震災の1/16に神戸にいました、まだ現役で営業の会社でお得意様を招待しての
新年会でした、それもポートアイランドのポートピアホテルでありました、PM6時頃には解散
した記憶がありますが自宅が豊岡なのでその日に家に帰りました、毎年1/17が来ると16日の事をいつも思い出します、当時本社は神戸にありました。

やじきたak
(66・男性・豊岡市・契約社員)
2015年1月 9日 21:37
仕事でシンガポール

他県民で申し訳ないですが、メルマガ取ってるので。
前日は仕事でシンガポールに居て夜行便で日本に帰ってきました。到着予定は関空に朝6:00。
四国上空に差し掛かったところで機内のモニターに「ただ今、関西地方に大きな地震があった模様です」のテロップ、いつものことやー程度で/周りも誰も騒がず。
定刻に着陸して入国手続き終わったけど・・・交通機関が何も動かない。
空港のTV見てたら阪神高速が横倒しの映像が。「これはエライことや」とようやく気付き、(当時は海外に携帯電話など持って行かないので)公衆電話に張り付いた。ユーザーである草津市内の大手家電メーカー工場に電話すると「通常に操業してます」。なんでこんな日にー、なのは昼には滋賀/守山のオフィスに戻って自分で草津まで納品に行くつもりしてたから。看板方式の家電工場生産ラインを納期遅れで止めたら莫大な賠償金取られるのでマジで困った。そのうち固定電話は繋がらなくなってさらに困ったが、気付いたのは出入りの赤帽運転手が携帯電話を持っていたこと。かけると繋がったので「ウチの倉庫に勝手に入ってユーザーに納品に行って欲しい」。後に携帯電話普及のきっかけになったのは、有事では固定電話よりも回線が強かったかららしい。
まず仕事が片付いたので自分の身の振り方を考え出すと、TVを見ていた青年が「ツレの家が燃えてるー!」と叫びながら走り過ぎた。
昼にようやくバスが動き連絡橋を渡るとー、向かい岸の西宮からもくもくと煙が上がり全部燃えてるのが肉眼で見えた・・・。
当日奇跡的に動いてたのは南海電車と京阪電車だけ、本州に入ったら南海電車で難波まで乗り、そこからタクシーと徒歩で淀屋橋まで移動したが、信号が全部消えており/人と車が中国のように混在してた。
淀屋橋から京阪で(昔の地上にあった)三条京阪駅へ。三条京阪駅があんなに人で溢れてたのは、後にも先にも見たことが無い。
京津線で浜大津まで乗り、タクシーで守山市内の自宅へ。
朝6:00に日本に着いて/自宅へ帰れたのは午後11時前。神戸の皆さんほどのご苦労では無いが、あの日に民間人が関空から滋賀までスーツケース押しながら電車で移動したのも奇跡だったかも。
地震のとき嫁は箪笥が倒れそうで必死に抑えてたそうだが、怪我もなく良かったと話してるところへ電話が。シンガポールの部下から「テレビで見ました。日本は大変みたいですね!」と言われて俺が返したのは「大変なんはお前じゃ。シンガポールから俺の自宅にコレクトコールかけてくるな!」。嫁がカンカンに怒ってるし・・・。
神戸の当事者の皆さんはそれどころじゃなかったでしょうが、電話のかかり具合や/強かった電車がどれかなど、後から考えると日常生活で見えてなかった色んなことが判る出来事でした。

coni
(50・男性・守山市・会社員)
2015年1月 9日 20:33
サンキタの居酒屋で恋話

その日は、高校時代の友人達と三ノ宮のサンキタの居酒屋で、恋話などに花を咲かせ楽しい時間を過ごしてました。
その数時間後に…あんな恐ろしい事が起こるなんて夢にも思うはずもありませんでした。

自分達が居た居酒屋辺りの惨状を見て、もし時間がずれていたら、私達はどうなっていたかと考えると涙があふれてきました。
 
あれから20年…私は結婚もし、息子と娘も授かり幸せな日々を送ることが出来ています。

子供が生まれてから特に20年前のあの日、例え用もない悲しみに遭われた方々の事を思うと、
今の幸せに感謝し大切にしよう…と思います。


りん
(41・女性・神戸市・主婦)
2015年1月 9日 20:23
祖母の四十九日

震災の前日は祖母の四十九日でした。
愛知県から来ていた親戚は、翌日の1月17日に愛知へ帰る予定でしたが、急に16日夜遅く車で帰って行きました。
私は翌日から始まる大学の後期試験の為に深夜遅くまで勉強し、眠りについた3時間後思いもよらない地鳴りで目覚めた20年前の1月17日。

愛知の親戚が前日に帰宅を思い立ったのは
亡き祖母が助けてくれたのだと今でも思っています。

瀬尾
(41・女性・大阪府・主婦)
2015年1月 9日 20:16
変な雲

友達と京都へ遊びにい行った際、夕方、二人で空を見上げ、変な空やね~雲も変~っとなに何気に話してました。今思うと地震雲??

かずよ
(45・女性・神戸市灘区・主婦)
2015年1月 9日 20:15
豊中に

豊中に住む娘が年末にお産をして手伝いに行っていました
前日はしばらく買い物に行かなくて良いように婿殿とスーパーへ
買い物に行っていました。
17日から正月休みを取っていた婿が初出勤の前日だったのです
その孫も20歳になりました
マンションの部屋は大きな洋服ダンスが娘夫婦の寝ていた所に倒れていました
二人はとっさに起きて孫の上に覆いかぶさっていたそうです
幸そのお蔭で洋服ダンスの下敷きにはならなかったけど~
私もとっさに孫の事を思って起きていました
寝ていた所へは本やビディが布団が見えないくらい落ちて来ていました

後は我が家の姫路と豊中の間を行ったり来たり幸い育ったのが
六甲だったので色んなルートで行ったり来たり
私でもあの時の記憶はいまだに消えません
もっと酷い目に合った方は~
今は東京に住む娘も地震には敏感なようです

ちゃこ
(76歳・女性・姫路市・主婦)
2015年1月 9日 19:34
滋賀の長浜

前日は夫婦で滋賀の長浜(黒壁スクエア)に遊びに行っていました。神戸では、めったに降らない雪景色を2人で楽しみました。
しかし、帰宅し、夜が明けると、神戸は最悪の事態にみまわれました。当時、灘にいた私たちは、三宮の方から煙が上がっていたり、上空を無数のヘリコプターが飛んでいたりして、ただ事ではない何が起こったことを予感したのを、覚えています。

まつ
(48・男性・神戸市須磨区・会社員)
2015年1月 9日 18:52
ポーアイでスケート

小学5年生10歳だった私。両親と7つ離れた妹と、ポートアイランドにある神戸国際会館でスケートをしました。
夜眠るとき、母と「まだ滑ってる感覚残ってるね~、身体が揺れてるー!」と言いながら横になったことを覚えています。

吉田彩子
(30・女性・芦屋市・無職)
2015年1月 9日 18:51
豪華な鍋料理

前日の15日が成人の日だったので、16日は振替休日でした。
当時は、24歳と29歳の娘と私たち夫婦の4人家族。
お正月明けの連休だったので、別に何処へも行かずに家で4人で過ごしました。
16日の夜は、冷蔵庫にはお正月用に年末に買った食料が結構残っていたので、
連休には何処へも行かなかったからと、冷蔵庫を総ざらえして豪華な鍋料理を楽しんだのですが・・・
翌朝の天地がひっくり返った様な巨大地震!
お店が全部閉まってしまって、当面食料に困ったことを覚えています。
幸い我が家は一部損壊だけで済みましたが、回りでは全壊した家々も多く、道は波打ってガスの匂いがし、新幹線の橋脚が崩れていて、まるで映画か何かをを見ているようでした。

りら
(73・女性・当時は西宮市・専業主婦)
2015年1月 9日 18:48
風邪が大流行していました

この日は勤務している病院(神戸市東灘区)の事務日直という時間外患者の受付をする任務で出勤していました。そのころ風邪が大流行していて時間外患者がひっきりなしに来院してくるのを対応して、昼食もろくに摂ることができませんでした。17時に夜通し受付をする事務日直に業務を引き継いで家へ帰りました。帰宅後疲れ切ってすぐ眠ってしまいました。翌17日は振替休暇なのでゆっくりしようと思いつつ・・・。

iroshiya
(44・男性・西宮市・会社員)
2015年1月 9日 18:41
変な色の月

0時過ぎに卒論を書き終えた。
明日(17日)、提出しに行くぞと思いながら、空気を入れ替えるために窓を開けた。
月が妙に明るかったというか変な色をしていた気がする。
まさかこんなことが起きるとは…

G.I.
(44・男性・神戸市中央区・会社員)
2015年1月 9日 18:31
父の初七日

1月10日に父が亡くなり、16日が初七日でした。親戚、子供達が集まり、食事をしたり、遺品の整理をして、夕方東京へ帰る妹を最寄りの駅まで送っていきました。
父の看病で、時々神戸に戻っていた妹ともこれで暫く会うこともなくなると思うと、言いようのない寂しさがこみ上げてきて、寒さと一緒になって震えが止まらなかったのを今でもはっきりと覚えています。
父は長く患っていて、お医者様からもうあまり長くないと言われたので、お正月は自宅で一緒に過ごそうと退院させて2週間目でした。亡くなった時は病院にいればもっと生きられたのではないかと後悔しましたが、震災後の周りや病院の状況を考えると、修羅場を見ないで逝ったのは、父にとって却って良かったのではないかと、自分を納得させています。

庄野 絹代
(62・女性・神戸市垂水区・主婦)
2015年1月 9日 18:28
普通に平和な一日

当時高校生だった私。前日は、よゐこさんがやっていたラジオのイベントで友達と、大阪梅田阪神百貨店に行きました。まさか何時間か後に震度7を経験することなど毛頭思わない、普通に平和な一日だったと思います。

あと、確か、その日の朝日新聞朝刊の社会面に神戸で震度1の地震があった記事を見つけて、「この辺り(畿内)は地震なんかないんだよ。あっても震度1。」と、今思うと何の根拠も無かった“神話”を改めて認識した記憶もあります。

それに関連して、これは前日だったか、ちょうど阪神淡路大震災の1年前同日に起きたアメリカ・ノースリッジ地震から間もなく1年といったニュースをテレビで視た記憶もあります。「地震防災は関西は関係ないよ~」と他人事のように感じていた覚えがあります。すみません、これは別日かもしれませんが。

まとまろ
(37・男性・西宮市・会社員)
2015年1月 9日 18:07
湯布院から帰った日

連休に社内の友人達と湯布院に出かけ、帰った日でした。
夜半に帰宅してお土産話をしている途中、母が「今日は珍しく地震があったのよ」と言っていたのを思い出します。
もし一日ずらしていたら帰宅できなかったと思います。
一年後の1996年1月16日の神戸新聞の見出しは一生忘れません。
目にした途端涙が溢れました。

M.O
(45・女性・神戸市北区・会社員)
2015年1月 9日 18:03
夜勤で夕刻出勤

震災前の日は、夜勤で夕刻出勤していました。早朝の仕事の為に仮眠を取り規定の時間に起きて入り口の門を開けて一息ついた時大きな揺れが起きました、続けて前よりも大きな揺れが起こりました。南の方向を見ると見たこともない大きな虹のようなものを今でも覚えています。

畑明晃
(63・男性・西脇市・パート)
2015年1月 9日 17:50
西区の百貨店に勤務していました

西区の百貨店に勤務していました。
2日連続休業日の前日だったので、職場の同僚に「また連休明けにね〜、お疲れさん」と挨拶して、いつもどおり帰りました。

硝子
(57・女性・神戸市垂水区・会社員)
2015年1月 9日 17:34
寒いけれど良く晴れた日

震災の前日は成人の日の三連休でした。寒いけれど良く晴れた日が続いたことを覚えています。親元を離れて社員寮で一人暮らしをしていた私は、掃除と洗濯を終えると、近くの川べりの街に散歩に行き、日差しと川風を心地よく感じながら、川にかかる大きな橋を電車の一駅分、歩いたことを記憶しています。初めて入った中華食堂で夕食を取り、夜はいつものように、芦屋に住む両親と、とりとめない電話をしました。ところが、1月17日の未明に猛烈な腹痛で目が醒め、何度もトイレを往復してしまいました。身体がクタクタになってしまい、眠れなくなり、何気なく手元のラジオを着けたら、大震災の速報が。朝6時過ぎのことだったと思います。幸い、両親は無事でしたが、あのひどい腹痛こそまさに、「虫の知らせ」だったのかもしれないと、20年経過した今でも、鮮明に覚えています

いけはん
(48歳・男性・千葉県松戸市・会社員)
2015年1月 9日 17:24
前日歩いた場所が焼け野原に

震災当時、私は稲美町に住んでおり、中学校3年生で高校受験をひかえていました。
震災前日は、近所の友人と神戸市内にある滑り止めの私立高校の下見に行きました。「もし公立の試験に落ちたら、ここを毎日通ることになるんかなあ」といったことを思いながら、高校近くの商店街を歩いた記憶があります。夕方に帰宅してすぐに小さな地震があり「あれ?地震か。珍しいな」と思ったことも、はっきり記憶しています。
そして、翌日の地震。激しい揺れに身動きすら取れない恐怖は、未だに忘れられません。
幸いなことに家族も自宅も無事でしたが、しばらく経って父親が本屋で買ってきた数冊の震災の写真集を見て愕然としました。震災の前日に歩いたところが焼け野原に・・・。それだけでなく、子供のころから行き慣れた神戸の街の変わり果てた姿は、本当にショックでした。
今は静岡で学生に、次なる大災害に備えて阪神・淡路大震災について自分の知っていることを教えています。経験を活かすことの重要性を、兵庫を離れて改めて痛感する最近です。

フォレスト
(34・男性・静岡市・教員)
2015年1月 9日 17:22
三宮にイチローさんがいました

確か 私の兄弟と親が 船で 港観光していました。 神戸の港を 船で・・・
神戸に住んでいて なぜか わざわざ、船で港を観光したのかも わかりませんでした。
私たちは 三宮の星電社で 買い物 その時、 オリックスの イチローさんと 田口さんに会いました。 

ともともとも
(42・女性・兵庫県・会社員)
2015年1月 9日 17:12
三重県鳥羽にいました

当日は1月15日より恒例となっている勤務先の同期会で三重県鳥羽の旅館で宿泊していました。16日の早朝、麻雀をしている時に少し強い揺れを感じ、テレビを点けましたが地元の怪我のニュースくらいだったので麻雀を続けていたところ、夜が明けるにつれ目に飛び込んで来たのは大量の煙が立ち上る長田周辺や倒壊した高速道路の衝撃的な映像でした。親の介護をしながら待つ妻に電話を掛けるのですが全く繋がりません、昼ごろに大阪への交通である近鉄が運転再開されたので仲間4人と飛び乗り大阪へ向かいました。駅から桜橋の勤務先まで歩く途中は強いガス臭と頭上より落ちてくるガラス片に悩まされました、エレベーターは動かず13階まで歩いて上がり、やっとの思いで勤務先に辿り着きました。しかし、依然として妻との連絡は取れず、大阪から神戸までの交通も遮断されたままです、深夜になって取り敢えず部分開通した阪急で池田まで行き友人の車で大渋滞の中、三田回りで西区の自宅へ帰る事が出来ました、すでに17日の昼前でした。17日は私たちの28回目の結婚記念日でしたが、とんだ記念日となった苦い想い出があります、今ではその親も妻も他界しました。

加久石 幸三
(76歳・男性・神戸市東灘区・なし)
2015年1月 9日 16:26
彼女とデート

私は震災前日のこの日、大学に入って初めてできた彼女と一日デートをしていました。場所は神戸三宮。午前中に待ち合わせ、センター街を歩き、適当にカフェでランチ。その後、北野坂を上り異人館街へ。神戸の市街地を眺めていました。歩き回って暑くなったのか、冬だというのにソフトクリームを食べた記憶が残っています。そして、再び市街地の方へ戻り、南京町へ。飲茶や飲み物を二人でちょこちょこ買っては飲み食いの繰り返し。日が落ちて暗くなり、地下一階にあったちょっとお洒落な居酒屋で、世間話やたわいのない話を終電近くまでして、駅まで送ってから、私も帰宅しました。お酒も飲みほろ酔い気分でしたが、次の日が締め切りの実験レポートを朝まで書き続けていました。

今から思うと、大好きな神戸の街並みを当時一番大切な人と一緒に見て回ったことは、次の日のあの震災を無意識下で感じ取ってたのかもしれません。

ひろき
(41・男性・神戸市東灘区・会社員)
2015年1月 9日 16:11
今はなくなってしまった映画館

震災前日のこと今でもはっきり覚えています。
その日は初めて家族5人で映画館で映画鑑賞したんです。
ちょうど次の日から単身赴任に出る主人と子ども達の思い出に…
今ではなくなってしまった映画館ですが阪急三宮の建物を見るとあの日の事が甦ってきます。と同時に次の日に起こった震災の事も

harurinyo
(52・女性・神戸市北区・主婦)
2015年1月 9日 15:34
お雛様を選びに新聞会館へ

幸せな一日でした。
生後7ヶ月半の娘の初節句のために母や姉と新聞会館地下の人形店へお雛様を選びに行きました。
その帰り子どもの頃から通っていた中華料理屋さんで夕食を囲みました。
家族が増え母になった充実感に包まれた幸せを感じるいい日でした。
その帰りに数日前からみる怖い夢の話を母にしたところ「守るべき命(娘)ができた責任感から見る夢じゃない?」と言われました。
母とわかれ帰宅した数時間後その夢と同じ体験をしました。
親族や周囲の方々のおかげでその娘が今年成人式を迎えます。

よしだ
(49・女性・神戸市須磨区・)
2015年1月 9日 15:10
きれいな夕日

3連休の最後の日だったかと思います。が、東大阪の職場に休日出勤しておりました。夕方東灘区本山南町の自宅に帰宅したのですが、夕日がきれいだったのと、帰宅してすぐに軽い地震があったのを覚えています。今から考えれば本震の前の「予震」だったのでしょう。軽いながらもゆらゆらと少し長めの地震でした。その後、何もなく普通にいつものように過ごしていたのですが、早朝のあの本震です。世界が変わった瞬間でした。

小松原ラガー
(51・男性・神戸市灘区・会社員)
2015年1月 9日 14:56
友達の結婚式

前日1月16日は高校の時の友達の結婚式でした。二次会に出席するため、友達と元町で6時に待ち合わせをしました。信号待ちをしているときに二人で空を見上げるととてもきれいなお月さまが出ていました。
場所はオリエンタルホテル。にぎやかなパーティでした。翌日、朝早くに新婚旅行に出発する彼女に「朝が苦手なのにそんな早い時間大丈夫!?」と笑いながら話しました。
案の定、友達は寝過ごし関空に向かう途中神戸駅付近の高速で地震に遭遇。垂水の家に引き返せたそうです。もしも、寝過ごさなかったら…
オリエンタルホテルもなくなりました。
家族は全員無事でしたが、家は全壊。
楽しかった三連休のあと、明日からの仕事がつらくて「明日が来ないと良いなぁ…」と思ったのが今でも悔やまれます。

まちゃこん
(53・女性・神戸市東灘区・介護)
2015年1月 9日 14:49
寝て過ごした1日

休日最終日、何もなく寝て過ごした1日。
明日からまたお店《自営業》だなぁと思い その日は彼氏《今の主人》宅に泊まらず帰宅
いつもと変わらない休日だった。

久美子
(49・女性・神戸市長田区・専業主婦)
2015年1月 9日 14:28
少し遅い初詣

少し遅い初詣で、中山寺と清荒神へ行き、あと関西国際空港へ見学へ行きました。車中で、翌日からの厄神さんへ行くやどうやと言う話してたのを、覚えています。特に何も変わったことのない日々変わらない平凡な一日であったと、覚えていますけど

藤岡秀公
(54・男性・神戸市須磨区・会社員)
2015年1月 9日 14:10
黒豆を上手に炊けました

年末は忙しくて炊けなかった黒豆を炊きました。とても良い出来だったので、翌日は職場に持って行こうと思っていました。そして髪も染めました。
そうしたら早朝に…

不思議の国のアリス
(58・女性・神戸市兵庫区・パート主婦)
2015年1月 9日 14:08
長田区の実家に帰っていました

1995年1月16日は、確か3連休の最終日で長田区の実家に帰っていました。当時は滋賀県大津市で働いていたので、会社の寮住まいでした。月に1~2回、土日の休みに帰り、夕食を食べてから寮に帰るというのがいつもの帰省のパターンですが、この時は、昼食後に車で阪神高速、名神高速を通って帰ったことを今もはっきりと記憶しています。
その翌日の5時46分、大津市でも揺れました。テレビをつけたときに見たニュースに表示された神戸の震度6の文字。姉の家族にはすぐにつながりましたが、長田の実家にはつながらず不安な状態で1日の業務をこなしていました。夕方にようやく連絡がとれたときはホッとしました。
現在の神戸の街はすっかり変わりましたが、実家近くにはまだ更地が残っており、20年前に確かに震災があったということを忘れてはならないと感じました。

とみさん
(45・男性・西宮市・)
2015年1月 9日 13:10
18時ごろに地震

旅行先の九州から帰ってきて、家でお土産をひろげながら、こたつでのんびりしていました。
18時頃地震があり、母と「地震なんて珍しいね」と話していたのを覚えています。

ぽん
(46・女性・明石市・)
2015年1月 9日 12:26
全く憶えてません

前の週末13日(金)に職場の先輩の送別会を元町で行いました。
この事は今でも記憶していますが震災前日のことは全く憶えてません。

地震発生時は中央区のマンション7階のベッドで熟睡していました。
突然突き上げるような衝撃が・・・寝ぼけた状態で、なんだこれは?
短い時間の中で、一体何が、どうしたのか、その理由を考えていたように思います。
激しい揺れで起き上がることも出来ずマンションが壊れる。
崩れ落ちる・・・多分死ぬんだろうなと・・・そんなことが頭の中を駆け巡ったように記憶しています。

マンションは幸いにも倒壊せずに済みましたが、気付いたらベッドの横で洋服ダンスの上半分が落ちていました。
幸いにもベッドと下のたんすの間に挟まって斜めになった状態で止まっていました。
多分布団を床に敷いて寝ていたら完全に洋服ダンスの下敷きになっていたと思います。
家の中はもうグチャグチャでした。片付けが大変だなと、この時点でもまだ、あまり深刻には考えていなかった。
公衆電話から会社へまず一報(会社には出れない)を入れてその後、九州の実家にも連絡をしました。
既にスーパの前に長い行列が出来ており、異様に感じました。
しかしこの時点でもまだ、神戸全体がめちゃめちゃになっている事は把握していませんでした。
少しして義理の両親が心配でしたので歩いて移動中に神戸大橋から長田方面が見えた時点でこれは大変なことになっている。
正直神戸が無くなると思いました。何ともいえない悲しい、そんな感情が湧いてきたように記憶しています。
長田の空はまるで空襲(映像でしか知りませんが)の後のように黒煙が何本も上がっていました。

ブルースカイ
(60・男性・神戸市中央区・会社員)
2015年1月 9日 12:22
小さな地震

大学三回生。
バイトに行く直前、家の2階で小さな地震。父が「お前走ったやろ?だから揺れたん違うんか?」と失礼な一言。
まさかそれが余震だったなんて今でも不思議。
今ではすっかり変わってしまった神戸の街並みを見ると、地震を忘れないようにしないとと改めて考えさせられます。

ひろたんのママ
(41・女性・東大阪市・無職)
2015年1月 9日 12:05
東京から帰宅

 私の実家(自宅)は神戸ですが、家内の実家が東京です。母が早くに亡くなり自宅には父しかおらず、毎年、年末年始は神戸、しばらくしてから東京の義父義母の所へ行っていました。
 1995年はちょうど3連休となっていて東京の家内の実家に行きました。そして連休最終日の16日に神戸へ帰ってきました。翌日から会社や学校なので、小学生の息子と娘も含め早々に寝ました。17日の5時頃トイレで目が覚め一度起きましたが、その後のウトウト状態の時に地震が来ました。本棚の本が一気に落ち、大きな揺れの度に何が飛んでくるか分からない状態です。家内と私はそれぞれ隣で寝ていた子供に覆い被さり、布団に潜り何とかやり過ごしました。家も潰れず家内が落ちてきたもので目を腫らしたくらいで済みましたが、あまりにひどい地震だったので、地震直後に東京へ電話だけはして「無事なので心配不要」とだけ伝えました。早過ぎて向こうも情報が無く電話を切りましたが、それからは繋がらなくなったので、良く気が付いて電話をしたものだと思っています。
 当時、警察官や消防の方々の他府県からの応援・活躍を見ていて「僕もあんな仕事をしたい」と言っていた息子が、大学卒業後、警察官になりました。そして、3.11後、すぐに手を挙げて宮城県へ1年3か月派遣赴任しました。記憶・行動を繋いで行きたいですね。

じーやん
(57・男性・神戸市北区・会社員)
2015年1月 9日 11:49
両親が成人式を祝ってくれた

あの日は店の定休日の前日でした 仕事で成人式に出席できず、その代わりに実家で両親が成人を祝ってくれました。一人暮らしをしていたので実家には自分の寝床がなく両親と寝てました。数時間後遠くから轟音が鳴り響き、気がつくとジェットコースターに乗ってるような揺れでした。数日後自分の住んでいたアパートは瓦礫と化し数人の住人が犠牲となりました 時折挨拶していた住人もどうなったのかわかりません 自分にとって忘れようと思っても忘れられない震災でした

まつ
(40・男性・宝塚市・)
2015年1月 9日 11:48
三宮の繁華街をぶらぶら

当時、私は独身で、西神中央に一人で住んでいました。
1995年1月16日の夜のことは今でもはっきりと覚えています。
19時半頃三宮で仕事を終えた私は、いつもならすぐ家路に就くところ、その時はなぜかすぐに帰る気になれず、阪急三宮駅北側の繁華街をあてもなくぶらぶら歩きました。
この放浪は自分の行動パターンから考えて実に不自然であり稀なことで、今からして思えば、無意識のうちに明朝に起るなにかを感じてのものであったと感じます。
途中、北長狭通を北に数メートルあがったところ(今の山笠ラーメンの北隣)にあった華僑の老夫婦が経営する行きつけの中華料理店「振華軒」に寄って夕飯を済ませようか迷ったが、その時は店の前まで行ったものの寄らなかった。
結局小一時間ぶらぶら放浪したあと、何も食わず買わずに帰宅した。

地震のあと、例の中華料理店「振華軒」は二度と営業することはありませんでした・・・
あの華僑の老夫婦の行方が20年経った今でも気になります。
ご無事であったことを祈らずにおれません。

くまのプーさん
(46・男性・加古川市・会社員)
2015年1月 9日 11:37
妹の結婚式

私は、神戸で生まれ育ち、就職とともに神戸を離れました。前日は妹の結婚式が名古屋であり、それに神戸在住の親兄弟や親せきが来ていました。普通の結婚式場で、ごく普通の式でしたが、親戚一同幸せな時間でした。帰宅し、翌日が震災でした。その震災で式に出席してもらった叔父がなくなりました。遺影は結構式で笑っている写真になりました。

エグー
(49・男性・大阪市鶴見区・会社員)
2015年1月 9日 11:18
ジムのプールでひと泳ぎ

風邪をひいてしまい、しばらく寝込んでいました。16日は休みで、明日からは出勤できるなと思っていました。東灘区の森市場があったところにできたセルバにジムがあり、夕方、そこのプールで軽く泳ぎました。その間に震度4の前震があったそうですが、まったく気が付きませんでした。久しぶりに部屋を掃除し、きれいになった部屋で静かに眠りにつきました。

松岡 敦之
(53・男性・神戸市垂水区・教員)
2015年1月 9日 10:10
彼とデート

震災前日 現夫となる彼とデートしました。須磨の水族園に 行きました。
夜 自宅から離れた広い道路まで送ってもらい 少し話して 別れ 自宅へ帰る途中 真っ赤っかで ものすごい大きな月を見ました。
そして、1.2時間後だったか 電話があり 義弟から 自分達の結婚式に 友人として 出席して欲しいと招待を受けました。
幸せな気分のまま 布団に入り 飼っていた犬も 足元から 潜り込んで 寝床に ついたのです。

そして、朝の恐怖が。。。

ニベア
(45・女性・兵庫県・パート)
2015年1月 9日 09:23
今も声が震えます

三連休の最終日、夕食の後いつもの通りコーヒーを飲みながら、漠然と今後の身の振り方について考えていたのを覚えています。
次の朝、目が覚めたのは5時半頃。早過ぎるかなと思いながらも起き、やかんを火にかけた直後のことでした。神戸港の辺りで凄まじい破壊音が、、、。飛行機が墜落? などと思った瞬間、揺れ始めました。揺れが収まり這うように家の外へ出ると、暗闇の中で少し離れた何件かの家からすでに炎が上がっていました。地獄絵とはこのことかと思いました。悲鳴を上げようにも声になりませんでした。
被災地以外の人に震災の経験を話すのに10年かかりました。今でも話すと段々声が震えてきます。

もみじ
(50・女性・芦屋市(当時)・会社員)
2015年1月 9日 02:34
家族で摩耶ケーブル

16日は2歳の娘と家族3人で午後摩耶ケーブルで登り、遊んだあと最終便に慌てて乗り込み下りました。
その後、三宮の知人のお店に行き話してたら6時ごろ地震がありました。その時、神戸に100年地震がないらしくて間もなく起こるであろうと週刊紙に書いてあったことが話題になりました。
まさか、翌日その地震が来るなんて思いもしなかった。
当時住んでいた垂水のマンションは一部罹災でした。
その日に乗った摩耶ケーブルはその後、数年間復旧できなかったうちに横浜に引っ越したので、まだ復旧後に乗れていません。22歳になった娘と震災後に産まれた18歳の息子と乗りに行きたい。

KEI
(50・女性・横浜市・)
2015年1月 9日 01:38
変わった形の虹

20年前、私は9才でした。
当時、通っていた芦屋市の小学校では「おたふく風邪」が流行っており、3学期早々に私もぷっくりと顔を腫らし熱にうなされました。
1/16にはしっかりと回復し、散々学校を休んだので、むしろ元気の塊でした。
近所の公園で友人達と遊び、日が傾いたころふと空を見上げると、オレンジと水色のグラデーションの中、変わった形の虹が2本出ていたのをはっきりと覚えています。
「うわぁ!虹が出てる!」
「2本もある!」
そうやってみんなで空を見上げました。
子供ながらも不思議な空だと思いました。
「明日からやっと学校行けるから、今日は早く寝るんだ!」
両親に力強く宣言し、その日は早々と床につきました。

翌朝、突き上げるような激しい揺れで目を覚まし、布団のなかで縮こまりながら、揺れがおさまるのを待ちました。
ただひたすら怖くて、とても長い時間揺れていたように感じました。
恐怖のあまり声ひとつ出せない私と妹のもとに、父が飛んできて抱きしめてくれました。

幸いなことに、家を建て替えたばかりだったので、私たち家族は無事でした。
しかし、父が寝ていた布団の上には大きな桐ダンスが倒れており。
早起きな父がつけていた灯油ストーブが階段から落ち、階段は灯油まみれ。
リビングの床は一面割れたガラスだらけ。
今思えば、無事なことが不思議なくらいの状況でした。

近隣の風景は無残なほどに変わってしまっていました。
ケガをして血を流している人。
残念ながら、亡くなった方もいました。

9才の私が楽しみにしていた学校が再開したのは、2月に入ってからだったと思います。
校舎が半壊となり、校区外の小学校に通いました。

あの震災でのことは、覚えているというより刷り込まれていると言った方が的確かもしれません。
今、生きているからこそ言える事ですが、たくさんの大切な事を教えられたあの日でした。

S
(29・女性・名古屋市・)
2015年1月 9日 01:24
当時中学2年生

当時中学2年生。翌日からマラソン大会の早朝練習が行われることになっており、少し早めに寝たのを覚えています。
そして翌朝。
轟音と共に目が覚めたのですが、すぐに収まるとひたすらベッドの中で待ちました。後に知ったのが20秒も揺れていなかったということ。
住んでいた街がなくなり、多くの人が犠牲になりました。
確実に記憶は薄れていくのですが、今でも倒壊した家屋や、阪神高速の映像を見るのが辛いです。

コウタ
(34・男性・神戸市兵庫区・会社員)
2015年1月 9日 00:25
新在家の雑貨やさん

この日は後輩と新在家の煉瓦倉庫跡にあった、雑貨やさんに行ってました。今も同じ場所で、店舗開いてますが、あの当時の面影はないのが残念です。素敵な煉瓦づくりの建物は一夜に崩れてしまいました。

norita
(46・男性・東灘区・会社員)
2015年1月 8日 23:23
「空が異様に赤い」と母

前日は父母、妹で外出していました。
連休の最後だったので、ボーリングに行っていたと記憶しています。
帰宅するとき、母は空が異様に赤いとずっと言っていました。
当時飼っていた犬もいつもよりよく吠えて。
その後思い返せば、その点が少し線になる気もします。
何気ない日常、何気ない夕食の準備をしていた時
前兆だと言われている揺れを感じました。
珍しい揺れに家族は驚きましたが、
まさかあんな大地震が起きるなど誰も思わず。
何事もなく家族で夕食を食べ、私は電池式ラジオを抱えて眠りにつきました。

起きてからのことは、もうすべてが点です。
なにがなにやら、すべてが解らない状態でした。
普段地震がこない地域だから。
だからこそ油断してはならない。
備えあれば憂いなしという言葉は、あの日以来教訓となっています。


(31・女性・神戸市西区・無職)
2015年1月 8日 23:09
フルーツフラワーパーク

あの日はバイク仲間たちとバイクツーリングで神戸のフルーツフラワーパークに行ってました。朝から天気もよく絶好のツーリング日和でした。仲間たちと楽しい一日を過ごせた次の日の朝に大震災が来るなんて想像すらできませんでした。あれから20年、あのような災害が起こらないことを祈る毎日です。

虎819
(53・男性・姫路市・会社員)
2015年1月 8日 22:09
須磨水族園

その日は祝日で
久々に会った学生時代からの友人たちと須磨水族園に出かけていました。
あの後、あんなに大量の魚たちが死んでしまうなんて想像も出来ませんでした。
私の家も半壊状態でしたが、家の状態と同じくスマスイの受けた痛手に心を痛めたのを今でも覚えています。

うずら
(40・女性・神戸市北区・)
2015年1月 8日 18:40
ハーバーランドでショッピング

平日が休みの父と、そして母と家族3人でハーバーランドでショッピングをしていました。
父は17年前に亡くなり、震災の日のことも前日のことも、父との忘れられない思い出の1つです。正直、震災より前の神戸の姿は覚えていません。でも1月17日を迎える度、前日の楽しかった家族団欒を思い出し、子供に戻って思い切り父に甘えたくなります。

理恵
(27・女性・神戸市須磨区・会社員)
2015年1月 8日 17:11
多井畑厄神で厄払い

多井畑厄神に夫婦で一足早く厄払いに行きました。いつもなら、お参りだけして帰るのですが、42の前厄、自分でも前厄・本厄・後厄の3年間は、お祓いを受ける初回の参拝でした。お祓いを終えて帰宅後12時間 あの阪神淡路大震災が発生しました。 新築1年半の自宅は「半壊」認定を受けましたが、家族全員6人に怪我はなく、女房と厄払いでお祓いを受けたお陰でこれだけで済んだと思い、以降毎年20年間お祓いを受けています。

わがままオヤジ
(59・男性・神戸市垂水区・公務員)
2015年1月 8日 16:20
しあわせの村

 初句会とて、しあわせの村に十人の友が夜半までこの上なく楽しく幸せなときを過ごし、眠りについたばかりでした。 私たちには文字どうり寝入りばなの地震でした。
 異常な衝撃で目が醒めました。途方もなく体が揺れています。これはただ事ではないと起き上がりましたが立ち上がれませんでした。
「ひやー地震やー」私の叫び声に友達も目を醒まし、よく分からないままお互いに抱き合っていました。本館の七階なのでそうとうな揺れでした。
 電話も不通でタクシーも来られず、しあわせの村に足止めとなり、家に連絡のとれないまま、家族や仕事を気にしながらの連泊となりました。神戸住人は四人、京都や奈良他遠方の友の心配はいかばかりかと胸が痛み、何かの仕事で村に来たらしい車を見つけ三拝九拝頼み込んで、京都、寝屋川、泉南の友を脱出させる、後で聞いたら三ノ宮で降ろされ、歩いて帰ったとか。京都の人がそれぞれの手提げ袋に蜜柑を入れながら「すぐに水が有ると思いなや」当時七十歳の友の言葉が心に沁みました。九十歳の今も句会に出席し元気な顔を見せてくれます。
 三日目の夕方やっと来てくれたタクシーに奈良、富田林、高槻の三人が名古屋の人達(知人ではない)と定員オーバーを承知で乗って帰りました。
 後四人は垂水区住、二人は十七日、朝食を済ませ瓦礫の中を歩いて帰った。
 同じ山仲間の私も同道したかったが、一人になる友を置いてはおけず気長に息子と連絡の取れるのを待って、いました。来てくれた息子の顔を頼もしく見ました。


おたやん
(82・女性・神戸市垂水区・なし)
2015年1月 8日 15:56
受験生でした

あの時は受験生でした。
センター試験が終わり、17日は久しぶりの登校日で、友達や先生に会えるのが嬉しくて
早く朝にならないかなあと思いながら眠りについたことを覚えています。
震災が起こり、みんなに再会できたのはずっとずっと先でした。
受験で自分のことだけに必死だった高校生でしたが、これからは神戸の復興の役に立つ大人になりたいと強く誓ったことを思い出します。

みきぼう
(38・女性・山梨県・講師)
2015年1月 8日 12:18
テニスに夢中でした

当時、テニスに夢中だった私は、お休みと言えばテニスでした。
いつも部屋には大きなラケットバッグがあり、それには
ケガした時のための湿布や液体の消炎鎮痛剤、バンドエイド等
着替え、タオル、バスタイム等も入っています。
古めの二階建て木造の一軒家に住んでいました。
ベッドと本棚だけおいた3畳の部屋で寝ていましたが、
地震で目が覚め、真上の照明器具の大きな揺れに布団を被り、収まるまでじっとしていました。
別の部屋に寝ていた母の声で
私も部屋を出ようとしましたが
倒れた本棚も邪魔をし、
ドアもいかんでしまったようで開けませんでした。
何とか母と開けて
簡単にそばにあった服をきて
そばにあったコートを着たら
全部テニスウェアでした。
何かの役に立つとラケットバッグを持って
母と一階に降りようとしたら
階段がなく、なんとか滑り降りても、又、玄関が開かなくて
気がついたら、ご近所の方が手伝ってくれていました。
何とか脱出し、工務店をしていて
はしご等置いていたので
近所の方が借りにこられたり、
家の駐車場はコンクリートに囲まれていて無事だったため
ちょっと落ち着いた頃
そこでご近所の方とシチューを
炊いていて、
テニス用のベンチコートを着て
テニスのバッグを持ち出してた私を見て
今日、テニス行くの?って聞かれたことを思いだしました。
母も何も置いてなかった部屋に寝ていたのと
いつも一階で寝てた父は田舎に帰ってたので
家族は無事でしたが、家は全壊。
傾いた玄関横にはまだお正月飾りがありました。
そこから2ケ月の避難所生活、
2年間の仮設住宅での生活。
いろんなことがありました。

リリ
(51・女性・神戸市灘区・薬剤師)
2015年1月 8日 09:47
親から聞いた話では…

当時1歳か2歳なので記憶は全くないので親から聞いた話です。宝塚市に住んでました。普段夜泣きをしなかったらしいのですが、地震の日だけ夜泣きしたそうです。自分が寝ていたところにはタンスがありました。夜泣きしたのでタンスのところから母の横に連れて行かれ、早朝地震がおこりました。

いつ何が起こるか分からないので家族を大切にしようと思います。

面と向かって親にありがとうとは言えないけど、
お父さん、お母さん ありがとう!

こまゆ
(21・女性・徳島市・大学生)
2015年1月 8日 02:37
受験生でした

当時は高校3年生で、恐らく受験勉強だったと思いますけど、震災の前日は何故かしんどく気が進まなかったので、翌朝5時ぐらいに早起きして勉強しようと思い、そのまま就寝しました。
そしたら翌朝5時に起きることができずにそのまま寝過ごし、震災の揺れで目が覚めました。机の下には、机の棚にあるはずの瀬戸物の置物が…
もし、早起きしていたら置物が自分自身目がけて飛んできた可能性がありました。

ちなみに成人式で北九州から神戸に帰省していた従兄は、1月16日に北九州に戻ったのですが、従兄が使っていた部屋は隣のビルによって押しつぶされており、危機一髪だったとのことです。

マサキ
(38・男性・高砂市・学校事務職員)
2015年1月 7日 23:45
淡路の富島で釣り

私は当時会社の連休制度を使い、休んでいました。17日が連休最終日でしたので16日は趣味の釣りに行くことにしました。場所は淡路の富島の波止に。震源地です。全く何も釣れず、富島の商店街で寒い体を温めようとお酒を買いました。翌日朝のテレビでお酒を買った商店街が潰れてしまっていたのを見た時の衝撃は忘れられません。お酒を売ってくれたおばあさんは無事だったのか。16日に地震が発生していたら、今の私はいないかもしれません。

TAKA716
(57・男性・神戸市須磨区・会社員)
2015年1月 7日 22:51
眠るのが怖くて泣きました

あの日は、連休最後の日で眠るのが怖くて泣いた記憶があります。父親に慰められて寝つきましたが、子供ながらに何かいつもと違う、嫌な感じがしたのかもしれません。

ごまみ
(35・女性・千葉県佐倉市・会社員)
2015年1月 7日 22:09
穏やかな休日

当時27歳、1月15日は大学の先輩と三宮で呑んで、そのまま和田岬にあった先輩の部屋に泊りました。16日は昼近くまで寝て、暫くテレビ見てから姫路の自宅へ。普通に穏やかな、ただの休日でした。
夜になり、須磨区に住む大学の同期から電話があって、そう、何故かそいつから地震雲の本を借りていたので、そこから地震の話になったんです。
「神戸に地震ないよね、次は静岡やろ」
「わからへんで」
17日、地震で目が覚め、揺れながら、とうとう東海地震かと思ってたので、神戸と聞いて驚きました。
その日のうちに和田岬の先輩と連絡が取れました。「死ぬかと思った。お前の寝てた所、丁度頭の部分にテレビが落ちてきてたわ。」当時の重たいテレビです。一日違えば危なかった。その後しばらくの間、姫路の自宅に先輩を受け入れました。
須磨区の同期はずいぶん経ってから連絡が取れました。偶然なのか、余りのタイミングで地震が起きたので、お互い、本当に怖かった。話が出来て、双方ほっとしました。
その同期と12年ぶりに呑みに行こうとしたのが2011年。「じゃあ3月中旬に」と言ってた所にまた大震災。お互い心底怖くなって、それから一度も会っていません。

あ・うん
(47・男性・明石市・会社員)
2015年1月 7日 21:44
飼育当番

当時小学6年生。飼育当番だったので、ウサギやニワトリの世話をしに小学校へ行っていました。世話をしながら空を見ると、妙に赤かったのが印象について残っています。ウサギの中に怪我をしているのがいたので、「明日学校で先生に相談してから病院に連れていこう。」と友達と話していましたが、結局病院に連れて行けたのは、震災の1ヶ月後でした。

kei-kei
(31・女性・京都市・会社員)
2015年1月 7日 20:38
部屋を片付けていなかったら…

中学1年生だった私は、数日前からインフルエンザにかかっていました。16日は熱が下がっこともあったのですが、ふいに思い立ち部屋の片付けをしました。それまで床に布団を敷き寝ていたのですが、2段ベッドの上を片付けてその晩からベッドで寝ました。
下から突き上げる轟音で目覚め、揺れがおさまってから両親の部屋へ叫びながら移動しましたが、前日まで自分の寝ていた床は本棚をはじめあらゆるものが散乱していました。
思いつきの片付けは虫の知らせだったのかもしれません。


(33・男性・西宮市・会社員)
2015年1月 7日 20:34
家族で姫路市立水族館

寒い日だったと思いますが、成人の日の振替休日で当時5歳の長男、1歳半の娘を連れて、家族で姫路市立水族館に行きました。タッチプールでヒトデを触ったりしている子どもらの笑顔の写真が残っています。今は二人とも成人しましたが、妻と子どもの写真を見ながら、「震災で命を落としていたら、これらの写真が最後のものになったかもしれないね。」としみじみ語り合うことがあります。

ひこ丸
(58・男性・神戸市北区・会社員)
2015年1月 7日 19:38
お風呂に3回ぐらい入った

あの日の前日は家にいて、お風呂に3回ぐらい入ったことを覚えています。寒かったのかもしれません。地震以降、長いことガスが止まって家の風呂に入れなかったので、今のうちに入っておけ!ということだったのかもしれません。覚えているのは以上です。

マヤン
(51・男性・芦屋市・会社員)
2015年1月 7日 18:02
お義父さんへ

16日は長女の誕生日。前日の15日に独り暮らしの義父宅でお祝いしました。16日の夕方、夫と2人で義父の家に頼まれていたワープロを届けるも留守。裏口から入り、置いてきました。帰り道、車から何気なく振り返ると真っ赤な満月が上がり始めてました。夜に義父からお礼の電話。それが義父との最後の会話となりました。義父が撮ってくれた娘の写真が入ったカメラは見つかりませんでした。娘は先月赤ちゃんが産まれました。お義父さん、ひいおじいちゃんになったよ。

のんびりのん
(52歳・女性・芦屋市・主婦)
2015年1月 7日 17:07
ポーアイでアルバイト

前日は西宮の実家からポートアイランドへアルバイトに行っていました。次の日からしばらくアルバイトが休みで、4月ぐらいから入るということになっていました。

三宮はいつでも行ける距離ですが、アルバイトが入っていないこともあり、しばらくは行かないような気がして、OPAのお店を見て回っていました。バッグを見た時に、バッグが私を呼んでいる、と、よくありがちな理由で一つ購入しました。

地震では他のアルバイトの人たちも幸い全員無事だったことがわかりましたが、ポートライナーや三宮の被害をニュースで知った時に、地震が半日早かったらどうなっていたか、無事だったとしても三宮からどうやって帰っただろうか、と思うことがあります。

学生時代に、伊東(伊豆半島)沖の海底噴火前後の群発地震を経験しており、地震の心配のない関西にはよ戻っておいで、とよく言われたものでした。そして、地元に戻ったのが94年の3月。1年もしないうちに震災に見舞われるとは思ってもいませんでした。

M.A.
(45・女性・アメリカ・)
2015年1月 7日 14:40
加古川市で仕事

加古川市で仕事をしていました。
たしか16日も地震があったと思います。
仕事が終わり、神戸の自宅へ阪神高速を使って帰る途中で、”ラジヲの入り”が悪くなったのを覚えています。
そして、バイク屋に寄り道をして雑談で ”関西は大きな地震はない” なんてことを話していました。

こうじ
(45・男性・神戸市灘区(当時)・会社経営者)
2015年1月 7日 00:06
卸業の配送の途中

 卸業の配送の途中で、Kスーパー(河原町通り五条下ル)へ商品を納入擦るために荷台から商品を台車に載せて、まさに店内へ入ろうとしているところでした。
 鉄筋三階建てのビル全体が揺れたために、最初は地震とは気がつきませんでした。そのうち店内の商品が陳列棚からこぼれるようにばらばらと落ち始め、何気なく通りを振り返ると、路上に停めた私のトラック(2t)が波の上の船のように揺れ動いていました。
 町全体が動いているようで、恐怖のために脚が竦み、逃げることさえ忘れて、その場に棒立ちになっていました。
 南の方角の空に稲妻のような光が飛び散って、夢の中で酔っているように足下が定まらず、揺れが止まってもまだ暫く体の震えが止まりませんでした。
 そこから、次の配送先へ行くたびに、店内の商品が倒れてガラスの破片などが散らばって、被害の規模の大きさを実感しました。
 家族のことが心配になって、店の電話を借りて、自宅へ電話をしようとしましたが通じませんでした。シゴトを放り出す訳にもいかず、一日中気掛かりのままでした。後日分かったことですが、公衆電話をつかえば通じたとのことでした。
 まだ携帯電話が普及していない時代でした。
 幸い家では、家具や本箱が倒れたが家人は怪我もなく、それぞれの職場へ出勤したとのことでした。

細川 武
(74歳・男性・亀岡市・食料品卸業)
2015年1月 6日 22:19
新調したスーツ

震災の前日は友達の三宮で飲み明かしてました。

あの時はまだ若くようやく社会人として
一人前になったような気がして
自分の仕事の事や将来の希望の事
やや大げさに自慢しながら
お互いの健闘を祝し
居酒屋談義に盛り上がっていた記憶があります。

その日は新しいスーツを新調しようと
ちょっと奮発した買った紺色のスーツ
何か心機一転燃えて
明日はこれを着て出社するんだと

何とかなく明日からが楽しみで
そのスーツを脇に置きながら
友人と夜遅くまで飲み明かし
楽しいひと時がまだ名残惜しいような
でも早く明日のスーツが楽しみのような
凄く希望に満ち満ちていた
震災の前日が想い返されます。

でもそのスーツは
アパートが全壊し
部屋から何も取り出せないまま
瓦礫に埋もれ

色々と大事なものがあったはずなのに
何故かそのスーツだけを何とか取り出せないかと
とても気になってしまい
しばらく危険なアパートから離れる事が出来ないでいた記憶が
今も切なく胸の奥に想い返されます。

震災前日に希望を胸に語ったあの時
脇にあった新調したスーツ
失われたまま
今もずっと心に引っ掛かったままです。

震災の前日に記憶をロールバックする事が
とても辛い事だと
投稿してみて改めて感じました。

トミーオクトパス
(47・男性・神戸市中央区・)
2015年1月 6日 20:46
連休で愛知県から帰郷していた

「そやな、今度帰ってこれるんはゴールデンウィークやな」
「ほな元気でな!バイバイ!」
そう言ってJR鷹取駅で母と別れた。

当時私は転勤族で、愛知県豊橋市の工場で働いていた。
年末年始に神戸に戻ってきていたので、
この連休は帰郷するつもりではなかった。
しかし特に予定もなくたまらなく寂しくなって帰郷したのだ。

「ただいま!」
「え、どないしたん? なんで帰ってきたん?}
「母ちゃんに会いに帰ったんやろ!」
「金もないのに!」
そういいながらも母はうれしそうだった。

急に帰ってきて別にどこに行く予定もない。
母とぶらぶら神戸の街を買い物に行った。

ハーバーランドのKou'S (コウズ)に寄って三宮に向かう。
「あれ、『ロフト』潰れたん?」
「年末にはすでになかったで」
「どっか金券ショップないか?」
「新聞会館の地下にあるで」
「よう知っとうな!」
「何年神戸におるんと思ってるんや!あんた産む前からやで」

何気ない会話をしながら見てきた長田や三宮が、
次の日にまさかあんな姿を見せるとは思ってもいなかった。

幸い家族・親戚に死者はでなかった。

でも、もう二度と潰れた神戸の街を見たくない・・・


もりよし
(51歳・男性・神戸市中央区・会社員)
2015年1月 6日 18:37
六甲山でスキー

1995年1月16日(月)私は.6歳の娘を連れて六甲山人工スキー場でスキーをしました。
幼子を連れた中学教師は、保育所に子どもを預けて学校に行くので「出勤が遅い!」と嫌われ者。連休最後のこの日も『明日からまた言われる。嫌だなあ』と憂鬱でした。
せめて休日の楽しみにとスキーのチケット10枚綴りを購入。子連れ部活動出勤の帰りに使おうと思っていました。16日は、その最初の1枚を使った日でした。
祝日があったので銀行も休み、持ち金も殆どないまま休日が終ります。ただ嬉しかったのは、この日に限って実家の母が来てくれた事でした。「明日は私が保育所に連れて行くから、あなたは早く出勤しなさい。」まさか、母まで被災者にさせてしまうなんて。
娘も大人になり熟練?教師の今、小さな子連れの職員をとやかく言う人は減ったように思います。少なくとも私は言いません。あの日学んだ事。スキーのチケットはおじゃんになりましたが、常に所持金は持っておく事。あの日から悲惨な日々を過ごしたので、今を大切にする事でしょうかね⁉️
今を幸せと思う事。

よしこさん
(53・女性・高砂市・中学教師)
2015年1月 6日 16:44
代休でした

当日が代休で、前日より彼女の家に宿泊。
起きてからTVのニュースで見た様子は、映画にしか思えなかった。
ようやく事の重大さに気づいて大阪に電話を掛けるも、誰一人繋がらず不安を覚えた。
繋がるようになってから知ったのは、大阪での影響は大したことはなく、知り合いの皆は無事。
連絡をする範囲での知り合いは神戸に居なかったため、取りあえず安心したのを覚えている。

Boss-J
(43・男性・船橋市・会社員)
2015年1月 6日 16:21
結婚式の打ち合わせ

震災の前日は神戸駅の近くのホテルシェレナで結婚式の打ち合わせをしていました。2月4日に結婚式を挙げる予定で結婚指輪にもその日付が入っていましたが、震災発生で避難生活を余儀なくさせられ、やむなく延期。ホテル側に「時期はずれてもいいからぜひホテルシェレナで挙式したい」という旨を申し出ましたが、「建物に深刻なダメージを受けているので申し出は涙がでるほどありがたいのですが、延期ではなくキャンセルを」と担当者に言われました。
その後、8月に震災復興のシンボルともなったホテルオークラにて親族のみで結婚式を挙げました。
ホテルシェレナはその後、復興しつつある街並みを背景に、長期にわたり被災後の姿を止めていました。今はもうその姿を見ることもなくなりましたが、今でも
近くを通るたび、ウェディングドレスを試着して嬉しそうに、少し恥ずかしげに笑っていた若き日の妻の姿を思い出します。(^^)

手裏剣税理士
(49・男性・明石市・税理士)
2015年1月 6日 15:48
何も覚えていません

16日は「友人T宅で鍋」と手帳に書いてありましたが、何も覚えていません。いつも通り、普通に、楽しく、時を過ごしていたのでしょう。
当時、私は西宮市仁川町に住んでおり、友人T宅は神戸市灘区。
どちらも翌朝に壊滅的な被害を受けることなど、想像だにしておりませんでした。

響子
(50・女性・神戸市東灘区・アルバイト)
2015年1月 6日 13:22
妹と三宮や元町でショッピング

妹と三宮や元町でショッピングしていました。但馬から大雪の中、大好きな神戸でショッピングするのが私たち姉妹の楽しみでした。まだ妹はお嫁に行くことが決まった年でした。妹の独身最後のバーゲンを楽しんでいた私たちでした。2人で両手にいっぱいの戦利品を持って、センター街を歩いたことを今でも鮮明に覚えています。私たち姉妹にとって、神戸は憧れの町でした。翌朝、震度5の揺れを豊岡の実家で体験しました。妹は婚約者と連絡がつかず、とても心配していました。2か月後、妹は無事にお嫁に行きました。
あの震災の後、二人で神戸に出かけることもありましたが、なぜか以前の感覚では見られません。

かぼちゃん
(45・女性・豊岡市・)
2015年1月 6日 10:37
夕飯の時、ぐらっと揺れた

今もはっきりと覚えています。
前日は実家に帰り、夕飯をみんなでとっている時でした。グラっと揺れたのです。ほとんどわからないくらいでしたが、それまでは地震は殆ど経験していなかったので、すごく気になりました。テレ
ビの速報も出ず…その後自宅に戻ってからも妙に気になり、実家の母にその後テレビなどで伝えてなかったかと聞いたくらいです。当時はまだインターネットもありませんでしたので、調べることもできず…帰宅した家族にも尋ねても地震には気付かなかった、それに神戸で地震なんてないよと言われました。そして、明朝のあの揺れ…本当に信じられませんでした。虫の知らせというか、何か感じるものがあったのかもと未だに忘れることができません。

たんと
(50・女性・神戸市灘区・)
2015年1月 6日 09:43
フリースを購入

連休で久しぶりに母と三ノ宮に買い物、いつものように賑わってるセンター街JOINTで紫がかった青のフリースを買って元町辺りで折り返しセンター街の地下でお好み焼きを食べて帰る、明日新品のフリース着ようと布団の横に置いて寝る。一回も着ることなく灰になった。

ユジュ
(57・男性・神戸市須磨区・)
2015年1月 6日 09:32
電線にたくさんのカラス

北区の住民です。その日、西鈴蘭台まで散歩しました。
途中の電線に沢山のカラスが泊まっていました。見慣れないカラスが不安そうに鳴いていたのが印象に残っています。

カラスが友達
(63・男性・神戸市北区・年金生活者)
2015年1月 6日 09:18
成人式

あの地震は、二十歳の成人式翌日でした。当時学生で、成人式があるから、尼崎の学生寮から、地元の姫路に帰ってました。翌日から、授業があるので、夜に帰るか、朝に帰るか迷っていた記憶があります。
結局、夜帰る事にして、三ノ宮で阪急に乗り換え寮に向かっていました。その時に、電車の中からみる三ノ宮の街に何か胸騒ぎがした記憶が、鮮明に覚えいます。地震がなければ、わすれている記憶と思います。
あの、数時間にあのような地震がおこるなんて想像もしなかった。
寮に帰ってから、友達と朝までゲームをしていた中で地震にあいました。まさに、起きている状態からの地震で、何が起こったが理解出来なかった。
幸い、寮は、頑丈な作りで被害なかったて、寮生みな無事でした。
決して他人事でない一生忘れない経験でした。今でも、小さな地震でドキドキしてしまいます。20年前の揺れも、始めは小さな揺れでしたが、そのあとに、想像できない大きな揺れがきた事を、忘れません。


ハリケーン
(40・男性・姫路市・会社員)
2015年1月 6日 07:53
大阪に住んでいました

あれから、もう20年も経つのですね。
当時、私は、前妻と大阪の上本町のマンションに暮らしておりました。
突然、熟睡中の強い衝撃で飛び起きました。
『地震だ。!』とは思ったものの、同時に衝撃の強さが、何か近くでガス爆発か何かの事故かも知れないと、・・・そういう連想も浮かんで、事実が把握できない中で、落ち着いて避難しなければと考えていました。
一呼吸置いて、少しパニック気味になりそうになっている前妻を落ち着かせながら、隣の書斎を見ると、しっかりとしたスチール製の本棚は、資料や本の重みで、信じられないほど歪み、床面は、散乱したそれらで、足の踏み場もない状態が薄暗い闇の中で見て取れます。そのときが、ハッキリと大きな地震に見舞われた地域にいる自分たちを把握した最初です。・・・揺り返しの事。頭上からの落下物。切れた電線。ビルの窓ガラスの危険性。そういうことを回避する手段を冷静に描き乍、前妻の手を引いて6階から階段で下に降りました。その時、前妻が私の手を痛いくらいに強く握り締めていたの事が今も記憶に残っています。

そのときはまだ、震源地はどこか判らず、外はすごいことに成っているかもしれないと想っていたので、余り変わらない風景を見たときには、拍子抜けするのと、もっと強い揺れが襲ってくるかもしれないという緊張で、言葉に言い表せない気持ちのまま、近くの公園まで行って、明るくなるまで、そこにいました。

神戸の、あの惨状を知ったのは、中継映像と、知り合いの携帯電話からでした。
実際に、自分の目で見たのは火災が鎮火してから、三日後くらい経っていたと思います。
三宮の駅近辺は、多少見当がつきましたが、その他のところは、全く様変わりしてしまって判りませんでした。都市が一瞬で破壊されてしまう地震の力に慄きました。

今振り返って思うのは、あの震災で、肉親を亡くされた方々、大切な何かを壊されてしまった方々、・・・もちろん、今前向きに歩みを進めていらっしゃる人々は多いのでしょうが、・・・そこに身を竦めて未だ動けない方もいらっしゃると思うのです。
時間が、解決するのだろうかとも思いますが、そういう意見は、外野の無責任さを多分に含んでいるのだろうな、・・・とも考えます。
東日本のときにも感じましたが、震災で助かっても、その後のさまざま事情で死に向かわれる人々も少なくないと云う現実。ニュースで知る、そういう事を、どのように視線に入れたらいいのか、言葉がありません。


そして、もうひとつ、被災しなかった側の私たちは、あれだけの犠牲を払った教訓として、何を得ただろうかということと、それを今活かせているのだろうかとを、しっかりと捉えなければならない立場にいるのだと思います。

当時、建築家の坂茂さんが、“人を殺さない家”ということをテーマとして、ダンボール素材の建築(家)を展開されましたが、そういうような視点の取り組みは、日本の都市計画や住宅に十分反映されてきただろうかと、省みるべきだと思うのです。
“人を殺さない家”・“人が幸せに生きられる社会”・・・神戸の犠牲を糧にして、そういうものを、求めて、二十年間、わたしたちは歩んできただろうか。と、そういう点を振り返ると、二十年前の神戸での出来事に向かって正視できないところが、正直申しますと自分の中に澱のようにあるのです。

・・・・とりとめなく、記してしまいましたが、震災を被った方々の生が安らかなものであって欲しいと、心より祈念申し上げます。

猫丸
(55・男性・三重県津市・農業)
2015年1月 6日 02:53
セキセイインコが…

地震の3時間前、寒さからかわからないけど、当時、飼ってたセキセイインコがかごの中で、あばれたり、変な鳴き声出してりするのでで、私が寝てる布団のそばにかごを移動させたけど、約1時間30分続いた
それと、地震の約1時間前
くらいに変な音も聞いた

よーたん
(47・女性・神戸市垂水区・主婦)
2015年1月 5日 23:51
クラブの自主練習

大学4年生で、卒論提出間近の追い込み期。でもクラブの自主練習の日だったので、顔を出して気晴らしに体も動かした。その日の夜に、研究室にで データをセットし明日からの解析計画を書き、大阪の自宅へ阪神高速の下を車で走って帰りました。そのデータと、その日試合した後輩とは2度と会えなくなるとは。

Dr.K
(43・男性・京都市・教員)
2015年1月 5日 22:51
山越えでひやひや

3連休を利用して妻と篠山方面に行った様に記憶しています、その帰り道高速道路を利用せず一般道を走行して三田にでて西宮から帰るつもりで西宮北有料道路の手前で有料道路に入らず以前から利用している小さな山越え道に入りました。前日に雪が降った様でしたが気にせず上って行くにつれ残雪が日陰部分に現れ始めました、中腹と思われるところまで行った時、路肩に車が外れて立ち往生しているのを目にしました。少し不安を覚えましたが山道を上っていきました。山頂に近くなった時、突然残雪が多くなり判断をせままれました、無理して上っても下り道の状況が判りません。そこで引き返すことにしましたがそれからの怖かったこと、Uターンするにも残雪と崖で思うようにならず少しづつハンドルを切り返しやっと車が下りに向きましたが、下り道では恐怖が倍増しました。上りでは気にしなかった路面がアイスバーンに見え亀が這うごとく進めました。脱輪車が見えてきたときそこにクレーン車が来ていました、そこで初めて恐怖が少しだけなくなりました。スリップ脱輪しても助けてもらえると。無事我が家にたどり着きましたが、生きた心地がしませんでした。
その翌早朝の地震でした。高速道路が破壊横転し、住いの中は無残な状態になりましたがマンションは無事で現在に至っています。
今思えば大震災に遭遇したときより、前日の残雪の道を下った運転体験のほうがより恐怖感じた様に思えてなりません。

斎やん
(73歳・男性・神戸市東灘区・定年無職)
2015年1月 5日 21:57
野沢温泉でスキー

三連休を利用して友人と野沢温泉にてスキーを満喫していました。 帰りのバスが理由は忘れましたが出発が遅れました・・・。 日付は変わり、5:46分、、、 翌日、職場へ直で出勤する段取りだったため、明日に備えて車中では寝ていました。が、バスがスリップしているような異変を感じ、意識朦朧のなか!?「まだ長野なん?運転手、雪でケツ、振ってまいよん?ちゃうん?」って、目が覚めました! しかしそれは、大地震でした。 運転手の判断で西宮インターで下車し、途中、民家でトイレを借りて、高速道路がストンと落ちていたり、横倒しになっている、地獄絵と化した街を通りながら自宅へ着いたのは14時をまわっていました。当時、携帯電話の普及している時代ではなかったので実家の両親は半狂乱だったみたいです。私は地震の地上の揺れを経験していませんが、暗闇と恐怖で訳がわかりませんでした。 ただ、長田の町から煙がたっていたのだけが印象に残っています。

K-みちのくの妻
(48・女性・高砂市・主婦)
2015年1月 5日 20:26
家内と別れ話

 震災の前日のことは、しっかりと覚えています。家内と居酒屋で「別れ話」をしていました。7年前に結婚してから今まで家のことや自分(妻)のことなど一切考えず、自分(私)のことばかり考えて生活をしているとのことでした。確かに仕事中心の生活でした。朝早くから夜遅くまで仕事をしていて、帰りには毎晩のように飲みに行っていました。地震がなかったらそのまま別れることになっていたかもしれません。地震のおかげ(?)でやり直すことができました。

かずちゃん
(55・男性・神戸市西区・公務員)
2015年1月 5日 15:52
義母のお通夜

その日は多分一生忘れられません。15日に癌を患っていた義母が亡くなり16日はお通夜でした。人によれば前日も揺れが有ったらしけれどまったく気がつきませんでした。震災当日はお葬式でしたが葬儀場へ行くにもバスも無く1時間近くかけ皆で歩きました。当然葬儀場も半壊状態・・・ 職員も来れないし会葬者も来れない・・・ 食事の用意も全部無理で葬儀もいつ出来るか分かりませんでした。そんな時友人達がおにぎりや飲み物を持って来てくれとてもうれしかった。それぞれ自分たちも被災して大変なのに本当に感謝しました。そんな中遅れながらもなんとか揺れと不安を感じながら葬儀を終え火葬場へ・・・
今度はいつ火葬出来るか目処もつかずロビーで待機している時 テレビの画面で初めて
被害の甚大さを目の当たりにし 燃えている阪急会館を見て涙が止まらなかった・・・ それでも何とか火葬も出来 もし一日ずれていたら火葬する事も不可能だったかもと身内で話ました。 あれから20年いろいろ有りましたがあの日のことはやっぱり忘れられません。

ミジュ
(62才・女性・神戸市長田区・主婦)
2015年1月 5日 13:48
市バスの車内で…

北陸地方出身39歳です。高校卒業後、神戸の短大に進学しました。震災当時は一年生終盤の冬休み明けでした。
覚え違いかもしれませんが、前々日は神戸に薄く雪が降ったように思います。
あの日の前日、市バスの窓からまだちらほらと降る雪を眺めていたら、たまたま隣り合わせた初老の女性に「雪なんて珍しいから、若い人は楽しいでしょう」と声をかけられました。たしか友人宅に向かう途中、長田行のバスだったと思います。
北陸出身なので雪自体は珍しくないのですが…と答えたら、「あら、じゃあ神戸はいいところでしょ」と微笑まれました。
「雪もそんなに積もらないし、地震もないし。神戸は住みやすいところでしょう?」
そんな意味のことをまったりとした神戸の言葉で言われて、そうか神戸には地震がないのか……と思った翌朝、あの地震がやってきました。
19,ハタチの多感な時期を過ごさせてもらった神戸には色々と思い入れがありますが、震災前日に「神戸には地震がない」と当たり前のように笑顔で告げられたことはいまでも忘れられません。

藍子
(39・女性・福井市・)
2015年1月 5日 12:25
ごく普通の週末

三連休は、ダラダラと西舞子の家で過ごしたごく普通の週末でした。
私が長崎から神戸に就職した頃、神戸の方々から、「神戸は地震ないから」と聞かされ、安心して数年間過ごしていました。
でも、確か『サザエさん』が始まる頃に震度1くらいの地震がきたんですよね?当時は珍しいなと思っただけで、たくさんのプレートがある国に住みながら、自身の危機管理が甘かったなぁと思います。

まえっち
(47・女性・長崎県・パート)
2015年1月 5日 10:39
赴任先の四国へ戻りました

その当時四国に単身赴任中だった僕は、会社が3連休だったので、その休みを利用して西宮の自宅へ戻っていました。
翌日1/17は通常勤務だったので、前日の1/16に赴任先へ戻りました。始発の新幹線に乗れば、9時前後に職場に着く事も可能ではありましたが、土日にもう1日プラスの休みがあったので、前日の夜に移動していました。もちろん、翌朝出るつもりであれば、移動など到底出来なかった訳なのですが・・・。
ですから僕自身は、1995年1月17日午前5時46分、この日この時間、関西に居なかったため、地震そのものは体験していません。その為か、自身の中に少し負い目みたいなものがあります。家族や知人、多くの人々があの巨大地震を経験しているのに、僕だけが体験していないと言う想いがあります。
住んでいたのが西宮の北部でしたので、目に見える人的・物的被害がほとんどなかったのが、不幸中の幸いでした。

mac
(55・男性・西宮・会社員)
2015年1月 5日 10:19
「コンサート楽しみ!」と同僚とおしゃべり

1995年1月16日 販売員だった私は夜の22時頃に仕事を終えました。
「お先に失礼します。明日が楽しみです。」と言い残して。
17日は休日で、楽しみにしていたアーティストのコンサート!
会社の同僚と行く予定になっていたので「明日のコンサート楽しみ!」と
その日色々話をしていました。
まさか、あんなことになるとは思いもせずに・・・。

Y.H
(48・女性・尼崎市・)
2015年1月 4日 22:48
冗談で「明日地震来るんちゃう」

当時、垂水区の団地に住んでいました。
珍しく自分の部屋の掃除をしたり、新しくお小遣いで購入した
スタンドライトを飾り…
母親から、あまりしない掃除をしたもんだから「嵐が来るで(笑)」などのたわいもない会話をしたのを覚えています。
家族で、こたつに入りながら夕方
18時ぐらいでしたか。
下から突き上げたような、
ドーン!!としたのは、はっきり
覚えています。地震の速報も出なかったのですが、その頃京都らへんで地震が続いていたので「明日地震来るんちゃう」と、本当に
冗談話をしたものですから…
翌朝、本当に地震が来るなんて…

おみそ味噌汁
(40・女性・神戸市垂水区・パート)
2015年1月 4日 21:05
最終のひかりで

私は、鳥取から大雪で羽田行きの飛行機が飛ばず、
15日にスーパーはくとで神戸の実家へ。
この日は、小田原にとまる最終のひかりで
その当時住んでいた厚木のアパートに戻りました。。。。

いとう
(44・男性・神戸市北区・教師)
2015年1月 4日 20:39
居酒屋で楽しく過ごしていた

私は20年前は20歳でした。成人式が15日でしたので震災が起きたのはその2日後の事でした。20年前の1月16日朝方まで開いている三ノ宮の居酒屋で当時、付き合っていた彼氏と食べたり飲んだりして楽しく過ごしていました、時間も忘れ17日午前6時過ぎて一度目の地震がありました。地震なんて久しぶりやな!ってつかの間…店が潰れるほどの大きな爆音が…店は停電、私たちは逃げる様に店を出たのですが…どうやって出れたのか記憶にないくらい怖かった。外に出ると、ビルが道路に倒れてる。街の光景が1日で変わってしまってました。
地震だと最初は気付かなかった。飛行機?隕石落下?三ノ宮だけ?頭の中が真っ白になりました。自宅が兵庫区だったので彼の車で帰り母と妹の安全を確認出来たので安心しましたが
避難所は寒く、物資もなく水も出ないのでトイレに苦労しました。
完全に普通の生活に戻るのにかなりの月日がかかりました。
この20年で子供も3人産まれましたがあの大震災を子供達は知りません。
出来る限り、阪神淡路大震災の出来事を伝えていきます。

よしみ
(40・女性・神戸市兵庫区・飲食業)
2015年1月 4日 16:20
夜の栄町通を歩いた

夜の栄町通を神戸駅まで歩いた

 その日は三連休の最終日で、私は同好の仲間と大阪市西区川口の旧外国
人居留地界隈の西洋館を訪ねて回る町歩きに出かけていました。
 川口地区では煉瓦造の川口基督教会などを拝見し、西九条界隈まで歩き
そこで町歩きの仲間たちと別れて神戸に戻り、夜は、当時参加していた、
ある神戸市内の歴史的建造物の学校建築の活用を求めて一緒に活動してい
た年長の建築士さん達のグループの新年会で、旧居留地にあったビストロ
「レトロ」に向かったのでした。
 大丸神戸店の駐車場南側にあった戦前のビルの上階にある、文字通りの
クラシカルなお店で、ワインも空けながら、意見交換しながら食事は進み
ました。途中、店内の床を鼠が走り回っているのに気づきました。めった
に人の居る所に出てくることなんてないはずの鼠が・・・あれは翌日の揺
れを予知していた故の行動だったのか、今となっては知る由もありません。
 宴は散会となり、少し酔いを醒まそうと、私は栄町通を歩いて神戸駅ま
で戻ろうと決めました。重厚な石造りの三和銀行。シカゴを思い起こさせ
る中国銀行の入っていた日産ビル、御影石の一本石を前面に出した第一勧
銀、戦災の仮復旧ながら風格のあった赤煉瓦の大林組のビル。。。時には
部材の石や煉瓦の手触りを確かめながら私は歩いていました。
 翌日、北区の団地にある家の二階で揺れに襲われました。部屋の本棚が
上下で分かれて倒れこみ、中の大判の雑誌のバックナンバーが飛び、私は
隙間でちじこまることしか出来ませんでした。
 大倉山公園近くに住む建築士のT先生と電話がつながり無事を確かめ合
うも、「お隣の夫婦が家の下敷きになって、、、神大病院に運んできた所
や」という言葉に、先に聴いていたラジオ関西の現地からのレポートと併
せて旧市街地で起きている惨状を想起しました。
 その日の夕方、鈴蘭台地区では電気が戻りました。つけたテレビのニュ
ースで映し出されたのは、前の晩に歩いた栄町通の歴史的建造物の変わり
果てた姿でした。もろくも崩れ去った建物。大事にせなあかんと、先輩た
ちと話していた建物が大きく傷ついた風景、そして兵庫や長田の火災。。。
神戸の人々、そして町はどうなるのだろうか、と暗澹たる気持ちになった
ことを覚えています。後で知ったのは、新年会を楽しんだレトロのビルも
倒壊し、神戸に戻る前に見た川口基督教会も塔屋が倒壊する大きな被害を
受けたということでした(なお、川口基督教会は後に修復されました)。
 仲間の建築士、プランナーの諸先輩方は阪神淡路大震災復興市民まちづ
くり支援ネットワークの活動を立ち上げ、今また東日本大震災の復興支援
に携わっています。
 私ですが、以前に昔の会下山界隈のことを教えてくれたお婆様、大学時
代の同回生らが亡くなり、多くのなじみの町の風景も失われた中で、この
町の復興とはどうしていくのか悩んだ日々が、その後の歴史的建造物や町
並みの活用・再生を考える姿勢の原点になっているように感じています。

中尾嘉孝
(44・男性・兵庫県神戸市北区・地方公務員(兵庫県庁))
2015年1月 4日 12:53
夕食の巻き寿司を食べなかった

あの日の前日は、生協での棚卸しの仕事を終え帰宅。車椅子生活の母が作った夕飯の巻き寿司を私は食べずに寝ました。母が「せっかく作ったのに食べてよ」私「食べたくないもん」と。そして、翌日早朝のあの地震。自宅全壊、母は圧死。私は自責の念を背負いながら生きることに。3年前から住んでいる川崎市で防災ボランティアとして地域の方々に防災の必要性を伝えています。そんな気持ちになれるのに15年以上掛かりました。今年は初めての1月17日東遊園地に行ってみようと思っています。

ミムラン
(46・女性・川崎市中原区・生協職員)
2015年1月 4日 08:28
母と他愛のない話を

晩御飯を準備してい母を見ながら台所の椅子に座り、母と他愛のない話をしていました。
その時、小さな揺れを感じ、母と顔を見合せたことを鮮明に覚えています。
母が「そうそう、地震保険見直そうと思ってたんだよね~」と呟いていました。
この日、近所のおばあちゃんとお孫さん が須磨水族園に行かれていて、「なんだかいつもよりイルカのショーが下手だったのよ」と仰られてました。
母と「へ~そんなこともあるんだね」と言った記憶もあります。
イルカにはわかったのかもしれません。

何気ない会話でしたが、大震災の前触れだったのかなと思っています。

はなはな
(36・女性・神戸市西区・主婦)
2015年1月 4日 03:02
大阪から三宮へ通い仕事

実家のある大阪から三宮へ通い、仕事してました。

販売業だったのですが
前日は「成人式へ行っといで!」と職場から送り出され
翌日(17日)は自動車教習所の入校日。
飛び石連休の間の1日でした。

職場は一部全壊。
転勤となり、実家近くで勤務となりましたが
大阪のせっかちさと、あまりに変わらない日常が流れていくことに
最後までなじめず
神戸営業所へ移してもらいました。
その時に同期の同僚を辞めさせてたことがあとでわかりました。

当時、私は死にたがっていたので
振り袖姿の写真を残していった人に顔向けができる生き方をしないと、と思い
次の転勤話が出たところで建築業(CADオペ)に転職しました。
結婚、出産、育児をしながらも、まだ同じ業種でかじりついてます(笑)

当時は悲しみしかなかったのですが
20年経ってもマイナスの気持ちが多く残っていることがわかり、ビックリです。
この気持ちをどう前向きにするか、が私の課題だと感じました。

Ganko
(40・女性・加古川市・)
2015年1月 4日 00:19
西区に住んでいました

神戸市東灘区の職場と西区の住まい。落差が激しかったのを覚えています。
震災のころは押部谷の県営住宅に住んでいました。4階だったので、すごい揺れで家具が倒れて部屋が滅茶苦茶に。当時、2歳だった娘が寝ていたすぐ横に10キロぐらいの荷物が上から落ちてきていたのを今でも鮮明に覚えてます。
停電でしたが電話はつかえて、近くに住む母親とは連絡が取れました。そしてラジオ関西から流れる中継は、須磨区の惨状を伝えていました。
数時間後に電気が復旧し六甲山の表側の惨状を知りました。東灘の甲南大学の生協に務めてましたので、出勤する準備で、すぐさま乗用車の燃料を入れに志染方面へと。対応が早かったので混雑なく燃料を入れることができましたが、その帰りにパチンコ店でパチンコに興じる少なからない人々を見たのはショックでした。
それから数日して、車では通勤できませんので友人にバイクを借りて出勤しました。
出勤途中に軽トラックの荷台に棺桶が載っていたのを目にしました。
それからが、毎日の落差。戦場みたいな東灘と水もガスも出ませんが「平和」」な西区との往復。自分が壊れそうになった記憶があります。じっとしていては自らがもたないので、小学校の時の恩師にたのんで避難所となっている小学校の宿直などのボランティアや休日は神戸市のボランティアなど、なんとか被災された方々に少しでもと過ごした記憶が。あれから20年。3.11や福島原発で大変なおもいをされてる方々に、まだまだ、ご協力できていない自分がいます。

藤本義之
(54・男性・神戸市西区月ヶ岡・団体職員)
2015年1月 3日 21:34
24時間ライブを終えて

当時 神戸で旗揚げ公演を終えたばかりの劇団に所属していた私。
震災の前日は北野町での24時間ライブをちょうど終えたところ。
お客様も思うように集まらず、ネタも不調だったため 皆、気落ちし この日は珍しく打上げもせず三々五々…おかげで誰も命は落とさずに済んだ。
生かされた命。
皮肉にもこの経験が 表現の世界にはまり込む一歩となった。

M.T
(40・女性・現 明石 当時 神戸市中央区・フリーアナウンサー)
2015年1月 3日 21:04
インフルエンザ、自宅で静養

当時は神戸市東灘区に住んでおり、小学校2年生でした。連休前からインフルエンザにかかり、16日も自宅で静養していました。夕方頃に小さな余震があり、それが人生初の地震で、とても怖かったことを覚えています。
夜も熱が下がらず、いつもとは違う部屋に隔離されて寝ましたが、このいつもと違う配置が、翌日の地震で家族全員の命を救いました。
本来姉弟が寝ていた場所には重厚な家具が倒れ込み、母が寝ていたはずの場所には食器棚が部屋の端から飛んできていました。(家具が倒れるのではなく、本当に下から突き上げる揺れで宙を飛んでくるのです)
病弱で、いつも家族に迷惑をかけていましたが、この時ばかりはインフルエンザにかかっていて良かったと思います。

あのときは何もできない小さな子どもでしたが、20年経ち、今年結婚することになりました。
当時は若かった両親が、私たち子どもを必死に守ってくれたことを、今度は自分の家族にしていきたいと思います。
生かされた命を、決して無駄にせぬよう、この経験を後世に伝えていきたいと思います。

わかば
(28・女性・東京都世田谷区・研究職)
2015年1月 3日 20:52
20歳の大学生でした

私は当時二十歳の大学生でした。
15日に地元豊岡市の成人式に参加し、連休明けの授業に出席するために、16日に神戸市須磨区の自宅に戻ってきました。
コーラス部の役員改選のために垂水区に住んでいる部員の家に集まって夕方まで会議をしました。
その間、何度も震度1~2程度の地震が頻繁に起きていたので、「なんかこんなに何回も揺れたら怖いね」と言って、暗くなるまでに帰りました。
夜寝る前に一人で「ジェンガ」で遊んでいた時も、揺れですぐにタワーが崩れ、とても遊べる状況ではありませんでした。

おぎのみほ
(40・女性・宝塚市・専業主婦)
2015年1月 3日 17:24
三宮で遊んでいました

独身だったため、両親と明石に住んでいました。当時、交代勤務に就いてましたが連休が取れ、友人と休みが合い、一日中、三宮で遊んでいました。23時前、三宮駅で阪急とJRとに別れ、連休最後の駅のホームから「遅くまでよう遊んだなぁ」と、昼間よりだいぶ少ないフラワーロードの車を見て家路へ。僅か数時間後に発生した地震。神戸に地震が起こるなんて思ってもいなかった。。。

K-みちのく
(46・男性・高砂市・公務員)
2015年1月 3日 15:53
のんびりラジオを聴いていた

95年1月16日。。
ぐうたら夜間大学生の私は大阪関目のおんぼろアパートでぐうたらな昼寝をしながら・・・
「明日から学校やし、いい加減、実験レポート書かなあかんなぁ~」とFMラジオ聴きながら(当時、関西のFM民放流行りましたよね)うつらうつらして寒い一日を過ごしていました。

正月は親父の居る但馬にバイクで帰省して、また雪の中大阪まで帰ってきて。。
「新年イベントも一通り終わったなぁ」と、のんびりしていました。。
もう、但馬には親父しか居なかったので、毎週週末は慰みにと親父に長電話してました。
いわゆる「第2電々」ができたころで電話の通話料が安くなった頃でした。
この日も、定時電話?が午前中に終わってのんびりの日曜日でした。。

ちなみに、震災当日の時間は・・・・
なぜか、ぐうたらな私が4:00くらいに起きてパソコンに向かって実験レポート書いてました。。
なんだか、わからないのですが、このぐうたらな私が起きていたのです。不思議です。

この日までは、関東の人に会う事があると、冗談で「関東はしょっちゅう揺れてばっかりで大変ですなぁ。関西に引っ越してきたら?」なんて話していました。
この日以来、このネタは封印しました。。

Takahiro
(44・男性・神奈川県藤沢市・会社員)
2015年1月 2日 15:59
愛犬が震えていた

震災前日は3連休の最終日でした。私は当時学生で午後3時すぎにテレビをみていたところ僅かに揺れを感じました(のちに調べたところでは震度ゼロながら揺れていたようです)。しばらくすると愛犬がわずかに開いていた窓の隙間から家の中に駆け込んできて、おしっこをもらして震えていました。私以外の家族は揺れがあったこと自体気づいていませんでしたし私もよもや翌日大震災が起こることなど知る由もありませんでしたが、愛犬は明らかに起こる天災を予感していたのだと思います。

きのかず
(43・男性・神戸市東灘区・)
2015年1月 2日 15:39
出勤日で大阪の会社へ

出勤日で大阪の会社へ行ってました。定時で帰宅し、途中夕食をして帰りました。西宮の実家で母と二人暮らし、かって気ままな独身生活、翌早朝の大地震がその後の激動の人生の幕開けとは思いもよりません。家は全壊、幸いにも二人とも無事、母は一時倒壊した二階部分の下敷きに、その後の家の再建、リストラ、再就職、母の難病の発覚、介護、母の死、自身の遅い結婚、慌しかった20年なんとかやってきました。感謝の念を忘れず、なによりも今生かされてここにあるんだと思い起こさねばなりません。

ナオ
(56・男性・西宮市・会社員)
2015年1月 2日 11:27
趣味の小説を書き終えた

神戸市東灘区の高校2年生でした。信州への修学旅行を4日後に控え、できあがったしおりに目を通していたのを覚えています。当時の私の趣味はつまらない小説を書くことで、16日の夜に分厚いノート1冊分の話を書き終え、署名と日付を付けて書き終えたのは23時ごろだったと思います。
被災後ぐちゃぐちゃになった部屋からそのノートを見つけてその日付を見た時、これを書いた時の当たり前の日常が恋しくなったのを覚えています。日常、という言葉を考えさせられ、有り難く感じたことは今までありませんでした。明日のこともわからないことがこんなに不安であるなんて、それまで全く想像もできませんでした。
修学旅行はもちろん中止。高校は避難所になり、再開したのも1ヶ月後。とはいえ通常の授業はなく、しばらくは3時間の自習をするために4時間かけて登校したことを覚えています。
そのうち代替バスの長い列や学校を見ると吐き気がしたり、意味も無く涙が出たり足が震えたりするようになり、保健室の先生に「PTSD」という言葉を教えてもらいました。避難者の世話で手一杯だった学校には生徒のためのカウンセラーなどは置かれず、ちゃんとカウンセリング治療を受けたのは10年後のアメリカでした。

LupinThe8th
(hashitan@hotmail.com・女性・米国・)
2015年1月 2日 06:11
バイト先の知り合いと映画

16日は昔のバイト先の知り合いと映画に行ってましたね。
確か「今そこにある危機」
アメリカのテロがらみの内容だった記憶ですが、本当に数時間後に震災に遭うなんて。
夕ご飯が、母の作ったちらし寿司と茶碗蒸しで、食べきれない寿しを容器に詰めていて。
翌日、荷物などを片付けた時に食べるものがあって有り難かったです。
しかし、母はそれからしばらくはちらし寿司は作りませんでした。

ふーさん
(44・女性・神戸市・会社員)
2015年1月 2日 00:33
翌日誕生日でした

震災の前日は休みで家にいました。翌日誕生日でしたので震災の当日、びっくりしました。
親戚が明石に住んでいるので安否が心配でした。
あれから20年。あの日の光景はいつまでたっても忘れられません。

ゆう
(29・男性・愛媛県伊予郡砥部町・介護)
2015年1月 1日 23:55
祖父が教えてくれた

田舎で、成人式に参加し飛行機で帰宅。風邪をひいて熱もあったので休日診療をうけ、家でうなされてました。
そして、何故か朝方中学の時に亡くなった祖父の夢で目が覚めた時に地震。
独り暮らしの私を心配してくれて祖父が教えてくれたのだと、今でも思っています。

ハルモモ
(40・女性・神戸市灘区・会社員)
2015年1月 1日 22:09
長野でスキー旅行

当時は1月15日と決まっていた「成人の日」の三連休を利用して、長野県へスキーに出かけていました。帰りのツアーバスへ乗り込んだのが1月16日深夜。翌17日の早朝、バスを降りて梅田から阪神電車で芦屋市内の自宅へ帰り着いた途端の激震でした。着の身着のまま屋外へ避難している人が目立つ中で、着ていたスキー服の上下をうらやましがられたことを覚えています。その服は、落ちて来た天井でまぶたの上が切れたことから血まみれになっていましたが…とにかく寒い寒い朝の出来事でした。

まさやん
(45・男性・姫路市・自営業)
2015年1月 1日 18:42
モザイクで食事

あの日は連休の最終日だったので西宮の実家から家族でハーバーランドに出かけていました。買い物をして、モザイクで食事をした事をよく覚えています。
翌朝の地震で実家は全壊しましたが、なんとか家族全員無事でした。
あの時、周りで同じように家族や友人と食事を楽しんでいた人や、働いていた店員の人は無事だったのだろうかと後で考えるとすごく切なくなります。
神戸の街は見事に復興しましたが、私の震災の記憶は消える事はありません。

しん
(31・男性・名古屋市・会社員)
2015年1月 1日 18:31
生徒を集めセンター試験自己採点

高校3年生の担任だったので、1月14日15日に実施されたセンター試験自己採点のため、振替休日でしたが生徒を学校に集めました。16日は生徒をゆっくり休ませて17日に実施しても良かったのですが、データを早く送るためだっだのだと思います。震災直後、高校に避難者の方がたくさん来られましたので、その対応の毎日でした。その中で生徒に判定データを渡し、受験大学を相談し、受験指導をしました。十分なことは出来ませんでしたが、一人一人の生徒が自分の与えられた環境の中で精いっぱい頑張っていました。

mas-art
(50・男性・神戸市須磨区・教員)
2015年1月 1日 18:28
ディズニーランド旅行中

振り替え休日でTDLへ旅行してました。
朝起きたら一緒に行っていた友達が、朝方クローゼットのハンガーがカタカタ音がした
と言って、もしかしたら地震かな?と言いながらテレビを点けると
『神戸で地震発生』の文字が飛び込んできて、最初何が何だか意味が判らなくって
暫く見ていると、知っている建物の周りから煙がモウモウと立ち上っていたり高速道路が横倒しになってたり。
その時のアナウンサーが“信じられない事ですが、高速道路が横に倒れている”と言ってたのがとても印象的でした。
ホテルのロビーのテレビも全て神戸の地震の映像ばかり。
その後帰新する為に、始発の羽田→岡山、翌日電車で加古川→神戸の自宅と帰って来ました。実家は全壊、両親は無事で近くの小学校に避難していました。

たつの
(50・女性・長田区・)
2015年1月 1日 17:50
横倒し前の高速道通った

あの日は、家族で南紀白浜アドベンチャーワールドへ泊まりで遊びに行っていました。
帰り道は、あの横に倒れてしまった高速道路を通って帰りました。
もし、1日帰ってくるのが遅ければどうしていただろうか?

亜紀
(26・女性・加古川市・)
2015年1月 1日 16:25
大丸で迷子のアナウンス

震災の前日、閉店前の大丸神戸店にいました。迷子を探すアナウンスが流れ、最初は気に留めていなかったのですが、その後、母親と思われる悲壮感に溢れた涙声の韓国語に切り替わり、一瞬驚きましたが、早く無事に見付かるようにと祈りつつ店を後にしたのを覚えています。

ますだ
(44・女性・神戸市・)
2015年1月 1日 03:40
3連休、大阪で遊び歩く

実家のある神戸市垂水区からは明石大橋が望める。当時、僕は25歳で会社員だった。活気があってお金もあった。震災前の3連休、僕は大阪の友人宅に泊まり込み、梅田の繁華街を遊び歩いた。大阪の街には良い意味での毒があった。毒を以て毒を制すではないが、良い毒は仕事で滞ったストレスを霧散してくれる。僕にとって大阪の毒は新鮮でもあった。体が耐性を成していたから、神戸の毒ではもう効かなくなっていたのだ。連休最終日。JR大阪駅から帰路へ就いた。途中、快速電車は三宮駅に停まる。三宮の繁華街には溢れんばかりの人と灯りで満ちていた。「三宮でも遊んでやらないとな……」車窓に映ったネオン看板を指でなぞると、不思議とそんな感慨を僕は胸の裡で約束をした。窓ガラスから外の冷気が指へと伝わる。約束を果たせたのは、その次の日から数えて3年経ってからだ。

竹内一史
(45・男性・宝塚市・会社員)
2015年1月 1日 03:14
家族で外食

家族四人で三宮に出かけていました。
買い物をして、夕食に中華料理を食べて、
「また行こうね」
なんて話をしていた数時間後に発生した地震。
電気が復旧した後、テレビに映った神戸の様子を
見て絶叫した事を覚えています。

Yo
(34・男性・尼崎市・)
2014年12月31日 23:26
高架下の居酒屋で送別会

大学四年、学生生活最後の冬。約4年間お世話になったアルバイト先での勤務を3日前に終え、三宮高架下の居酒屋で盛大な送別会を開いてもらいました。夜遅くまで楽しみ、名残を惜しみつつ皆さんと別れ、翌朝、震災。居酒屋も、アルバイト先の店も全壊してしまいました。人的被害が出なかったことが救いでした。

けい
(41・女性・神戸市須磨区・講師)
2014年12月31日 23:00
夕焼けが…

震災の前日、仕事が休みだったので長崎屋迄買い物に行きました。帰るのが夕方だったので夕焼けが異常に明るかったのを覚えています。1年前のアメリカでの地震で、あーもしかして地元で地震あったらアパート潰れちゃうねって妹と話した事を思い出しました。

千鶴
(40・女性・神戸市・)
2014年12月31日 22:21
お月さまが真っ赤でした

その当時、私はまだ未婚で実家住まい、年末に真ん中の姉が里帰り出産をして、上の姉も東京から神戸に出張がてら、ひさしぶりに人数多めで高砂の実家に家族がそろっていました。
そんな夕方、父が「今日のお月様、真っ赤や」と言うので、みんなで見に行くと、オレンジ色をさらに赤くしたようなお月様が見えました。
その後だったか、震度1の地震がありましたが、まさか次の日、あんなことになるとは夢にも思いませんでした。

野村 典子
(46・女性・神戸市北区・パート)
2014年12月31日 22:14
母の言葉

母が「前の日に地震があって、あんたが『もしかして大きい地震がくるんちゃうか』って言ってたのが忘れられんわ」と言っています
実は前日の事は地震も自分が話したことも何も覚えてないのです…
たまたま居間の炬燵で寝てしまい、コンタクトを洗い忘れていたのを洗いに洗面所にいました。
もし自室で寝ていたら本棚が倒れてきていました

まあ
(42・女性・神戸市西区・会社員)
2014年12月31日 21:06
地震を心配した兄

あの前日のことは忘れることはできません。東京在住の兄から電話で「地震に気つけや」と。仕事で大阪に来て今日はホテルに泊まるということでした。私達家族は、「地震は東京が心配なのに、何を言ってんねやろ」とわらっていました。
そして、思わねことが起き、家屋が倒壊し最愛の母が亡くなりました。兄に聞くと、こちらへ来る新幹線の中で読んだ週刊誌に出ていたと。
悔む事ばかりです。
この悲劇を繰り返さない様教訓を語り伝えていきます。

山本昇子
(67・女性・滋賀県・主婦)
2014年12月31日 19:47
医師になって1年目でした

医者になって1年目の私は、もうすぐ未熟児が生まれるとのことで病院で待機していました。そのときは三つ子さんも入院していました。はっきり覚えていないのですが日付が変わる前後くらいに無事生まれて、元気だったので2時前くらいに自宅に戻りました。風呂に入り、その日は研究発表が控えていたのでその準備をして、これでベッドに寝たら起きれないな、と思ってコタツでうたた寝していたら地震が起きました。あの赤ちゃんの生まれる時間がもう少し遅かったら、私は風呂場(ガスで沸かしてました)にいて震災にあったかも、と考えると生きていなかったかもしれないと考えることがよくあります。あの赤ちゃん、確か無事退院されたと思いますが、元気にしているといいな。

じゅん
(46・女性・神戸市須磨区・小児科医)
2014年12月31日 18:39
大阪に行ってました

大阪に行っていて、地震の数時間前に
崩落した阪神高速を走っていました。
地震の時は、爆睡していましたが、
テレビや、人形ケースが落ちてきて、
目が覚めました。
実家は、春日野道で、ぶっつぶれて、
両親を探しに行きましたが、
お寺に避難していました。
その後両親は、急に弱くなり
数年後に亡くなりました。

はざま
(71才・女性・神戸市北区・主婦)
2014年12月31日 15:51
仕事でした

1月16日は振替休日ながらも仕事、前日まで須磨区の山の手にある我が家で一緒に過ごしていた当時の婚約者はその日の昼に新神戸から新幹線に乗って群馬県高崎市に戻りました。

そして翌日、私は家の寝床で震動に耐えました。本当に怖かった。
あの朝の恐怖が4年近く前の東日本大震災でもよみがえり、精神不安定が1年続きました。
あの朝から20年を迎える神戸で、これからは現住地にも震災時の体験や神戸のすべてを伝えていけるよう、今から神戸そのものと向き合っていきます。それが今の私に、神戸のために出来ることです。

たかしろなおみ@TENxTEN作家
(45・女性・群馬県高崎市・派遣社員)
2014年12月31日 14:08
新神戸オリエンタル劇場

当時夜間大学生で試験期間中でしたが、楽しみにしていたお芝居が神戸で上演されていた為、ソワレに参加するため新神戸オリエンタル劇場へ。三宮は年に数回遊びに訪れる大好きな街で、その日もお芝居帰りにいつものルートで阪急三宮駅へ。帰りの電車は21時前だったと記憶していますが、その翌週も同じ劇場に別の公演を観に来る予定だった為、気持ちを三宮に残したまま家路に着き、翌日の試験に向け明け方まで炬燵で勉強していた所、京都にも関わらずあの大きな揺れが・・・ 慌てて付けたテレビの中には、阪急三宮駅の有り得ない姿が映し出され、つい先程歩いていたあの場所が・・・と震えを抑えるのが大変でした。

さっちゃん
(41・女性・京都市・会社員)
2014年12月31日 12:32
神戸に住む叔母が…

忘れもしない、1月16日。私は学生で当時の彼氏と垂水の方へドライブしました。夕刻淡路島方面は綺麗な空。でも何の勘もないのに何だかこの世の終わりみたいにしんみりした気分。叔母の住む須磨区を通りかかると、後ろ髪を引かれる思い。いつまでも車中から後ろを見て永遠の別れみたい…。そのまま夜あの倒壊前の阪神高速で帰りました。

震災の日神戸に住む叔母はなくなりました。

悲しいです


いつまでもあの日のことは忘れません

東田ゆみ
(40歳・女性・兵庫県川辺郡・会社員)
2014年12月30日 20:53
バスガイドをしていました

当日、私はバスガイドでした…16日は乗務もなく次の日は朝の5時出勤で修学旅行生のスキーバス乗務予定になってましたが、信州の雪の事情でキャンセルになり私は同期と4時半まで電話でお話をしてました…それから約1時間ちょっとで阪神淡路大震災…自宅は長田…ウチは大丈夫でした。もし、予定通り乗務だったら私は既に出勤して会社で地震にあってたと思います…勿論会社は全壊…そう考えると今、私はいなかったかもしれません…20年と言う月日は流れても、あの日の傷みや経験は消える事はありません…

Mayumin
(42・女性・西宮市・主婦)
2014年12月30日 19:33
西区の実家にいました

僕は、約二年間くらい
精神的に不安定で引きこもり生活していた。
震災の深夜2時くらいに、秋田に住む友人に、東北地震は、大丈夫だったたと、安否確認の電話していた。
電話を切って、数時間後に、地震が発生した。
暗闇の中から、父親から、大丈夫かとの声が、聞こえてきて
真っ暗闇で、なにが起こったのか、わからなかった。
約40分後くらいに、父親に助けてもらった。
それ以来、地震による、パニック障害とPTSD持ちに
なったが、3月下旬に、群馬県から、当時、看護学生と医大生の友人が8人で、長田区の病院のボランティアに来てくれた。
それがきっかけで僕もボランティアに参加した。
地震は、今も怖い。
地震の度に、今でも、パニックで不穏や失声になる。
友人だけでなく、全国から、来てくれた、ボランティアの方に、感謝です。
あと、長田区でボランティアしている時に、震災で家を失った、外人の方も
炊き出しなどをしてくれた。
この20年、あの時に救われた命が
皆さんのおかげで今も支えられています。
ありがとう。
震災当時は、西区の実家にいました。

しんいち君
(43・男性・横浜市・無職)
2014年12月30日 18:32
夕方から陣痛が…

16日の夕方から陣痛が始まっていた私は、寝る事が出来ず病院にも行けずに(陣痛の間隔が長かったので)夜の間中、生まれて来る子供の名前を考えながら起きていました。その時に飼っていたハムスターが、いつも以上に車を回していたので、今晩はやけに元気だな。と思いました。病院へ行ったのは地震の1時間前、子供が生まれたのは17日の昼過ぎでした。

ranpi
(50・女性・神戸市灘区・パート)
2014年12月30日 16:56
生田神社にお参り

お父さんの友人のおじさんと妹と3人で三宮に遊びに出かけていました。
何のために行ったのかはさっぱり覚えていないのですが、帰る前にたまたま生田神社でお参りして、次の日にあの大地震。
家はあまり被害がない地域だったので電気が昼ごろの復旧したのですが、真っ先につけたテレビで生田神社がつぶれた映像を見て衝撃を受けました。

さゆ
(32・女性・神戸市須磨区・会社員)
2014年12月30日 16:42
風邪でダウンしてました

長田の長屋で、家族全員風邪でダウンしてました。
「明日が大学願書の提出締め切りやなぁ」って思いながら寝込んでました。

たく
(39・男性・愛知県碧南市・農業)
2014年12月30日 16:36
食器棚が揺れた

今でもはっきり覚えているのは、16日の夜、家族でテレビを見ていたとき、ガタガタと食器棚が音をたて電気も揺れていたので地震だとわかりました。関西は地震がないと言われており、今まで体感するような揺れを知らないので、その時の揺れはドキドキしました。
テレビでも、速報で出るだろうと見ていましたが、出ないので、おかしいなと話しをし、その後は何もなかったので気にせず寝たのを思い出します。

スマイル
(46・女性・神戸市垂水区・会社員)
2014年12月30日 15:42
ハーバーランドの映画館

あの日の前の日、今の旦那さんと二人でハーバーランドの映画館へ”スピード”の映画を見に行きました。そして、夢か幻か映画の場面の続きでバスに乗ってるのか・・・???マンションの6階に住んでいたのですが、ドーンドーンユッサユッサと揺れ続き超恐怖でした。マンションは半壊、温水器が倒れ家の中は水浸し、しばらくは外国のように靴を履いたまま生活しました。 食器棚、テレビ、パソコン、冷蔵庫、箪笥など見事に倒れました。

あの恐怖からもう20年経つのですね。復興は見事なものですが、二度と味わいたくない経験です。

よね
(65・女性・神戸市西区・主婦)
2014年12月30日 14:50
友達のお見舞いに

あの震災の前の日は高校時代の友達の見舞いをしたのです。実は成人式の前に電話があって危篤状態になっている事を知らせたのです。用事で行ったついでに見舞いもしたのです。その時には親族などはいなかった事で「明日も来なきゃなぁ」と思ったのです。しかし、翌日の震災が起きて病院が気になったのです。震災3日後に病院に行ったのです。病室に入って顔を見た時には目を開けてたいので笑顔を見せたのです。これが私にとっては最後となったのです。その後ですがお姉さんにあって挨拶などしたのです。しかし、親はいなかったのです。この時に病院側から自宅待機か病院を移転なのか迫られていたかも知れないのです。移転先の病院で亡くなったので一番悔やまれていますが、あの笑顔は心の中でも忘れられません。

崎山 節子
(40歳・女性・鹿児島県南さつま市・)
2014年12月29日 21:59
三宮で買い物

三宮に買い物に出かけていました。特に用事がなかったのですが、ダイエー三宮リビング館やセンタープラザなどを、どういうわけか懐かしむような感じで見て回っていました。まさか翌朝建物に大きな被害が出るとは思いもしませんでした。

なかかず
(52・男性・西宮市・会社員)
2014年12月29日 20:19
京都で娘の成人式

娘が成人式で京都より帰ってき、その夜食事をし二人で初めてスナックでカラオケ・飲食をして深夜に帰宅しました。次の日私はゴルフ大会の予定・娘は京都に戻る予定でした。
まさかすごい震災など考えられなかったでした、幸い私の家族は皆無事でしたが店舗兼住宅は全壊してしまいました。現在は家のローンで苦しんでいますが当時のことを思い出し頑張っています、がんばるぞ~

こしちゃん
(66・男性・神戸市須磨区・ヘアーサロン経営)
2014年12月29日 17:21
大阪で会社のイベント

1月15日、16日は会社のイベント行事(住宅関連、家具等販売会)が、大阪で2日間開催しました。見積書や注文書の売上予定金額合計、金額1億円の書類を持ち帰っていまし。
17日(火)は休日、目標金額達成感もあり、ゆっくりと眠っていましたが、5時頃からトイレに行きたく寒いので辛抱していました。そこへ「ゴーとなにやら地鳴りがし、突然ゴン」とゆれだしました。直ぐに飛び起き、枕元のタンス幅=2.7Mが倒れ無いように両手で左右押えました。タンス上部の天袋も落ちないようにと。その間、もう駄目かなと思いながら必死でした。揺れが治まって家族4人、直ぐに車に乗って近くの公園で待機した事忘れません。持ち物に1億円の書類を持ち出すか、1番は家族が大事と躊躇しました。結果は当欄では言えません。しかしながら、被災地をテレビで見ながら想定出来ない惨事に深い悲しみと、自分達で出来る事、水を各家庭へお届けしか出来ませんでした。
その後、会社命で、仮設住宅建設(220戸)3月末迄の期限に向かい、気力、体力限界迄働く事は生涯の体験を頂き、次世代へ伝える活動に、現在学ぶ機会を得ています。

建築士&防災士「ピーターパン」
(67・男性・神戸市西区・建築士)
2014年12月29日 16:24
家族でポーアイのスケートリンクに

震災の前日は、夫が所属する野球チーム、神戸勤労軟式野球連盟の、リーグ戦開会式(東灘区魚崎浜公園)に、子供たち4人を連れて出席しました。その後すぐに、ポートアイランドの、スケートリンクで遊び楽しく忙しい1日を過ごしました。もう皆、疲れて爆睡していました。
翌朝の大地震、11歳の長女は高熱、次女の上にタンスが落ち、夫が凄い力で持ち上げて助けました。私も擦り傷のみで家族は、命ありましたが、お水を貰いに並ぶ生活、マンションの友人のおにぎり、今でも忘れること出来ません。今でも前日の楽しかった思い出を懐かしんでいます。開会式のあった球場も、神戸の野球場は、何年も仮設住宅が立ち、野球どころではありませんでした。
本当に亡くなられた方々のご冥福をお祈りしています。

ジンジン
(54歳・女性・神戸市垂水区・主婦)
2014年12月29日 15:06
資格試験の追い込み時期

1995年1月16日は私にとって資格試験前日の追い込みの大切な時期を迎えていました。当時、私は二十歳で親兄弟と六甲に住んでおりました。前日の神戸ワールド記念ホールで成人式を終え、明るい未来と希望を胸に試験勉強の追い込みを迎えていました。その日は全く一歩も家から出ることなく過ごしました。震災で当然試験は延期となりましたが何とか合格しました。ただ前日に気晴らしいにでも家の周りを散歩して見慣れた風景を目に焼き付けていたら…と今でも悔やんでしまいます。

翔一
(40・男性・明石市・会社員)
2014年12月29日 12:22
まん丸のオレンジの月

前日、マンションの管理組合の会合があり、帰りに空を見上げると真ん丸のオレンジ色の月が出ていました。その時は、今日の月はなんか変だなとは思ったものの深く気に留めていませんでした。

次の朝、ドーン!という縦揺れで目が覚めました。激しい揺れが続く中で、茫然自失というか、「これが世界の終わりということなのか。」などと、もうすでになすがままな気分になってしまっていました。夫が部屋を飛び出て、廊下から子供たちに「ベッドから動くな!」と叫ぶ声で、はっと我に帰るという体たらくでした。2段ベッドで寝ていた子供たちは、そこにいれば安全で、動かないことが一番だったのですが、いざという時に全く子供のことが頭に浮かばない自分に驚きました。あまりに衝撃的な出来事に遭うと普段わからない人間の本質が現れるのかと、自分に自信がなくなりました。

第一弾の揺れが収まって家族で居間に集合しましたが、そんな薄情な本質の反省とともに全員無事なことにほっとしました。しばらく何が起こったのかどうなっているのか、わかりませんでしたが、電気がついてテレビで神戸が燃えているのを見て涙が出ました。

それほど被害のなかった我が家でさえ、その恐怖と自然の脅威への脱力感ははかり知れないものでした。
今生きていることへの感謝と、亡くなられた方への追悼の思いは忘れないようにしたいと思っています。

晃子
(59・女性・神戸市北区・なし)
2014年12月29日 10:19
夜空にきれいな月

連休も仕事で疲れ果てて
大阪から電車に乗って
いつもより一つ先の駅まで帰ってきました 長男と嫁がインフルエンザにかかり嫁の実家にお世話になっていたからです
帰りがてら見上げた夜空にとても綺麗な月が浮かんでいました
思わず鼻歌が出そうな月を追い越し
急いで帰った思い出が・・・
その夜明けから 世界が変わりました
今でも綺麗な月を見ると 怖くなります

イワン君
(47・男性・明石市・自営)
2014年12月28日 22:58
結婚して1カ月半でした

結婚して、1カ月半ばかりが過ぎたころの出来事でした。年末年始のいろんな挨拶を終え、ようやく新婚生活が始まろうとしていた矢先の出来事でした。二人とも命はとりとめたものの、自然の猛威に、新婚生活も夢もなにもかもが吹き飛ばされて、一時は、生きる望みを失いそうなくらい、心がくじけそうになりました。まわりの人にいっぱい助けてもらい、ようやく生きる力を見いだし、人生をリセットすべく生活を立て直しました。当時、助けてもらった人たちの何人かは、この世を去り、またあの頃を共有できる人たち、場が少なくなってきていることに寂しさを感じ入ります。

hyde
(48・男性・西宮市・)
2014年12月28日 22:46
娘は7カ月でした

連休は単身赴任先から妻と娘の待つ神戸に帰っていました。まだ7ヶ月の娘のために、今はなき星電社で加湿器を購入したのを覚えています。娘をお風呂に入れて、寝かしつけてから、16日夜に単身赴任先に戻りました。
地震発生時は、びっくりして跳び起きました。そして、揺れが収まると予定の行動に移りました。海が近いので津波を想定し、(奥尻島の津波がありましたので)あらかじめ、高台の避難先を見つけ、避難訓練も行っていました。すぐに外に出て、バイクで逃げようとしましたものの、30センチの積雪。逃げられません。これは想定外でした。しかし、ご近所も全く避難する様子もなかったので、開き直って寝てしまいました。その時は、神戸があんなことになっているとは想像もしませんでした。奇跡的に電話が繋がり家族の無事は確認できたものの、仕事どころではなく、テレビで報じられる、1時間ごとに倍増する死者数に心が張り裂けそうでした。その日は、早めに仕事を切り上げ、粉ミルクや食料を調達し、翌朝バイクで被災地に向かいました。六甲トンネルを抜けると美しい神戸の街のあちこちから煙りが立ち上り、ガスの匂いが鼻をつきました。涙が出ました。悲しく、悔しかった。
まさかこんなに早く地震が起こるとは思いませんでした。というのも、震災前の11月には、猪名川群発地震に関連して、神戸新聞に警告記事が出ていましたので、単身赴任が終って4月に神戸に帰ってから地震対策をするつもりでした。完全に先手を取られてしまったのです。当時奇跡的に無事だった娘は今20歳。一緒にお酒を飲むまでに成長してくれました。
我が家ではこの教訓を生かし、次こそ万全の体制で災害に備えるべく、水と食料、燃料の備蓄を進めています。東南海地震は、広い範囲に被害が想定されるため、2週間分の食料と水を確保しています。食料は、真空パックのお餅です。熱と調味料さえあれば、主食にも、おやつにもなる点が乾パンなどより優れています。
20年を機に、災害への意識がますます向上することを願っています。私は、震災を警告してくれた新聞記事はスマホに保存して、時々読み返します。


ヤン
(50・男性・東灘区・公務員)
2014年12月28日 22:33
養護学校の卒業生の成人式

県立神戸養護学校(現神戸特別支援学校)で20歳を迎えた卒業生の成人式があり、出席しました。知的障害のある青年たちにとって、自治体が開催する成人式と違い、一人一人を大切にしたとても温かく楽しい成人式で感動しました。
一人一人の成長を思いながらその日は床につきました。

田中靖国
(77・男性・明石市・無職)
2014年12月28日 20:26
息子が発熱

ちょうど9ヶ月の息子が熱を出し明日病院連れて行かないと…と思って小さな揺れ(記憶では震度1?)地震嫌だな〜もし来たらこんな赤ちゃんいるのに…なんて思い何故か座薬とか子供の用意をして寝たのを思い出します。もちろん震災日は用意してた物はひどい揺れで手探りで探しても見つかりませんでした。

ゴット
(45・女性・神戸市長田区・専業主婦)
2014年12月28日 18:39
神戸新聞から連絡

1995年1月16日の午前中神戸新聞読者の報道写真コンテストの年度賞受賞の連絡とインタビューを受け私の写真も送って下さいと言われたので手続きをして、深夜勤務の仕事に出勤しました。

Mickey Mouse
(67歳・男性・神戸市垂水区・無職)
2014年12月28日 15:04
眠れない夜でした

1995年1月16日の夜はなぜか泣けて泣けていつまでも眠れませんでした。しくしくというより号泣で、なぜ悲しいのか、なぜ泣いているのか自分でも分からず、ただただ泣き続けていました。泣きながら「この世の終わり」のような絶望的な気持ちになったことを、いまもはっきりと、その気持ちを覚えています。

こばと
(46・女性・姫路市・主婦)
2014年12月28日 12:15
ちょっと早い誕生会

18日が末っ子の2歳の誕生日なので、家族でちょっと早い誕生会をしました。
そした夕食の準備をするとき、明日の分まで一緒にご飯を炊いておこうと多めに炊いたのを覚えています。
どうしてその日そんなことを思ったのか不思議ですが、翌朝、子供たちにラップでおにぎりを作って食べさせることができました。

パセリ
(54・女性・神戸市垂水区・パート)
2014年12月28日 11:50
小学校6年生でした

当時、小学校6年生でした。
前日から風邪を引いてしまい、母親と一緒に寝ていました。
朝、凄まじい揺れと母親の叫び声で目が覚めました。
頭上にタンスがあったので一回目の大きな揺れがおさまった後、急いでリビングのテーブルの下に避難しました。
当時住んでいた神戸市西区は幸い大きな被害はなかったのですが、テレビを付けると燃える街が映っていました。信じられませんでした。
またテレビで亡くなった方と行方不明の方の名前が読み上げられていたのがとても記憶に残っています。

たかし
(32・男性・神戸市東灘区・)
2014年12月28日 11:19
仲良し3人組でおしゃべり

ようやく取れた平日の休み、仲良し3人組で久しぶりに談笑を重ねた1日でした。夕方の別れ際、阪急の三宮駅で猪名川に住む友人に「最近、群発地震が多いから気をつけてね」と別れたその数時間後、あの地震が起きました。長田の下町に住んでいた私は、突然、家ごと突き上げれ、爆撃でもされたかと思うような衝撃のなか、「こわい、こわいー!どーしたらええん」と叫ぶ妹に「布団から出たらあかん!じっとしとき」と叫んだのを、はっきりと覚えています。すぐに父が「大丈夫か!」と叫んでくれ、しばらくじっとしていました。母は立ち上がったため頭に8針縫うケガをしたのですが、それだけで済みました。今でも3人で会うと、この話が出てきます。みんな無事でよかったねということと同時にね。

スカイハイ
(47・女性・神戸市長田区・会社員)
2014年12月28日 11:02
赤い月に違和感

あの日の前日、赤い月を見て 何か変だな〜!でも綺麗だな〜!と思いながら 家路に着いて その夜を終えました。
朝方、凄い感覚を経験した時、何が起こってるのか理解出来ずただ 「助けて〜」と 身を守るのに必死でした! 当時 マンションの、7階に住んで居たのですが そのマンションを巨大な怪物、魔物が掴んで振り回しているような そんな感覚で凄い恐怖を感じてました。揺れが収まったその時、隣の部屋で寝ていた幼い子供達は?どうなってるんだ!? 生きてる?
夢中で名前を呼びました! 主人公と一緒に寝ていたのが幸いしてました。必死に子供達を抱きかかえ崩れてくるタンスを右腕だけで押さえてくれてました。
命は助かりました!
出口も塞がれた家から出られたのはそれから数分後の事…辺りは人の叫ぶ声と火災の煙で薄暗く この世の物とは思えないくらいに一変していました。
あれから20年…こうして無事に生活出来ている事に感謝し、震災の事を忘れず後世に語り継いで行かなくてはならないと思います。

モモママ
(54・女性・神戸市中央区・保育士)
2014年12月28日 10:50
3歳でした

当時私は3歳でした。ですが、鮮明に覚えています。
朝方に地震が起き、私は宙に浮き、母に押さえてもらった記憶があります。そして、周りをみてみると、家は傾き、食器棚のものは殆ど粉々に割れ、シャンデリアは2,3個天井から落ち、テレビは落ち…とても怖かったのを思い出します。
私の家は商売をしていますが、そのお店は火事で失い…
祖父と会下山公園から火事で燃えた、あの光景を今でも覚えています。
今でも消防車のサイレンはあの日を思い出すので、私にとっては恐怖の音でしかありません。
私の親戚も全員神戸にいて、同じく商売しておりましたが、誰ひとりとして大きな怪我もなく、「奇跡だね」と母に話した覚えがあります。
あの日から20年が経ち、私も今年から就職致します。
あのような地震がこないことを祈りつつ、兵庫県南部地震で亡くなられた方々に黙祷を捧げたいと思います。

優季
(23・女性・兵庫区松本通・事務員)
2014年12月28日 10:26
20年なのですね

もう、かれこれ20年たったのか!
42才ですが、今でもあの日、あの時の
状況は、はっきりでてきます
寒さもハッキリ覚えてるし
本当に怖かったですし、毎年同じ月同じ日になると、また地震きそうな感じです
私は、三宮界隈を探索に自転車で、いきましたが、見れなかった
まさか!あんな事になってるなんて
思わなかった!道路やら何もかもめちゃくちゃで、特に長田なんて火災で、信じられなかった
でも、もう地震なんて経験したくないし
したくもない!
亡くなられた方々に、ご冥福お祈りします
私の同級生も震災で亡くなりました
寂しいです

こさっち
(42・男性・神戸市中央区・)
2014年12月28日 10:11
子供たちとスキー場へ

よく覚えています。
前日は子供たち4人を、兵庫県内のスキー場に連れて行って、ああ、また明日から仕事か~と思って床につきました。
6:17「メキメキメキ」という爆音とともに、ベッドから2~30cm宙に浮きました。
本棚が、スローモーションで倒れ、まず本が落下。次にからの本棚のみが倒れたので、下になった私は無傷でした。
まだ、真っ暗で、TVは映らない、情報が入らない。
ラジオは、電池を抜いている。小学3年の娘が機転。「私のおもちゃに電池あるで」・・・最初は小さな被害の報道。・・・

 浜口 卓也
(60・男性・広島県安芸郡府中町・無職)
2014年12月28日 07:23
ゲームショップを経営

1995年1月16日
その日、振替休日が終わり、ゲームショップを経営していた私は明日の休みを楽しみにしていた。
店に最期に現れたのが、ワカマチだった。
彼は、ゲームはやらないのだが、店の前に置いてあるビデオゲームをやりたくて集まってくる不良たちのボスだ。
私は、彼らには、本当に厳しいおっさんだったと思う。
当時、調子に乗って暴走したり、悪い事をする彼らを力ずくで怒ってたしなめていた。
そんなに怒られたら、もう近づかなくなりそうなものだが、何故か彼らは、私の店に寄っておっさん元気にしているかと、屈託もなく顔を出していた。
あるときは、おっさんの店で万引きしている奴を捕まえて、壁に顔をこすりつけてやったでと。。
そんなことして、お前ら警察沙汰になったら大変だからって諌めるのに必死だった。
十数校の中学を支配していたガキ大将のワカマチも高校に進学していた。
一月十六日に顔を出したのが最期になるとは。。。
彼は、高校に進学してからは、不良を辞めていた。
理由は、母子家庭だったのだが、母ちゃんに折角高校に入れてもらって、俺がいつまでも不良してたら申し訳ない。
俺は、早く一人前に高校を卒業して母ちゃんの役に立ちたいってものだった。
彼は、学校を終えるとすぐにたこ焼き屋でバイトして学費と家の生活費にと家に入れていたのだ。
16日に、彼が家に帰る途中に、私の店に寄って、おっさん元気にしてるかって。
おう、お前も気張りや、さようならって店から送って、店を閉めたところだった。
そして、17日の朝を迎えた。
そう、あの阪神大震災が、私の店を襲ったのだ。
店は、倒壊してめちゃめちゃだった。
そんなことは、どうでもよかった。
子供たちが、どうなったのかが心配でならなかった。
だが、恐ろしい現実が待ち構えていた。
ワカマチが家の下敷きになって帰らぬ人となっていた。

そんな彼らの友人が、おっさん負けんなって
私の潰れた店に集まってきて、新聞記事のような出来事を起こしました。
多分彼らは、ワカマチが、おっさんが店をまたやり直したら戻ってくるって考えたのかもしれません。

自分のことが新聞記事になったものです。

西宮のゲームソフト店
なじみの高校生ら商品掘って励ます
脱サラから3年。ようやく軌道に乗った家庭用ゲームソフト店が、地震でつぶれ、大量のソフトは、がれきに埋もれた。
途方にくれる店長の姿を見かねて、なじみの高校生たちが、がれきの山に分け入り、ほこりだらけになりながら五十八本のソフトを掘り出した。
「また店を開いて」。
高校生らの励ましに、いったんは、店をあきらめた店長も「行商からやり直す」と再起を約束した。
兵庫県西宮市のゲームソフト店を一昨年三月、脱サラの、佐藤さん(31)が始めた。
その一年前、佐藤さんは、大阪府に店を構えたが、泥棒に入られ、商品をごっそりと盗まれた。
「こんなんで負けてられない」。
西宮で、店舗を借り、50本のソフトを並べた。
そのソフトが、ようやく5千本を超し、安定的に利益が、あがるようになったところへ地震。
店は、ぺしゃんこに押しつぶされた。
佐藤さんは、今月16日、商品を取り出そうと、崩れ落ちた屋根のすき間から入り込んだが、手がつけらず、掘り出すのをあきらめた。
この光景を、客の一人で、佐藤さんを「おっさん」と呼んで慕っていた県立西宮北高校の松岡君が、帰宅途中に見かけた。
「手伝う」とう松岡君を、佐藤さんは、「危険だから」と、やめさせた。
松岡君も自宅が、壊れて、伊丹市に引っ越していたが、避難生活をしている仲間に連絡。
県立西宮西高校の松本君ら四人がこのほど、二日がかりで掘り起こし作業をした。
崩れ落ちた屋根の一部をどけ、二階の床をめくりあげた。
店内には、水道管の破損で水浸し。
ソフトの大半は、押しつぶされ、水に浸かって使い物にならない。
それでも松岡君らは何とか使えそうな五十八本を掘り出し、佐藤さんに届けた。
佐藤さんは、「彼らの行為で、もう一度、やってみようという気になった。
手持ちは、わずか十万ほどだが、震災で散り散りになった常連客が集える店を早く構えたい」と話している。

佐藤
(50・男性・札幌市・自営業)
2014年12月28日 02:03
スキー場から帰宅した日

前日は3連休を利用して家族でハチ北高原スキー場へ車で行って帰ってきた日でした。スキー場を出たのが夕方になり国道9号線沿いの食堂でうどんを食べたのを覚えています。国道も播但有料道路も第2神明道路もすごく混んでいて帰宅が深夜になり疲れてすぐに熟睡しました。当日はゴーという地鳴りで目が覚めましたが、まさか神戸で大地震があるとは思わず、当時も南海地震の発生が話題になっておりそれが起きたのだと思いました。地震直後は家の外に出ても真っ暗で様子が分かりませんでしたがテレビがつく様になり長田辺りが震源ではないかと報じられたりしてびっくりしたのを覚えています。

MM
(59・男性・神戸市西区・)
2014年12月28日 01:34
梅田でデート

1/16。梅田で当時の彼氏とデートしていました。
梅田の高層ビルで食事をしていてふと彼氏と「関西で大きい地震起きたらどうなるやろねぇ」なんて話をしていました。
でもその会話には「起きへんやろ」ってニュアンスがこもっていました。
その彼氏とその次にデート出来たのは春になってからでした。

ヨッシー
(38・女性・尼崎市・)
2014年12月28日 01:26
当時小学5年生

当時小学5年生だった私は、1月16日、自宅にいました。特別に何をするでもない、普通の休日だったのですが、夕方くらいに震度1の地震があったことを覚えています。しかも、地震の起こった、その数秒の記憶だけが、なぜか鮮明に残っています。その前後のことは全く覚えていないのですが、その瞬間だけは、カラー写真のように思い浮かびます。次の日の大きな地震の記憶よりも鮮明に。なんだか不思議です。

きらきら
(31・女性・韓国 ソウル・公務員)
2014年12月27日 23:15
用事で高校へ

1995年1月16日、休日でしたが兵庫区にある高校に、卒業制作用の立体作品を先生にカメラで撮影してもらうため登校していました。震災後に聞いたのですが、撮影後私が下校した後に、なぜかふと思いたって、撮影していた台から作品を下ろしてくれたのだそうで、作品はほとんど損傷がありませんでした。
結局、卒業制作発表会もなく、また、ほとんどまともな授業もなく卒業を迎えました。卒業文集的なものに、当時長田に住んでいた同級生の、服も本も燃えたけど、卒業制作の作品が燃えたのが一番悔しいと書いてあったのが印象に残っています。

paprika
(38・女性・兵庫県西宮市・)
2014年12月27日 22:33
晩御飯がおでん

15日に成人式を済ませ、16日にレンタルしていた着物を返して、17日に学校でお互いに報告しよね!!って言ってました。
16日の晩御飯におでんを食べたのですが、今でもおでんをすると、当時の話が出てきます。

みーりー
(40・女性・神戸市東灘区・会社員)
2014年12月27日 22:33
普通の明日が来ると…

阪神淡路大震災が起こる一週間くらい前に、近所にいた猫たちや煩いくらい鳴いていた鴉の姿が消え、やけに静かだなぁと思いました。
赤い月と兵庫運河の橋を埋め尽くすほどの船虫の大群をみて、気持ち悪いなぁとぼんやり思いました。

1995年1月16日。
当時の私は高校受験を控えていながらも勉強が嫌いで、連休最終日だったので『明日は学校を行きたくないなぁ〜』って、呑気に考えながら友達に借りたビデオを明日に返そうと見て寝ました。
当たり前に変わらない、普通の明日が来ると思っていました。

地震当日…身体を下から鈍器で殴られたような衝撃を受けました。
家に車が突っ込んで来たのかと思いました。縦に揺れ横に揺れ…家族の叫び声や泣き声が、布団の中でも聞こえてきました。
頭の中が妙に冷静になり、何とかしなければと思い、パニックになる家族に必死に指示を出しました。
私はTVと本棚の下敷きになりましたが、なんとか自力で脱出しました。
ガラスが散乱していたので、靴を履き作業し易いように、GパンGジャンに着替え、兄弟や幼馴染とご近所のお婆ちゃん達を助けに行きました。

西の方角からは黒い煙があがりました。『ガス漏れ中、火気厳禁』と貼紙を沢山かいて貼り歩きました。
須磨に独居していた祖母を歩いて家族が迎えに行きました。大規模な火事が起こり、長田方面まで大変な事になっていたと知りました。

飲み水の確保にお寺の前を通りました。白いシーツに包まれた何かが、敷地内に入りきれず道端に並んでいました。
冷たい風に吹かれて白い布がめくりあがって見えたものは、青白くなった手足でした。白いシーツに包まれた何かは、沢山の御遺体で胸が苦しくなりました。

電話も混線し繋がらないので、友達や当時の彼氏も行方不明で、何回も自宅や避難所になっていた学校などに、必死に泣きながら探しに行きました。

パニックになった大人達が救援物資を奪い合う中で、幼稚園児の食べ盛りの弟が、何も食べずに動き回る私をみて、オニギリを譲ってくれようとした優しさは、今でも忘れていません。

どんちゃん
(35・女性・大阪府・看護師)
2014年12月27日 22:18
ホテルでjazzの新年会

1995・1・16日 夕がたから六甲アイランドのホテルでjazzの新年会が有って多數のジャズバンドが出演して私達夫婦も着飾って参加していた。大いに飲んで大いに歌って踊ってバンドも観衆も最高に盛り上がっていた。10時にお開きになってホテルのシャトルバスで三宮まで帰ってそれからライブハウスへの梯子でまた飲みなおし
家に帰って寝たのが2時過ぎだった。その2時間後から地獄になった

Kはやし
(79・男性・神戸市兵庫区・無職)
2014年12月27日 21:50
高校一年生でした

当時、私は高校一年生でした。
三連休の最終日という事で、家でゆっくり過ごしていました。
学校や部活が大好きだった私は、ワクワクしながら教科書や部活の準備をしてカバンに詰めたり、
就寝前には、母に教わりながら初めて自分でお弁当を作りました。
そして初めてのお弁当作りに少し疲れてしまったようで、コタツで眠ってしまいました。
その数時間後、あの地震が来ました。
もしいつものように二段ベッドの上階で眠っていたら、もっと怖かったと思います。

家族や家は無事でしたが、校舎が半壊し、卒業までプレハブ校舎での学校生活となりました。
グラウンドが使えなくなりましたが、付近の方が場所を提供して下さり、部活を存続する事が出来ました。
あらためて思うのは、今ある環境は決して当たり前のものでは無いという事です。
たくさんの方の色々な思いの詰まったこの神戸で、すべてに感謝しながら、
これからも日々を大切に暮らして行きたいと思います。

Y
(35・女性・神戸市中央区・)
2014年12月27日 20:50
異様に赤かった月

月が異様に赤かったのが印象に残っています。その後も赤い月は時々見ますが、あの日ほど赤々とした月は未だに見たことがありません。
私自身は、妻の手作業の内職の手伝いで、姿勢が悪かったのか、普段は起こらない強烈な腰痛にみまわれ、湿布と腰痛ベルトを巻いて就寝しました。地震後も月末あたりまで腰痛は続きました。後あと知ったことですが、体に変調をきたすこともあるとか。あれからあんな酷い腰痛にあったことはありません。

つつ〜ん
(56・男性・明石市・公務員)
2014年12月27日 18:55
「明日から仕事か~」と洗車

地震の前日は1泊2日で白馬乗鞍でスキーに行って帰って来た、3連休最終日でした。
とても穏やかな陽射しで暖かく、
あ〜明日から仕事か〜⁉︎と楽しかったスキーから現実に引き戻される思いの中で車を洗ったのを覚えています。
現実どころか悪夢の震災が来るとは思って無かったですが、下から突き上げられ布団の中で中に浮くくらいの衝撃で目が覚め、初めはトラックが家に突っ込んできたのかと思いました。
翌朝は停電で状況が判らず、車のラジオを聴いて初めて大変な事になっていると知りました。

かず
(46・男性・神戸市北区・会社員)
2014年12月27日 18:38
熱が出て休日診療センターへ

12月くらいから、びりっとくるくらいの地震が頻発していて、関西でも地震多いんやねーなんて話をしていました。年明けからインフルエンザが流行り出し、2人の子ども(当時二歳、五ヶ月)、夫も発熱。連休最後に私が発熱して、当時の休日診療センター(いまは別の場所に移っている)に夫にクルマで連れて行ってもらった。たくさんの患者さんでなかなか順番が回ってこなかったけど、クスリをもらって帰りました。寒々しい天気だった記憶があります。

あきこ
(48・女性・西宮市・パート)
2014年12月27日 18:29
夕方に震度1の地震

地震の前日、地鳴りを伴う震度1の地震が夕方にあったんですよね。母が夕飯の用意してるのを手伝いながら久しぶりの地震、更に前年の12月位に神戸新聞に掲載されてた神戸近辺の地震についての記事を思い出し大きな地震がこの辺でもあるかもしれないって話をしたのを覚えております。心の中では何もなければいいなぁって思ってました…。

ぴっぴ
(46・男性・加古川・会社員)
2014年12月27日 17:13
兄の言葉

震災が起こる前ぐらいから、近畿各地で頻発して小さい地震が発生しました、のテロップをテレビでよく見かけるたびに、兄が「最近の地震の起こり方は変やな」とよく言っていたのを覚えています。
前日の18時ぐらいに板宿へ本を買いに出かけました。
あまり気に留めてもいなかったのですが、今から思えば変に街の雰囲気が静かに流れていましたね・・・、
その時は、無性に本を買いに行きたい!板宿へ行きたいと思いました。
いつも24時には寝ていたのに、夜中に2時ぐらいまで起きていたのも覚えています。
熟睡していなかったから、あの激震ですぐに起きれて脱出出来ましたから・・・、

タボパグ
(51・男性・神戸市須磨区・)
2014年12月27日 17:00
20年前の日記をひもとくと…

20年前の日記を出して見ました。会社の出勤日で遅くなり、帰宅すると妻が「2~3日前に地震があったし先ほども揺れたよ」大きなのがくるのでは、と云います。神戸には絶対に地震はない、と笑い飛ばしました。
翌朝、車で通勤途上に地震に遭遇して車で初めて地震を経験しました。

おっとり
(76歳・男性・神戸市北区・無職)
2014年12月27日 16:47
山陰にいました

身近で小さな地震があっても、阪神・淡路大震災のような地震が来ることは、他人事のように思っていた私は、わが家と知人の二家族で、連休を利用して15・16の一泊二日で、山陰へカニ料理を食べに行っていました。幸せ感に浸って帰宅し、早めの床につき、疲れもあって熟睡していると、突然の地震で目を覚まし、次々に明らかになるにつれ、徐々に現実として受け入れつつも、小学校の研修で尋ねた三ノ宮駅前の新聞会館の状況、たまに通った阪神高速の倒壊など、思い出の地の映像を、何とも言えない感覚で、映像を見続けたのを、憶えています

ジジ
(67・男性・佐用町・パート)
2014年12月27日 16:23
車がぶつかったような衝撃

神戸市西区に住んでいます。
あの年のお正月、主人と4ヶ月の娘と私の3人で四国の実家に里帰りをして、私と娘はゆっくりしてきたらいいと田舎に2週間おり、連休中だった1月16日に私が車を運転し、赤ちゃん連れなので母が付き添ってくれて神戸に帰ってきました。
母はうちに泊まる予定を変更してその日のうちに電車で四国に帰りました。
久しぶりの我が家で主人と夕飯を食べていたとき、家にドーンと車がぶつかったような衝撃がありました。当時住んでいたのはハイツで、車がぶつかる様なところに建っておらず、テレビで地震速報も出ず、二人で「おかしいな、なんやろ?」と窓から外を見たのを覚えてます。
少しすると1回目よりも小さな衝撃をまた感じました。
揺れるというよりドンと、かするような感じでした。
まさか、あんな大きな地震の前触れとは夢にも思いませんでした。

とも
(46・女性・神戸市西区・主婦)
2014年12月27日 16:16
仕事で京都に

1995年1月16日、私は仕事で京都の西京極陸上競技場にいました。
そしてその夜は梅田か神戸に一泊して仙台に帰るはずでしたが仕事が早く終わって
伊丹からの最終便で帰ることになりました。神戸の街は大好きで特に六甲の山からみた夜景が好きなんです。光がとても輝いていて、そこで人が生活しているんだという感じが一番好きなんです。もし一泊していたら見に行ったでしょう。翌朝なぜか早朝に目が覚めテレビの電源を入れると、そこのには関西地方での大きな地震の第一報が、、、。時間がたつほどに神戸の情報がどんどん入ってきました。街から上がる黒い煙、倒壊したビル、倒れた高速道路など信じられない光景でした。本当ならこの場所に私も居たのかもしれません。
テレビを見ながら涙が止まりませんでした。そして会社に志願して神戸の関連会社の応援のため三宮に入りました。震災から3日後のことです。大阪から車で神戸まで入ったのですが大阪は普通の生活、武庫川を渡ると様子は一変してリアカーを引っ張って避難する人、食料を買いだして歩いている人、崩れた家から荷物を掘り出す人、、、
同じ関西でも、この違いに愕然としました。そして関連会社の業務を手伝いながら神戸の色々な場所を見てきました。その中でも一番心に残っているのが、灯りのない神戸です。夜空には星とヘリコプターのライトだけしか見えません。本当の暗闇です。私はすごく恐怖を感じましたし灯りの綺麗な神戸の変わった姿にショックを受けました。そして2度とこの暗闇は見たくはないと心の中で思いました。ですがこの暗闇は2011年の東日本大震災でまた見ることに、、、しかも自分の住む町で見てしまいました。この時に神戸で見てきた色々なものを思い出しました。皮肉にも月や星がきれいなんですよね、、、
でも復興された神戸を見習って前向きに頑張ろうとその時思いました。
阪神淡路大震災から20年、よくぞここまで復興されました。

梨本太一
(45・男性・宮城県仙台市泉区・会社員)
2014年12月27日 15:28
母と三宮で買い物

高校2年生でした。翌週に修学旅行を控えており、母と三宮に黒いジーンズを買いに行きました。夕食前、部屋で勉強をしていると少し揺れました。ほんの少しの揺れなのになぜかとても怖くなり、両親のいるリビングに急いで行ったのを覚えています。今でも黒いジーンズを見ると震災を思い出します。

muku
(37・女性・西宮市・主婦)
2014年12月27日 15:26
三宮で友人の結婚式

友人の結婚式が三ノ宮のホテルでありました。久し振りに会った友人たちと二次会、三次会と盛り上がり、気がつけば、夜12時、翌日それぞれ仕事があったので、お幸せに!又みんなで飲もうって言って友人4人で三ノ宮駅までダッシュして なんとか最終電車に飛び乗り大阪まで帰って来ました。車中で学生時代やったら朝まで飲めるのにな!などの会話をしながら帰って来ました。幸いにも友人夫妻は無事でした。

まささん
(52・男性・横浜市・会社員)
2014年12月27日 15:00
新幹線で東京へ

翌日からの研修のため、午後の新幹線で東京に向かいました。三宮駅からフラワーロードを歩き、新神戸駅1階の店で蕎麦か何かを食べたことを覚えています。新幹線車中の記憶はありませんが、宿舎に到着し、入日が赤いなと思いました。当時は東京で地震にあう心配をしていたので、気になったのだと思います。

shinji50
(64・男性・明石市・無職)
2014年12月27日 14:57
主人とケンカしてしまい…

20年経った今でも鮮明に覚えています。今の主人と交際中でしたが私宅で世を明かしケンカをしてしまいお互い別々のベッド(シングルベッドを二つ置いてました)で寝ました。そしてあの大震災。。。主人が寝ていたベッドはくの字に曲がり窓際だったのでガラスがベッドに散乱、二人とも震えながらマンションから見える阪急電車の線路を見て、西のそらの真っ黒な煙など見てました。何が自分達に起こったかさえ分からずただただ震えていました。

ポックル
(42・女性・西宮市・)
2014年12月27日 14:49
湊川の祖父宅へ遊びに

中学三年、受験の年でしたが、連休ということもあり、湊川に住む祖父宅へ遊びに行っていました。
地下鉄を使い、大開通りを歩き、スーパーの『トポス』で買い物。

数時間ズレていたら今は有りませんでした。

ふじわら
(35・男性・神戸市垂水区・会社員)
2014年12月27日 14:32
やたらと街が静かでした

震災の前日は当時つき合っていた彼女の成人式の翌日で、柏木ビルの中にあったと記憶している貸衣装屋さんに、彼女と振り袖を返しに行きました。その後、芦有道路の途中にある展望台で夜景を見た後、車を友人に返しに行き、その帰り道だった深夜、やたらと街が静かだなと不思議に思ったことを今でもよく覚えています。思えば、生き物の音が全くしてなかったんですね…。柏木ビルも展望台も、震災で倒れたり崩落したりして、当時の姿が今残っていないのが残念でなりません。

坂巻明
(42・男性・神戸市東灘区・)
2014年12月27日 14:29
家族みんなでお鍋でした

家族みんなでお鍋を食べていました。珍しく家族が揃ったのでケーキ焼いたりして楽しくすごしたように記憶しています。

ダイママ
(39・女性・宝塚市・)
2014年12月27日 14:29
凧揚げ大会に行きました

1歳10ヶ月でした。近くの児童センターで手作りした凧を持って、近くのグラウンドであった凧揚げ大会に行ったそうです。震災後、そのグラウンドの敷地にある体育館は避難所と遺体安置所になりました。幼すぎて記憶はほとんどありません。

YM
(21・女性・西宮市・学生)
2014年12月27日 14:26
山歩きをしていました

1月14日、浜坂町でカニを腹いっぱい食べて一泊、翌日帰宅。兵庫県北部はかなり雪が降っていて、車の運転が大変でした。当時、山歩きを盛んにやっていて、カニを食べすぎたので運動をしなければと、単独で、有馬から落葉山、灰形山・油槽谷山を経て六甲山に登り、最高峰を経て魚屋道から有馬に戻りました。油槽谷山あたりから残雪が多かったのですが、細心の注意をして無事に下山できました。
そのあくる日の早朝、大地震。幸い、須磨区の北落合では、家が倒れたところはありませんでしたが、この地震が、20時間ほど早く発生していたら、雪の山の中でどんな目に遭遇していたかを思い、ぞっとしたものです。
それ以来、どんな易しい山でも、単独で歩くことはしていません。

KS
(74・男性・神戸市須磨区・無職)
2014年12月27日 11:39
中学2年生でした

連休最終日の休日。当時中学2年生でした。夕食におでんを食べて宿題の作文たしか「家族について」といった内容だったと思います。それを済ませていつも通りに布団に入りました。
 たしか数日か数週間前に神戸新聞に「神戸に地震の可能性」みたいな記事があったように思います。地震後その事を時々思い出します。

佐藤 章
(34・男性・姫路市・会社員)
2014年12月27日 10:54
その時生まれた息子が二十歳に

震災の約1ヶ月前に次男が生まれ、震災の前日3連休の最後の日に、震源地の淡路島が見える垂水の妻の実家に、妻と、生まれたばかりの次男と、1歳の長男を迎えに行きました。二人目は簡単に出てきたとか、お母さんがいなくて長男は時々思い出したように、お母さんはと言って泣いたなどと話をした後、高砂の社宅に戻ってきました。次男はベビーベットに、私と長男と妻の三人で狭い社宅で川の字になって寝ていると、軽い地震で目が覚めました。中々揺れが収まらないと思っていると急に大きな揺れになり、食器が落ちて割れる音や、箪笥が長男のほうに倒れそうになり、身構えたところ揺れが収まりました。その時生まれた息子が二十歳になり、今年、自衛隊に入りました。新人訓練終了後、大雨の災害が続いていた時、次は自分達が出動するかもしれないと言いました。神戸新聞でも震災をきっかけに防災の仕事に就く人の特集がありました。震災世代の子供たちが立派に成人したことを祝うとともに、東北の子供たちには、大きくなったら人のために何かして上げられる能力と優しい心を持つことができるように応援していきたいと思います。

A
(52・男性・加古川市・会社員)
2014年12月27日 02:39
夕焼けがやけに赤い色でした

夕方、家族と買い物をし、帰路、やけに夕焼けの赤い色が濃く、妙に気になった記憶があります。

MEHARI
(55・男性・三田市ゆりのき台・団体職員)
2014年12月27日 02:06
結婚1年後でした

結婚してようやく1年が経った頃でした。
慣れない家事と仕事の両立に疲れているはずなのに、
眠ることができず、午前3時頃にお風呂に入り、寝たばかりで地震が起こりました。
後で思うと、ひと月ぐらい前から、リモコン操作できる電化製品、
ステレオや蛍光灯が、帰宅すると点いていたりしたのも、前兆だったのかなと思います。

とりどん
(47・女性・神戸市灘区・主婦)
2014年12月27日 01:58
卒業論文の提出間際でした

当時は社会人で夜間大学に行っており、卒業論文の提出期限1日前で睡眠不足になりながら、書き上げたことが、記憶に残っています。地震の際に身重の妻を抱え起こしてから、次に向かったのが散乱した卒業論文の原稿でした。その後提出しようにも大学に1週間行けなかったことを覚えています。

steinberger
(48・男性・神戸市灘区・会社員)
2014年12月27日 01:44
父とホームセンターに

父とホームセンターに買い物に出かけていました。商品に触るたびに、静電気を感じ、空気が乾燥しているのかな?と思っていました。それが、地震の予兆だったのかどうかわかりませんが、記憶しています。そのホームセンターも地震で壊れました。

前畑 周
(39・男性・神戸市灘区・技術者)
2014年12月26日 23:29
偶然地震の話題に

独身時代、前年に結婚し長男が生まれて間もない友人夫婦宅へお邪魔していました。
その友人は社宅の4階に住んでいましたが、奥さんのほうが言っていたことが印象に残っています。
「もし大きな地震が来たら、この子(長男)を布団にくるんで地面へ放り投げようと思う。この子だけでも助かって欲しいから」と。
実際にはその子は放り投げられることもなく皆無事でしたが、前日に何故そんな話になったのかは覚えていません。何か予感でもあったのでしょうか。

しろくまくん
(42・男性・神戸市須磨区・)
2014年12月26日 23:10
「幸せ」と思うことが怖くなった

実は長男が前日の1月16日が誕生日です。20年前の誕生日はお休みの日で、夫、長男、次男、3か月の長女、そして私の5人で食事をしました。寒かったので夕食はお鍋。しめに夫が雑炊をしてくれて、おいしいと言ってみんなで食べました。そのあと長男の8歳の誕生日のケーキを食べ、(しあわせだなあ・・・)と、しみじみ思ったことを覚えています。ところが次の日震災があって、明るくなるにつれて被害がわかってきたとき、前日に幸せと思ったことをすごく後悔しました。関係ないけれど私がそう思ったからたくさんの方が亡くなったような気がして、それ以来「幸せだな」と思うことが怖いです。

結城紬
(55・女性・加古川市・専業主婦)
2014年12月26日 21:59
遠くから聞こえた地鳴り

当時は垂水の市営四階に住んでいました。
夜更かしをしていて、朝方まで起きていて寝ようと寝室へ。
ベッドに入ってしばらくすると、遠くから地鳴りがしはじめたんです。
後から思えば、いつもならすでに雀たちがチュンチュンと鳴いているのに
あの時は怖いほどの静けさでした。
最上階の四階にいたこともあり、うねるような揺れに建物崩壊を覚悟した程
でした。布団をかぶって、まだ結婚はしてませんでしたが後の旦那が飛んできて
布団にもぐり二人でおさまるのを待ちました。とても長く感じ、夜が明けない
朝という空模様とあの空気感を今も鮮明に記憶しています。

りりぶ
(44・女性・播磨町・主婦)
2014年12月26日 21:53
もし実家の部屋に寝ていたら

私の実家に前日から1歳半の娘と泊まっていて夕方だったかな〜軽い地震がありましたが、地震速報も流れず気のせいかなぁ〜と、思ってました。
母は明日も祝日やったら泊まっていけば?と言いました。
普段なら泊まると思うのですが、夜遅くになりましたが帰り翌朝、阪神淡路大震災が起きました。
父に聞けば、実家に帰ったら寝ている部屋はタンスが倒れていたそうです。

貧困女子
(48・女性・神戸市北区・パート)
2014年12月26日 21:52
父、母、妹、私の4人で買い物

震災は私達家族にとっては忘れる事のできない日となり前日は父、母、妹、私の4人で買い物と食事と娯楽といった1年に一度あるかどうかのとても楽しく充実したこんなに幸せな日はないと思えた1日を過ごしたので翌朝まさか大地震にあうとも想像もしていませんでした。
最初は地震ではなく住んでいた建物が老朽化して揺れて崩れて折れると思うような衝撃を今でも覚えています。
幸いにも誰も怪我もなく着の身着のままで建物の外に逃げましたが全壊で住むことができなくなり近くの小学校で半年間避難生活を送りました。

みーみー
(47・女性・神戸市兵庫区・主婦)
2014年12月26日 21:34
京都へ行っていました

冬の京都は人も少なく3連休といえども穴場、家内と鷹ガ峰の光悦寺・源光庵へ。源光庵の丸窓から冬枯れの庭を眺め、夕食は雲月ではなく三宮駅前のやかましい夫婦がやっている串勝屋へ。安い串カツでしこたま熱燗を飲み10時ごろ風呂も入らず就寝。酒で熟睡したためか縦揺れは記憶になく横揺れがひどくなって飛び起きました。震災前日の思い出は源光庵の丸窓からの枯れた庭と、今も二宮でやっている串勝屋のご夫婦です。

M.INOUE
(67歳・男性・神戸市須磨区・無し)
2014年12月26日 21:02
食事中に感じた地震

震災前日の夕食時、家族で食事中に「震度1」程度の地震を感じた。「あれ・・地震?」との会話をしたのを覚えている。しかし、翌日の大地震の前触れ?だとは、家族だれひとりとして考えもせず、いつも通りの平和な家庭だった。
大震災の前日の「震度1」は、震災後かなり経過してから、「そういえば・・・・」と、回想したのを、はっきりと覚えている。

オールドミカゲ
(64歳・男性・神戸市須磨区・鉄道写真家)
2014年12月26日 21:01
奇妙な夕焼けでした

阪神淡路大震災の前日は、家族で姫路周辺をドライブしていました。
その1月16日の夕刻、仰ぎ見た空の色の奇妙な夕焼けを、
妙な色だと云った記憶があります。
その翌日に、あのような大参事が起こるとは、夢にも思いませんでした。

スミス
(59・女性・加古郡稲美町・アルバイト)
2014年12月26日 20:43
地震発生の12時間前

前日は阪神競馬場からの帰りで道が大変混んでいました。トイレに行きたいがために、京橋サービスエリアに車をとめ、スタミナうどんも頂きました。地震の12時間前の5時半でした。

幸村
(61・男性・明石市・公務員)
2014年12月26日 20:19
どこで地震が起きてもおかしくない

大好きな神戸に遊びに行った帰り途、明石の大型スーパーの地下駐車場内でカーラジオから流れてきた震度1の地震情報。
 その頃、大手銀行が関東地方での地震に備えて神戸にスパコンを置いたなど、神戸は絶対地震のこない安全地帯であるとの噂が多かったように思います。
それでもその1週間ほど前に神戸新聞で読んだ「神戸でも大型地震の可能性」の記事が頭をよぎり、主人とその話をしました。
翌朝の地震の時、一番にそのことを想い出しました。
日本中どこで地震が起こってもおかしくない。そう肝に命じました。

ぺこちゃんさん
(42・女性・赤穂市・パート)
2014年12月26日 20:18
夜8時台にあった地震

1/16日、夜8時台だったと思います、地震があったんです。前触れだったんですね。
息子が塾に行ってる時間で結構揺れたので覚えています。
あくる朝に、まさか関西に大きな地震がくるとは思いもよりませんでした。

ミッキー4
(65・女性・垂水区・主婦)
2014年12月26日 20:16
晩ご飯の時に地震の話題

震災がくる数日前のテレビである学者さんが「関西で特に神戸周辺は大きな地震が起きる可能性が大いにあります」って言っていたのを見ました。そして震災前日に震度1ぐらいの軽微な地震があり、家族で晩ご飯時に「今日、小さな地震があったね~」という会話になり私が「そういえばある学者さんが神戸は大きな地震が来る可能性があるよ~って言ってたよ~」っていう会話をしました。まさか翌日にソレが来るとは思ってもいませんでした。

しおさば
(39・男性・垂水区・)
2014年12月26日 20:07
結納を持ち歩きました

1995年1月16日は長女の結納を頂戴する日でした。床の間の前を広くあけておかなくては・・・と前日に洋服ダンスや整理ダンスを別の部屋に移し、結納は無事床の間におさめられました。そのあと両家とお仲人さんで神戸駅前の料理屋さんで和やかに夕食をいただき、午後7時ごろには自宅に戻りました。その夜は嬉しさと少しの寂しさを感じながら床に入り、17日の朝、あの揺れに襲われました。箪笥を移しておいたおかげでけがをすることもなく無事でしたが、家は半壊し、玄関のドアの鍵が閉まらなくなったので、銀行が業務を再開するまで結納は肌身離さず持ち歩いたという貴重な体験をしました。

はるママ
(70歳・女性・神戸市西区・主婦)
2014年12月26日 20:04
冗談半分で地震が来ると

家族3人で家にいました。
午後6時半ごろ、珍しく震度3ぐらいの地震があって
夫と「そろそろ大きな地震が来るんじゃないの?」などとと話していました。
冗談半分な感じで言ってたのに、早朝にまさかの大地震。
すごく印象に残っています。


マージ
(50・女性・西区・)
2014年12月26日 19:52
続いていた地震に不安

地震などほとんど体験しないまま大人になりました
もちろん怖さも知らなかったのに あの日の前日 主人が小さかった子供達をお風呂に入れてくれている時にテレビを見ていたら地震速報が 確か 猪名川で震度○と 住んでいるところは全く影響ありませんでした
でも、あれ?続いている?と感じたとたんに すごく不安になり 洗面所に行き お風呂の中の主人にむかって 『地震やって なんか続いてる気がする 怖いわ』と口にして 部屋に戻りました
まさか翌朝あんな事になるとは夢にも思いませんでしたが 前日のモヤモヤしていたのがすごく印象に残っています

せん
(47・女性・明石市・パート)
2014年12月26日 19:46
あまりに普通の日常

当時受験生だったので受験勉強をして、
普通に家族そろってご飯を食べていたと思います。
あまりに普通すぎるくらいの日常で、
まさか翌日に日常が非日常になるなんて考えもしませんでした。

スイ
(37・女性・神戸市西区・)
2014年12月26日 19:31
出産を控えていました

震災の前日は主人の会社の方々との新年会が新聞会館の中華料理屋さんでありました。主人は持病の治療で退院したばかり、私は三人目の出産を控えていたので、参加はしませんでした。震災の日は家の瓦が落ちたりしましたが、一部損壊ですみました。翌日18日に無事娘を出産をしました。娘の誕生日を迎えるたび、あれから何年経ったのかと思います。

N
(44・女性・神戸市西区・パート)
2014年12月26日 17:47
スキーの準備をしていた

震災の前日は仕事でした。
帰宅して夕食を食べてから、翌日のスキーに行く準備をしていました。
早朝の地震でスキーどころではなくなりましたが、前日は友人たちと待ち合わせ時間の打ち合わせや持ち物の確認などでワクワクし 気分は盛り上がっていたのを思い出します。

ようこ
(57・女性・高砂市曽根町・主婦)
2014年12月26日 17:36
中学2年生だったわたし

中学2年生だったわたしは不登校であまり行けていない学校に次の日行こうかな~と思いながら過ごしていました。ひさびさに会うクラスメイトを想い少し緊張しながら過ごしていたのを思い出します。次の朝、あ~もうすぐ起きなくちゃな~と思った時に阪神・淡路大震災が起きました・・・

シカ子☆
(34・女性・宝塚市・アルバイト)
2014年12月26日 17:24
いつもと少し違う1月16日だった

その日は…前日までベビーベッドで8ヶ月の息子を寝かせていたのですが、毎晩寝返りする度にベッドの柵にどこかをぶつけて泣くのでその日の夜から主人と私の間で寝かせた結果、揺れ始めから直ぐに子供に覆いかぶさる事が出来ました。また、私も数ヶ月前から出しっ放しにしていた指輪やネックレスをきちんと引き出しにしまったり、主人はいつもと違う場所に眼鏡を置いて寝たりと、どちらも紛失や壊れることなく無事でした。私の実家では十数年ぶりに母が熱でダウンしたり、父は結婚してから一度もしたことなかった掃除機掛 けをしたり、弟も前日と違う部屋で就寝することにより、和ダンスの下敷きにならずに済みました。不思議で、それぞれいつもと少し違う1月16日だった様に思います。

コアコアラ
(47・女性・神戸市須磨区・主婦)
2014年12月26日 16:58
パンとお茶に救われる

震災の前日のことはよく覚えていませんが、翌朝に食べるパンとペットボトルのお茶を用意して就寝しました。惨事の日、そのパンとお茶のおかげで、一日持ちこたえることができました。

Tちゃん
(45・男性・神戸市須磨区・会社員)
2014年12月26日 15:56
小さく突き上げるような

1995年1月16日。
その頃生花(嵯峨御流)を習っていた私は、夕方からポートピアホテルで行われた《嵯峨御流 神戸司所》の新年会に出席していました。
毎年数百名が参加する盛大な新年会で、その日はお気に入りのモスグリーンの付け下げを着てお稽古場の先生や先輩、お友達とテーブルに着いていました。

18時半頃だった、と記憶しています。
椅子の下から コツン っと小さく突き上げるような感覚。
気づかない人もいらっしゃいましたが、先輩と友人のうち数名も気付き
『何だろうね?地震?でも揺れてないね。』
と周りを見回していました。
他のテーブルでも気付いた人は少なかったのか大きくざわつくこともなく、会場は壇上の進行をごくごく普通に注視されていました。

翌朝があの阪神淡路大震災です。
やはりあれは大震災の予兆だったのでしょうか。
震災後しばらくして落ち着いた頃にお稽古場に集まって先輩方と話しているときにもそのような話になりました。

幸いにも身近では大きな怪我をされた人も亡くなった方もありませんでしたが、私自身の震災前日の記憶として、この前日の出来事は忘れることがありません。

茉里花
(51歳・女性・神戸市垂水区・主婦)
2014年12月26日 15:46
ガラスケースがガタガタと

震災の前日
その頃、私と主人、2才の息子と
産まれて5カ月の娘は
名谷の公団に住んでいました。
前日の夜、灯油を買いに行った主人。
留守番しているとき
軽い地震があり
掛け時計を見上げると
その隣の飾り棚の上で
子供たちの破魔弓と羽子板の
ガラスケースがガタガタと
音を立てて揺れていました。
大きな地震があったら
この下で寝てる私は
危ないなあと思ったのに私は
その下で眠ってしまったのでした。
(なんとか3針縫う怪我だけですみました。)

ひまこ
(51・女性・神戸市北区・パート)
2014年12月26日 15:06
働いていました

淡路島の会社で、働いていました。

みゅうぷりん
(40・女性・洲本市・主婦)
2014年12月26日 14:27